7月1日(火) これから…

今年も半分が終わってしまった。年々スピードがついて月日が過ぎていく。高齢者になっても変わらず時間に追い回される生活が続いているが、年齢を考えて活動しなければならないとわかっていてもなかなか減ることはない。ふと、「住職の安心して迷える道」を3年書いていなかったことを思い出し、思いついたまま書こうと思い、書き始めたところだ。

コロナの終結の兆しがほんの少し見え始めた2022年の秋ごろから、仏事等が増えはじめ、首都圏の法話依頼のみならず、地方の教区や組、別院、そして本山での法話なども増えだした。コロナ下以降、全国的に、教区なら教区内で講師を依頼する傾向が強まった感はある。また、なんとか聞法会を、報恩講をという願いをもって再出発するお寺も多いが、なかなか門徒さんが寺にもどってこない傾向が強くなっている感もある。

しかし、コロナ下にあっても、聞法会や報恩講など全く関係なく、盛んな寺を何カ寺も見てきた。例をあげたらきりがないので、2か寺ほど紹介する。

  • 本龍寺さんの報恩講の様子と手作り薬膳料理
  • 浄秀寺さんの「仏教聴聞会」

時折法話をさせていただいている愛知県の安城市にある本龍寺さんは、3昼夜4日間の報恩講をコロナ下でも決行し、お持ち帰りにしていても手作りの薬膳料理も必ず作り、お斎の大切さも忘れない。

4日間、日替わりの講師で、小生が2023年12月の報恩講で法話したときは、コロナ下でありながら満堂、他の日もすべて満堂だったようで、4日間、正信偈が響き渡っていた。日ごろのご住職と坊守さんのご教化、ご門徒の聞法姿勢が、コロナ下だろうと基本的には何も変わらない姿勢に学ぶべきことが多いお寺である。

またこれも2023年であるが、石川県能美郡川北町の浄秀寺さんの「仏法聴聞会」。これは藤原鉄乗師と暁烏敏師が夏季講習(5日間)を開いたことからはじまり、今は「仏法聴聞会」という名前で伝統を引き継いでいる。コロナ前までは2日間行われていたが、コロナ下により1日になった。コロナ下だというのに、100人を超えるご門徒が参集した。このころはマスクをして法話をしていたが、「マスクをとって」という声があちらこちらから。一番前にいた90歳をはるかに超えているおばあちゃんが「マスクをしていると表情がわからん。表情から伝わってくるもんだ」と言われ、本当におどろいた。聴聞の基本は、場に足を運び、膝と膝をつきあわせて聞き合うことにある。口の動き、表情、視線が合う、手ぶり…一つひとつが仏法聴聞には大切な要素なのだ。Zoomも今や大切なツールではあるが、Zoomではけっして感じ取ることができない対面での聞法会のすばらしさがここにある。一応、飛沫対策として、ご住職に演台にアクリル板を用意してもらった。小生のひと言ひと言に反応するご門徒。場の力を感じたことだった。

そんなお寺もまだまた数多くあるが、全体を通してみれば、コロナ以前にもどるまではかなり時間がかかるというより、池田勇諦先生が言われる「ゼロからの出発」という気持ちが大切だと思っている。

お寺離れが急速に進み、同時に世代交代も進んだ。念仏相続がなされていない家庭は、当主が変わると、それまでとはまるでちがう状況が生まれることも多々ある。これからのお寺は過疎地に限らず、都市でも廃寺がすすんで行くように思われる。お寺も念仏相続、そして経済的に苦しい時代を迎えている。

ところが世の中はまさに、人間関係、自然関係が崩壊の一途をたどっており、ロシアのウクライナ侵略、中東での戦争に留まらず、日本も戦争にまきこまれていく危険性すら出てきており、完全に世界秩序が破壊されている。それはすべて人間がしでかしたことである。だからこそ人間の無知の闇を鋭く見つめ続ける阿弥陀さんの眼が、実は人類が待ち望んでいることではないかと思うのである。表層では寺離れが進んでいるが、深層では、これからがお寺がより活発になっていく時代ではなかろうか。もちろん、葬儀や法事など、大切な人の「死」をごご縁して、死すべき身を何を大切に生きるのかということについて、益々力を入れていかなければと思う。

お寺はもともと、一人ひとりが生きるうえで大切な場である。時代の価値観に振り回されない普遍的な教えを持っている。あらゆる出来事は仏法と関係しているので、まず住職である私が、生活を通して教えに自分を学んでいくことが原点である。まずは「ひとり」からの出発なのだと思う。そしてはじめて門徒さんと「ともに」語り合うことが可能となってくる。

