法話のページ

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推進員養成講座「いのちのふれあいゼミナール」
参加者の集いから

二階堂行邦師・法話実況中継
「凡夫という自信」
ダイジェスト版

2000年5月27日(土) 会場: 常福寺
講師: 二階堂行邦師(新宿区・専福寺前住職)

自分とは何か

みなさん、こんにちは。ただいま、教導さんからごあいさつ頂きましたように、「いのちのふれあいゼミナール」本山研修では大変お世話になりました。3日間あっという間に過ぎました。1月ですから、5か月もたっているのですね。またお目にかかりますが、今日はどういう話をしようかなと思っていたのですが、ご案内のように、「凡夫という自信」という講題を付けさせて頂きました。だいたい私の関心がいつもそういうところにあるものですから、講題を早くつけろと言われて「凡夫という自信」とつけたのであります。

その前の組内研修で宮戸先生が非常に明確にお話しくださいましたが、そこには「自分自身を習う、自分を習うということが大事だ。自分が何かを習うというよりも自分を習う、これが仏法だ」ということを懇切丁寧にお話し頂きました。その自分というのは一体どういう自分かということになりますと、改めて問うと、これは分からないのですね。人のことは案外分かるのですが、自分で自分のことがわからないのです。あの人はこういう人だ、ああいう人だ、というように人のことは言えるのですが、それと同じように私はこういう人間だということを一言で言い切れるかというと、なかなか難しいのですね。非常にふわふわしておりまして、今日の自分と昨日の自分とも違うし、また来年の自分も違うでしょうし、いつどこのどういう自分を自分だといえるかということは、大問題でございます。その時に私どもは、親鸞聖人の教えに照らしてみると、一番確かな自分というのは何かというと平々凡々たる凡夫だということでございました。

この前私たちの勉強会がありまして、凡夫ということが話題になりましたが、今凡夫という言葉はあまり使わないですね。凡夫って何だって、凡夫をまた説明しなければならないのですよ。その時いろいろな集まってきた仲間ですが、一人一人が「凡夫は今の言葉でいえばこうだ」と言って、それぞれ語りあったのですが、なかなかピタッとはいかないのですね。要はただの人間ということなのでしょう。

ある先生が、近頃学校の教育ということがやかましくいわれてますが、「教育の理想は、ただの人間を生むことだ」と、こういうことを言った人がいる。なるほどそうだなと思いますね。偉い人間というのは、あとからつけたものですね。裸の人間にいろんな形で付与された、能力とか知識とかそういうものです。ところが人間そのものということになると、ただの人間ということが一番大事なのであって、そういう人間をどうして誕生させるかということが、ある意味では一番教育の本当の理想だ、ということを言った人がいます。ある意味では凡夫を生むということですよね。凡夫というのだから、ただの人間だから、簡単のようだけれど、「私は本当の凡夫であります」ということを言い切るのは困難なのですね。そういうようなことをいろいろ3日間お話ししてたのじゃないかなということを講義録を読み直してみて思います。

「慢の凡夫」と「素の凡夫」

凡夫という言葉も2通りありましてね、「慢の凡夫」と「素の凡夫」。自ら尊しとして、凡夫を見るなら尊しとして眺めるかっていうと、どうも2通りの凡夫という使い方があるのではないかと思います。

「自慢の凡夫」とは何かというと、慢心ってのは劣等感ですね。普通我々が自分で自分のことをどういう人間かといって決めた時は、いつもこれ慢心なんです。人と比べて私のほうがこういう人間だと。「慢の中の自分」「慢の中の凡夫」というのは、ある意味では本当の自信を持って名のれる名前ではないのですね。ですから、凡夫を生み出すなんてそんなこと意味がないじゃないか、というふうになります。

