6月4日(土) ロシアのウクライナ侵略に想う

「住職の安心して迷える道」は1年半ぶりの執筆となる。コロナ下で、コロナについて何度も書こうと思ったが、コロナに関する法話を冊子化してくださったり、他の会報誌にも寄稿していたので、なかなか手が動かなかった。そんななかでロシアのウクライナ侵略というまさかの戦争がおこった。色々感じたことがあったが、戦況を少し見極めながら、ウクライナ侵略戦争について書こうと思い、ロシアのウクライナ侵略から100日以上経った現在、この原稿を書きはじめることにした。足元でも、お寺のウクライナ難民救済の募金箱にもたくさんの募金がよせられており、この戦争の深刻さを感じているところである。

侵略当初は19世紀の帝国主義戦争を思い起こしたが、今は、さらに冷戦すら終わっていなかったのかと唖然としている。まさに現在進行形として、冷戦が続いていることだ。ロシアにとってウクライナは代理戦争に過ぎない。ロシアは、冷戦終結後のアメリカや北大西洋条約機構(NATO)が形成してきた国際秩序に反発、挑戦している。ウクライナがNATOに加盟すれば、ロシアにとって大きな脅威となるから、口実をつけて何としてもウクライナの非武装化を狙ったのである。民主主義対専制国家の戦いと言われているが、そう簡単な図式に収まるほど単純ではない。

ただ、どんな理由(ナチ国家ウクライナからロシア系、親ロシア派の民衆を守るといった見え見えの口実)があるにせよ、ロシアの力による領土拡大は許されるべきことではないし、民間人までも平気で虐殺することは絶対に容認できるものではない。ロシアこそナチス以上ではないか。「侵略したもの勝ち」ということがまかり通れば、台湾有事も現実的なものになるかもしれないし、また、この100日の間で、国益のためにヘゲモニー(覇権)闘争を激化させている国々も見受けられる。世界秩序が保たれなくなった状況を作り出してしまった。まさに世界秩序の再編の時代を迎え、戦争の危機は高まるばかりである。

今回の侵略戦争において、その生々しい様子がテレビやSNSで見ることができるのも今までなかったことで、情報戦やデジタル戦が展開され、偽情報やフェイクニュースも新しい戦術となっている。また原子力発電所を攻撃するといった考えられないことも起こっている以上、核兵器の使用ということが現実に起こり得る可能性すらある。

ロシアは今までも散々プロパガンダを多用してきた国だが、SNSの普及で、何とか多数のロシアの人たちにも真相にふれてもらいたいものだ。だいたい、ロシア・ウクライナ・ベラルーシが三位一体のスラヴ民族の国家というが、そもそもロシアは多民族国家であり、ウクライナ侵略も少数民族が兵士として多く動員されている事実を見てもわかるというものだ。また、ウクライナのゼレンスキーはユダヤ系である。

そして、出口の見えなくなってしまった戦争で、一番戦争から距離のある民衆、とりわけ高齢者、子ども、女性に大きな被害がもたらされている。これ以上の死者を出さないために、早期の停戦が願われるが、現実はなかなか難しい状況で、私自身どうしていいかわからない。

人類の歴史は、まさに戦争の歴史であった。「二度と戦争はしてはならない」と叫んできた人間が、結局戦争を続けてきたのである。そして戦争が始まってしまえば、人間は狂暴化する。兵士は、民衆を拷問、レイプ、大量虐殺など平気でできてしまうのである。まさに業縁存在である。