コロナ中は充電期間といわれていた面があるが、お寺の聞法会、あるいは自主学習会等はほとんど実施してきた。報恩講には特に力を入れてきた。そういう聞法会・法要に、コロナ前より少なめであるがご門徒もしっかり足を運ばれていた。皆、何か問題を抱え生きているからだ。これからのお寺は、教えをもっと前面に出していくことが大切である。本山や教区、組といった単位も大切であるが、ご門徒をお預かりしている寺で活発に聞法活動をしていくことが根本にないと、「自信教人信」も「ともに」も、うわついた言葉にしかならないのではないかと思う。安田理深先生の「一人ひとりが一人でないといけない。一人というのは独立者でしょう。独立者と独立者、それが共同体なのです。一人ひとりをやめて一つにするのではない。一人ひとりが独立者なのです。独立している者と独立している者が共同体なのです。そうでないと僧伽ということにならないのです。」というお言葉を噛みしめている。

そして、寺所属のご門徒だけでなく、寺に訪れる方を喜んで受け入れていく姿勢をさらに拡大していきたいと思っている。朝、6時に門が開くが、朝早くから、所属門徒だけでなく、地域の人が散歩しながら本堂に向かって、親鸞聖人の像に向かって手を合わせている光景を見ると、お寺に求めているものがあり、本願の歴史の重みを感じる。このところ、朝の境内に人が増えてきている(真夏だけは、すでに暑く人は少ない)。

まもなく、七夕である。近隣の保育園や介護施設から笹をもらいに来る。園児たちやご老人のうれしそうな顔が目に浮かぶ。お寺は地域にも根ざしていくことも今後より求められるであろう。

  • 真宗光明団東京支部記念法座・記念式典

2021年より、真宗光明団東京支部とのご縁を持つようになった。そこで法話をさせていただくのだが、真宗光明団東京支部は、佐々木玄吾先生を中心に門徒さんが核となっている。門徒さんが法話を担当することも多い。かつ本願寺派の僧侶なども参加しているので、大谷派だけではない空気がまた新鮮である。生活から各自が問われていることを大切に聞法している姿に学ぶべきものが非常に多い。6月15日には、真宗光明団東京支部70周年記念法座の記念法話をご依頼された。3つの会場に分け、Zoomを使って、記念法座と記念式典が勤められた。住岡夜晃先生や細川巌先生の冊子や本を多少読んだ程度なのに、少し荷が重かったが、はじめての若い人の参加も多く、光明団の人たちが、ある意味我々以上に念仏相続を真剣に考えていらっしゃることに頭が下がり、記念法話を引き受けた。

ちがう空気を吸うということで言えば、2年前から仏教情報センターの「仏教テレフォン相談」の一人に加わえていただいた。以前、小沢牧子さんの「こころの専門家はいらない」という本を読んで感動したのだが、「本当に必要なのは心の専門家ではなく、めぐりを共有している人たち」という小沢さんの言葉を大切にして、相手の話すことをじっくり聞き、こちらが学ばせてもらう気持ちで寄り添いながら、お互いに話していくうちに、信頼関係が構築され、お互いが気づかなかったことに気づいていく。本当に自分の中にもある闇をむしろ相談してくる人が教えてくれるように感じる。また世の中の人は何に苦しみ悩んでいるかも知ることができ、月1回程度だが、小生には大きな学びの場になっている。

  • 専念寺自主研修会

大谷派の僧侶もさまざまな活動をしているが、自主研修会が増えていることはとてもいい傾向だと思う。私が出講している自主聞法会に、能登半島地震の影響を受けた新潟で一番被害の大きかった専念寺の住職さんが主催している会がある。その大きな痛手のなかで前住職も亡くなり、意気消沈の中で、これではいけないと立ち上がり、真剣に活動をしている法友を集めて自主聞法会を開いている。教化センターの仲間や専修学院で先生をしていた人やら、坊守さんや様々な人が、熱意をもって参加されている。年1回「正信偈」(依経分)に学んでいる。みんな真剣だから、質問もたくさん出るが、真宗を答えとするのではなく、また決めつけずに、生活実感をはずさずに、ここは何を言っているのかという視点を大切に行っている。まさしく僧伽であると思う。こうした僧侶の自主的な研修会が増えていくことは、ゼロからの出発の基本中の基本だと思った。

小生も65歳を過ぎた。これからより幅広く、最後の一息まで聞法精進せよという如来の勅命に押し出されるばかりである。

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※池田勇諦先生が6月29日に還浄されました。私にとっても宗門にとっても大きな悲しみであります。先生のいのちを引き継いで微力ながら、念仏相続に邁進してまいります。南無阿弥陀仏

〔2025年7月2日公開〕