もう一つ、「素の凡夫」というのは何かというと、人と比べてではなくて、慢が破られた、そういう意味の凡夫であります。親鸞聖人が使う「凡夫」というのは、人と比べて私は凡夫だと、そういうことではありません。ですから、凡夫ということを「大小聖人善悪の凡夫」という考え方をします。そうするとどうかというと、慢心でいくと、聖人さまと比べて凡夫。そういう意味でだいたい我々は使っていますね。やっぱり慢なんですね。優れた聖人と、それに対して凡夫というのは劣った者。こういう考え方をします。ところが親鸞聖人はどうもそうじゃなくて、凡夫という範囲の中に、大聖人も小聖人も善人も悪人も、すべての人間が凡夫であると。我々が言ってるのとはちょっと違いますね。いつも比較して、あの人は聖人さまだけど私は凡夫だから駄目だ、というふうに、どうせ凡夫だからという、やけのやんぱちで使っている訳です。ところが親鸞聖人は、「大小聖人善悪の凡夫」だという。どんな肩書があろうともどんな優れた能力があろうとも、ある者もない者も全部凡夫だと。つまり、人と比べてるのではなくて、仏さまの前に座った人間である、と。仏さまの前に座った人間は、どんな偉い人間もどんなにしょうがない人間も、全部凡夫だ。そういうことが、この人生から投げかけられている一つの問いですね。そういうことをうなずくことができるかどうかでしょう。

どうも浄土真宗の教えというのは、裸になった一人の凡夫としてこの人生を全うできるかどうかということにかかってるんじゃないかなと思うのです。徳川時代から明治にかけて、そして今日でも妙好人がたくさんおられますが、浄土真宗の「南無阿弥陀仏」を光として生き抜いた人たちであります。名もない、それこそ凡夫であります。本当の凡夫であります。偉い人はあんまりいないのですね。その妙好人の中に、源左という鳥取県の方がおられます。その方が、「珍しいことだ、凡夫が仏になるということは」と。聖人さまが仏さまになるのは分かる。凡夫が仏さまになるというのは聞いたことがない。非常に珍しいことだということを独白しておられます。そしてある同行さんが、「私は『なんまんだぶつ』を称えて生きているけれども、どうも私は本当の同行とはいえないで、私はどうもニセ同行だ」ということを源左さんに告白したそうです。そしたら源左さんがですね、「ああ、あんたはニセ同行か。それは大したもんだ。ニセになったらもうええで。なかなかニセになれんからな」と、こう言ったそうです。

人間というのは、みんな何かの形でニセを生きているのですね、嘘ついて生きているのです。みなさん、どうですかね、今までの人生の中で嘘ついたこといっぺんもないっていう人いますかね。恐らくいないのではないでしょうか。中にはいるかもしれないけれども、だいたい人間というのは嘘つきたいのですよ。知らず知らずのうちに嘘をついている。ニセですよ。ところが、ニセであるのにニセになれないのですね。ニセが嘘ついてるのだけれども、私は嘘ついたことないっていうような顔して生きているのではないでしょうか。

妙好人とは何かっていうと、みんな普通の、みなさん方のように人生にドロドロになって生き抜いている方であります。だから、「ニセになったらもうええで。なかなかニセになれんからな」と。それと同じように、みんな凡夫なのだけれども凡夫になれないのですよ。凡夫が凡夫になれる道を浄土真宗は説くのではないかなと思います。そういう問題ですね。

凡夫という自信──かの願力に乗ずる

私の寺の門前に掲示板があります。「凡夫とは人間であることの自信」ということを書いて出したのです。ふっと思いついて出したのですが、ある人が「これは誰の言葉だ?」と言うから、「誰の言葉って、自分で書いたのだ」と、それだけの話なのです。自分で書いて出したら、人間とは不思議なものなのですね。自分のなかにしまっているうちはまだいいのです。あんまりはっきりしないのですよ。しゃべったり書いたり、出してしまったらね、もう引っ込みつかないですから、それから考えなきゃならないのですよ。行動するということが大事なのですね。何かの形で業を果たす。そうすることによって、自分の考えていること、自分の思ってることを、真向かいになって考えざるを得ない。「凡夫とは人間であることの自信」ということを思いついて書いた言葉ですが、そういうことを書いたものですから、「凡夫という自信」という講題を今日つけた訳であります。

人間というものは、どんな宗教でも自信の問題だと思うんですよ。自信が欲しいのですよ。自分で自信を持とうと思っても、そんな自信は自分で作ったものはすぐ壊れてしまうのです。慢心の自信ですから。人と比べて違うとか同じとか言ってるのですから、劣等感も自慢も高慢も同じです。そういう自信は続かない。本当に自信を持って生きられないのですね。ですから、人生の課題はある意味では、どういう自信を持てるかです。大ざっぱな話かもしれませんけども、すべての宗教は本当の自信をどうしたら得られるかという問題ではないかと思います。