ただ他人ごとではない。この戦争を見る時、日本の帝国主義時代を思い浮かべてしまう。ロシアはウクライナを生命線と言っているように、日本も満州を生命線として、大東和共栄圏を唱えていた。ロシアはプロパガンダによって、戦争を有利にすすめていると国民に訴えていたが、キーウの早期陥落に失敗し、ハリキウの占領にも失敗し、撤退を余儀なくされた。日本も戦争に負けるまで、国民は勝利を信じていた。マリウポリの人びとを極東に移住させ強制労働をさせているとの情報もあるが、日本も朝鮮人に強制労働を課した。第二次世界大戦後の国際秩序以前の日本と以後のロシアの動向については、まったく同じようには扱えないという専門家もいるだろう。それはそうかもしれない。だが自我を絶対化している現代において、縁があれば、人間は何を考えどう行動するかわからないという根本を見失ってはならないだろう。自我は、対象化してものを見るが、自分がなかなか見えないのである。これが国レベルになっても同じである。国の考えと言っても人間の考えだからである。核兵器がなければ国を守れないという考えを持つ国が現われてきている。日本は唯一の被爆国として非核三原則を守っていけるだろうか。状況が変われば、核を持つべきという政治家も現れてくるかもしれない(現にいそうだが)。人間の立てる善悪こそが危ない。親鸞は「善悪のふたつもって総じて存知せず」と言われている。教えによって人間の愚かさに気づかされた親鸞が常に語っていたことである。特に人間は善に迷うのであり、善が悪に、悪が善にと状況によって変わってしまうのである。その人間の自我を超える真実のはたらきに出遇うことが人間に求められている宗教心ではないだろうか。

ロシアのウクライナ侵略が始まった時、早く戦争が終わるように祈らざるを得なかった。人間はなんと愚かなのだろうかと考えずにはおられなかった。ところが、私事でお恥ずかしい限りだが、ウクライナがキーウを解放してロシアを退けたニュースを聞いて大いに喜んだのだ。その時、如来の声が聞こえてきた。「ロシア兵にも親がいると。あなた自身の愚かさに気づきなさい」と。私は、ロシア兵も尊いいのちが奪われ、戦死し、その死を悲しむ人たちがいることが頭からまったく離れていた。ロシアの力による現状変更ばかりに気をとられ、「どのいのちも尊い」ということを忘れていた。私こそが、業縁を生きる愚かな凡夫であったのだ。如来は一切衆生を救いの対象としているのだ。私は善に迷っていたにすぎなかった。あらゆるいのちは、諸々の縁によってつながりあい、ささえあって生きているから、どのいのちも平等に尊いという教えに背いていた。ウクライナ人もロシア人も皆尊い。釈尊は、縁によっては、牛として、あるいは牧草として生れてきたかもしれないと言っている。人間だけでなく動植物ともつながっている。動植物のいのちも尊いのである。どのいのちもつながりあっているのだから、ウクライナ人やロシア人を傷つけることは自分も傷つけることになるのだとあらためて教えられた。

陥落間近のマウリポリで(今は陥落してしまった)、大学に勤務するあるマリウポリ在住の女性が「この侵略に対して、ロシアに憎しみや怨みを持ってはならないと子どもたちに話しています。(憎むべきはプーチンです。)なぜなら、それがまた戦争を引き起こすからです。そして、皆さん私たちを見捨てないでください。」と涙ながらに語っていた。この女性の声を聞くと、人間である以上、プーチンはもちろん、マリウポリを破壊し、多くの民衆を虐殺したロシア兵に憎しみをいだいていないわけがない。悔しくて悲しくて憎しみがあふれ出ているようにも見えた。それなのに戦争はいけないと、それは復讐の連鎖であり、傷つけあうことを繰り返してしまう人間の愚かさ(凡夫)を知っていたのだと頷かされた。いつ殺されるかわからない状況の中で、どうにもならんという状況の中で、人間の自我を超えた真実が彼女の上に具現していたと感得した。そして「私たちを見捨てないでください」と。人間は無条件に自分を包む世界に出遇うことが究極の願いではないだろうか。これは弥陀の摂取不捨の利益のことだといただいた。

人間は自我分別を持っている以上、業縁を生きる愚かな凡夫である。それはどんな人間にももれなく当てはまる。「全世界の衆生よ、愚かな凡夫と自覚せよ」という本願の祈りに耳を傾けていきたいものである。その祈りが聞こえてくるかどうか、私はもちろん、一人ひとりの課題だと思う。自我世界は差別世界であり、自我のみでは戦争はなくならない。しかし、凡夫の自覚を通して「お互い凡夫だな」と頷きあえたら、開かれた関係性が生まれるかもしれない。

*この文章は、だいたい前半の7行目あたりまでをカットし、7月に発行される「あなかしこ」73号の巻頭言として読んでいただきたく、「あなかしこ」にも転載いたします。

〔2022年6月4日公開〕