それは浄土真宗に返りますとね、信ということを「深信」[じんしん]という。信もいろいろあるのですね。浅信もあるし、狂信もあるし、迷信もあります。ただ我々人間は、信がなければ生きてないのですよ。私はいつも思うのですけれど、薬のコマーシャルってたくさんありますね。あれをずっと聞いてるとね、もう信じてしまうのです。風邪ひいたら◯◯◯薬といつも聞いているから、いつもそれ買うのですね。もう完全に洗脳されてしまってね。毎日毎日それ聞いていると、軽々しく信じてしまうものです。そういう信もあるけれども、私たちが本当の自信を持つには「深信」ということがある。親鸞聖人がおっしゃっている言葉ですけれども、そのもとは善導大師という中国の方です。深信はですね、自分自身を深く信ずることです。自分自身を、浅く信ずるとか狂信するとかいうことではなくて、深く信ずるということが大事だ、それが救いだと、こう言っているわけです。では、自分自身を深く信ずるにはどうするか。自分を信じるといっても信じられないですよ、深くは。そういう時に「深信」というものは裏表があって、自分自身を深く信ずるという裏側に、ちょっと難しい言葉ですが、「かの願力に乗ずる」ということがあります。乗ずるというのは、乗りまかせるという意味ですね。我々が電車に乗ったり自動車に乗ったりするのと同じです。運転手さんに全部乗りまかせている。あいつの運転では怖くて嫌だとなると、乗ることもできません。信じてなければ乗ることもできませんね。「かの願力に乗ずる」ということを深く信ずる。そういう面が裏側にないと、自分自身を本当に信ずるということができない。それが信ということの一番の要だと思うのですね。この自信は、自分自身は何かというと、煩悩を備えておる、罪を持った凡夫だということを、深く信ずる。それには、阿弥陀さまの本願力が私に及んでいて、それにすべておまかせするということがないと、自分を信ずるということはできない。しかも、これはおもしろいのですね。かの願力を信ずるということではないのですね。「かの願力に乗ずる」ことを信ぜよ、という。厄介な言葉ですね。「乗ずる」ということは自分で乗ずるのですね。でもみんな仏さまの大きな願いの中に包まれて、その中に乗せられて生きてるんだということが、深く信ずることができるようになる。そういう2面があるのですね。

自分自身を深く信ずるのは、人間が人間として生きるということの一番の要でないかと思うんです。それがどうしたらできるかということでみんな苦しみ悩むのですね。それは何かというと、「かの願力に乗ずる」ということがなければ、絶対に凡夫である自分自身を深く信ずるということは不可能だ、ということを教えて下さるのです。

これは浄土真宗だけではないと思います。キリスト教だって同じではないかと思いますね。本当の宗教はみんなこういう2面があります。そして自分自身は、深く信ずる自分自身の中身は、煩悩を具足して、自分でも思いもよらない罪障を人にぶちまけながら生きている、ということに気がつく。それに対する深い懺悔[さんげ]の言葉が深信ということ。懺悔の言葉の裏側には、必ず仏さまの願力に乗ずるということを讃嘆[さんだん]する言葉があります。懺悔というのは「申し訳ない」ということですね。讃嘆というのは「ありがとうございます」ということ。一つの心の両面なのです。

仏の願い

その二種深信。深信の2面ということをはっきりした生き方をする人が、仏弟子です。みなさん方も帰敬式を受けられたのですね。仏弟子になられたのです。仏弟子になるということは、自分自身を信じ、かの願力に乗ずるということを深く信ずるということですが、具体的にはどういうことかというと、仏さまの心、教えに随順する、無条件で従うっていうことですね。仏さまの教えを聞いて従っていこう、そういう生き方をする人。そうすると、仏さまの教えに従うということは、仏さまの心に随順していくことです。これが仏弟子の資格だ。こういうふうに善導大師はおっしゃいました。

そうなるとこれは大変ですね。本当の仏弟子とはとてもいえない。さっきの、ニセの仏弟子ならばということがだんだん分かってきますね。それが駄目だというのではなくて、だんだんニセの仏弟子だということが分かるっていうことが大事なのです。「ニセになったらもうええで」と、ところがニセになれないのですよ。ニセになるということは、本当の仏弟子とはこういうものですよという教えを聞かなければ、ニセもへったくれもないですね。それで聞法ということが大事になってくるということであります。

そのあとにですね、善導大師の言葉なのですが、「この経によりて行を深く信ずる者は、必ず衆生を誤らざるなり」という言葉がありました。たまたま朝の勤行のときに、その言葉にぶつかって非常にうれしかったのですが、「衆生を誤る」というのはどういうことですかね。衆生というのは生きとし生けるものですね。我々人間もね。我々は人間であるのに人間を誤ってしまって、人間喪失とか人間崩壊ということが今盛んですね。17才の少年の事件というと象徴的ですが、あれは17才だけの話ではないのであって、17才の少年を育てた親がいる訳です。その親を育てた爺ちゃん婆ちゃんがいる。私は17才ではないから平気だって、そういう話と違うのではないか。ある意味では人間を象徴しているのですね。人間が人間を誤っている。衆生を誤る。人間が人間を崩壊してしまう、崩れ去ってしまう。今、毎日毎日教えられますね。そういうことがあったものですから、「必ず衆生を誤らざるなり」ということが善導大師の言葉で書かれているということに、非常にビクッとした訳です。

これはある意味では、仏さまの願いというものは、「必ず衆生を誤らざるなり」──誤って欲しくないということの願いが込められているのではないかと思うのですね。その裏側には、いつも人間は人間を誤ってしまう。いつも、今に始まった訳ではなくて、もうお釈迦さまの時代から2000年も3000年も前から、人間はほっとけば必ず人間を逸脱してしまう。衆生を誤ってしまう。衆生というのはいのちあるものですから、いのちが見えなくなる。いのちが見えなくなるというのは、具体的には殺してしまうことです。こんなに殺しが毎日毎日おこっています。昔はなかったかというと、昔だってあったと思うのですね。戦争だってあったわけですし。ただ、人間が生きてゆくという裏側には、おもしろくなければ他人を殺します。他人を殺さないならどうするかというと、自らを殺す。両方とも殺です。人を殺すか自分を殺すか、そういう要素がみんな人間にはあるのですね、残念ながら。私は大丈夫だとはいえないのです。事実、人間は殺したことないけれども、殺した牛はうまいうまいって食べていますからね。魚も食べていますしね。だから、殺ということを抜きにして我々が生きているということは成り立たないのです。これは大矛盾ですね。ですから、お釈迦さまは五戒の一番初めに「不殺生」ということを掲げたのです。人間に与えられた、守ることはできないけれども、課題だ。ほうっておけば必ず殺す。殺さざるを得ない。殺さなければ自分は生きていけない。そういう大矛盾の中にある。ですから必ず衆生を誤るということが出てくる。誤らざる道は何かというと、「行」というのは「南無阿弥陀仏」であります。仏さまの願が「南無阿弥陀仏」という言葉になって、私たちに与えられている。それが「南無阿弥陀仏」。その「南無阿弥陀仏」のお念仏を確信するものは、「必ず衆生を誤らざるなり」と。いい言葉だなと思っております。

そういうことからいきますと、「私は念仏を深く信じています」ということは、必ず自身を信ずる、そして阿弥陀仏に拠るということを信ずるという、こういう2面がある訳ですから、そうすると、「南無阿弥陀仏」によって自分自身を深く信ずることができる者は、ということは、自分が凡夫だということを深く信ずることができる者は、必ず衆生を誤ることがない。そういう教えでないかと思います。

本当の言葉にふれる

以前に『同朋新聞』でお読みになったことがあると思うのですが、岩根ふみ子さんという、滋賀県で本屋さんをやっている人ですが、その人の年老いたお母さんを兄弟が3人で代わりばんこに看護をしていたのです。ところが、だんだん長引いてくるとですね、たらい回しが始まったんですね。今月は私がやるから来月はあんたよ、と。それで、いよいよ駄目だ、危篤状態だって、それで飛んでいくと、案外治っちゃうんですね。そういうことがずっと3年続いたそうです。そしてとうとう亡くなられた。正直いって、母親を看病したけれども、看病するほうもくたびれて、母親が死んだら「やれやれ」のお通夜だった。そしたらその時に、岩根さんの菩提寺の住職さんから電報が届いた。その電報の文章を抜き書きしてきました。

お母さんは老いた身を上げて、精一杯私たちの中にある地獄をえぐり出して見せて下さった仏であると思われませんか。先に逝かれたお父さんは、「お前、ご苦労だった」と迎えられたでしょう。

こういう電報が来た。これでやれやれだと思っていた兄弟3人がお通夜しているところへ、電報が届いた。今までやれやれのお通夜が、そのとたんに、本当に申し訳ないという懺悔のお通夜に変わったということを、手記の中に述べておられました。いくら親でも、長引いてくればだんだんたらい回しが始まるし、やれやれというようなことなんでしょうね。私も葬式によく行きますが、だいたい、全部が全部ではありませんけども、寿命が長くなったものですから、「やれやれ葬式」が多いですね。いいとか悪いとかでなくて、私だってもしも親父がまだ生きてたら百いくつかですけども、やれやれでしょうね。それが私が70になったのですから、息子が「やれやれ」と思うかもしれない (笑)。これはいいとか悪いとか言っているのではないです。ただ寂しいですね。親子といってもきれいごとではいかないということをみんな持っています。それを、亡くなったお母さんは、私たちの中に住んでいる地獄をえぐり出して私たちに教えて下さった仏さまだ、と。これが仏さまだ。本当のことを教えて下さる方が仏さまです。それは自分では分からない訳ですよ。みんな「やれやれ。よかった。年も年だし」ということですね。寂しいですね。悲しいです。悲しいけれども、裏側には「やれやれ」ということがある。その「やれやれ」が「申し訳なかった」と、気がつかない。外からの電報を読んで、初めて分かった。そういうことを今思い出します。自身を深信するということはそういうことであります。自分では分からないのですよ。自分のことを深く信じようといってもできないのですよ。本当の言葉にふれて、そうすると「今まで全然そのことに気がつかなかった」ということの驚きですね。そういう形で自分自身ということがだんだんはっきりしてくる。そういう問題でないかなと思います。

今の時代はこういう時代でありまして、大変な時代で、これから先どうなるかと思う訳です。衆生を誤るというのは、いよいよ人間そのものが滅亡してしまうということが、そこまで来てるのかもしれませんね。私たちは分からないから、のんびり生きてますけども。そういう問題も含む訳です。

なくなってしまうのだからもうしょうがないじゃないか、何でもやりたいことをやろうじゃないかって、これはニヒリズムですね。信ということから全く目をつぶって生きている。その中で何ができるかということを、やったって駄目かもしれない。滅びてしまうかもしれない。我々の人生もそうですね。人寿百歳っていうのですから、寿命が延びても百年ですね。百年たったら必ず死にます。これは嫌だっていってもどうにもしようがない。これは医学が発達しても、せいぜい百年。どうせ死ぬならしょうがないや、何でも自分のやりたいことをやったらいいじゃないか、という根性は確かにありますね。けれども、それでは人間というのは安らかになれないのですね。死ぬことは分かっているけれども、なすべきことがあるのではないか、ということに出遇いたいのです。そういう問題が人間にある。ですから、みんな凡夫なのです。凡夫だからしょうがないじゃないかっていうんじゃないのです。凡夫だから凡夫ができることがあるはずだ。それは何かっていうと、「かの願力に乗ずることを信ずる」ということです。

凡夫という自信──むなしさを超える

『観無量寿経』をこの前読みましたね。凡夫ということが初めてお釈迦さまから韋提希夫人に述べられた。「あなたは本当に凡夫ですね」(如是凡夫)と教えた。そのあとにですね、さっきの善導大師が解釈をしているのですが、韋提希夫人という人は凡夫なのか聖人なのかどっちか、ということがずっと論議されてきた。あの人はさとりを得たのだから、私たちみたいな平凡な凡夫ではないはずだ。菩薩であるのだけれども、それが凡夫という形でもって登場した人物だと、そういうふうに善導大師まではずっと受け取られてきたのですね。ところが善導大師は、韋提希夫人という方は凡夫の塊だ、と。実業[じつごう]の凡夫、人間が生きてゆく業そのものを生きた人だ、そういうことをおっしゃった。そして、聖人ではない。「韋提希夫人は凡にして聖にあらざるがゆえに、仏を見ることができたのだ」と、こう言われます。お聖人さまだったら仏さまを見ることができなかった。仏さまに遇うことができたのは、凡夫であったからできたんだと。だから、凡夫というのは仏さまに遇うための一つの欠くべからざる条件なのですね。もしも私たちがお聖人さまなんて言われたら、本当はもう仏さまなんて関係ない。そういう意味で、自信がわきますね。「あなたは凡夫だ」と言われた言葉にはですね、仏さまの願い、仏さまの大慈悲が込められておる。そういうことを聞くことであります。

石牟礼道子さんという、熊本の水俣病のことで心を傷めて『苦界浄土』とかいろいろ作品を書かれた作家の方であります。いつだか、新聞の1面に載ったインタビュー記事がありました。その中で、水俣の漁師の人たちはすごい人がたくさんいると言うのですね。それは、見ていてですね、非常に表情が穏やかなのです。会社と交渉する闘士として、力んでいるかというと、そうじゃないと言うのです。みんな非常に穏やかで、そして謙虚だ。そして内心には、絶対に許せないという一つの怒りを持っているのですね。そういう人たちが何でこんなに謙虚でこんなに穏やかな表情をしてるのかっていうことが、不思議だった。そしたら、ある漁師の人がですね、「わしどんな二重国籍ば持っとりますもんねェ」と、こう言ったそうです。二重国籍。私たちは、普通は日本人として国籍があり、市役所に届けた籍だけですね。しかし、その水俣の漁師さんは、「私は国籍を二重に持っている」と。これはどういう意味かというと、一つは市役所に届けた国籍。もう一つは浄土の国籍を持っている。浄土という国の国籍を私は持っている。だから2つ国籍を持っている、ということを何気なく話された。それを聞いて石牟礼は、なるほどそうか、と。水俣のあの事件を通して、この人間がいいとか悪いとかいうのじゃなくて、人間全部が持っている罪業を見抜いて知っているんですね。罪悪深重の凡夫だということを知ってる。だから、穏やかに、どんな会社の人たちがいても、政府の人がいても、穏やかにそれに対応することができる。これを聞いてると、私なんか真反対ですね。すぐカッとなってしまうのです。というのは何かというと、凡夫だということを忘れているのです。じつは凡夫であるということは大変な自信なのですね。このことを、そういう言葉からも教えられたことでございます。

そういうことからね、人間っていうのはね、一面は動物ですね。そこらにいる犬や猫と全く変わらないですよ。うまいもの食べたいし、子どもを作って、最後は死んでいく。動物としての人間。動物を場として、生きている。それは事実ですね。動物ではないという人は誰もいない。動物はこれだけでもって生きていける訳ですよ。人間というのは、もう一つですね、その裏側に、如来としての私。いわば、如来としてというのは、仏さまになる道を歩む。そういうことがないと、人間というものは、単なるただ動物だけでは落ち着かないのですね。むなしいのですね。ということをみんな抱えているのが人間ではないかと思います。

願われて生きる

それから、あとで紹介したいのですけども、フランクルという人の『それでも人生にイエスと言う』──何年か前に友達から勧められて読んだのですが、いい本ですよ。アウシュヴィッツに入れられて、それが戦後そこから解放されて、初めて講演された時の講演集です。なかなか想像つきませんけれども、強制労働させられた訳ですよ。とにかく、人間は人間としての尊厳があるとかいうようなことを言っても、人間には人間の苦悩がある。苦悩がなければ尊厳もない。全部手段なのです。その象徴的にね、一日にスープ1杯ですよ、食べ物が。ナチスにとってユダヤの人たちはスープ1杯の値打ちしかない。それでもう働けなくなったら殺す。殺すのも鉄砲で殺すとなると鉄砲の玉がもったいないという。すなわちユダヤ人は鉄砲の玉の価値もない。それではどうしたのかというと、最後はガス室に入れて殺したんです。そこには人間としての自分の人生を一人一人がどういう生き方をしたらいいかとか、そんな問いは出てこない。では何を話し合うのかというと、食べ物の話ばっかりだというのですよ。しかし現実は一日スープ1杯しか飲めない。そしてその時に、「人間にある、苦しみや悩みがあったときは良かったねぇ」と話し合ったというのです。そこまで来たらもう苦しみも悩みもないのです。

私もそこまで経験したことはありませんが、戦後食べ物がなくなって、立川にいったときに畑のイモを5〜6本引っこ抜いて盗んだのを見つかって、追いかけられたことはありましたけどね。恥っさらしなことなのですけど、人間というのは限界状況になって食べられなくなったら何でもやりますよ。それについて苦しむとか悩むとかいうのは出てこないのです。毎日毎日とにかく腹一杯食べたいということだけを夢見て生きていますから。ところがそういう状況になっても思い出すのは何かというと、「おいしいものを食べたい」「人間らしい苦しみや悩みがあった時は良かったね」と、こういう話ばかりだそうです。

それでこのフランクルという人は、人間というのはそういう状況になると、一人一人が自分の人生に何を期待するかというようなことが全くないと言うのです。いつかはガス室に連れていかれるし、何も自由がない。自分の人生に意味を求めるだとか、自分の人生にこういうことを期待するだとかいうことは、全く遮断されているのですね。それでも自分の人生に「イエス」と言う。それはどういうことかというと、そういう状況になって人間が、私が自分の人生に期待をかけるということとは反対に、私の人生が私に何かを期待しているのだというのですよ。もう少しいうと、どんな状況になったとしても、残されたあなたの人生になすべき仕事は何かということを期待している、願っているのです、人生がね。それを聞いて私は、なるほど浄土真宗の本願というものは、自分の人生を通して如来が私に何を期待しているのか、何を願っているのか、ということがうなずけるということです。最後はそこになると思いますね。自分自身を信じるということは「かの願力に乗ずる」、仏さまの願い、つまり仏さまの願いということが、自分の人生なのですよ。その残された人生が私に何を期待するのか。人間が生きているということは、自分が自分の人生を問う、つまり、自分で自分を問うというよりも、人生のほうが私を、一人一人の人間を問うと。人間が生きているということは、問われているということなのです。そういうことに気づくことが大事だということを、この文章を読んで感じました。

星野富弘さんといって、首から下が全然動かないで口で絵を描いたり詩を書いたりしている人がいらっしゃいます。そういうことが成り立つには、つまり「乗彼願力」というのは、無条件に自分を全部受け入れてくれる人に出遇わないと、自分のことを自分で受け入れることはできないのではないかということを思います。それでその星野さんは、何もできないのですからね。ご飯食べるにも、排便をするのも、全部母親にやってもらうんです。病院でも三食食べさせられる訳ですよね。そうすると食欲がなくなってしまうのですよ。そうしたらある時、母親がスプーンでもって口をこじ開けるようにして食べ物を入れたそうです。そうしたらそれがこぼれて顔じゅうにスープがくっついてしまい、星野さんは今までイライラしていた気持ちが爆発して、自分の大事な母親に向かって「チクショー! クソババー! もう食いたくねー!」とどなったそうです。そうしたら母親は寂しい顔をして外へ出ていった。その後しばらくして母親が帰ってきた時には、スープのついている星野さんの顔に蠅が寄ってきていて病室を飛び回っていました。それを見つけた母親は、蠅タタキで飛び回る蠅を追い始めたのですが、星野さんの頬にたかった蠅を見つけると、右手に持っていた蠅タタキを左手に持ちかえて、その右手でそっと押すようにして払いました。その時星野さんは、母親の湿った指先を初めて感じたそうです。ちょっとそこの部分を読んでみます。

もちろん蠅は逃げてしまったが、蠅のとまっていた頬に湿った母の手のぬくもりが残った。ざらついていたけれども柔らかな母の手だった。母の感触は私の頬からいつしか体中に広がっていった。あれ程の言葉を浴びせた私を、母はきっと憎んだに違いない。しかしその憎しみの中からでも母は私の顔につきまとう蠅を見過ごしていられなかったばかりか、蠅タタキで私の顔を叩くことも出来なかった。母の頬にご飯粒を吐きかけた私の顔の蠅を母は手でそっと捕まえようとした。私は思った。これが母なんだ、と。私を産んでくれた、たった一人の母なんだと思った。その母なくしては私は生きられないのだ。その日から私はしばらくやめていた絵を描き始めた。

それまでしばらく絵を描いていたのでしょうけど、この時までに全部「嫌だ!」と言って投げ捨てていたのでしょうね。いわばここに、クリスチャンである星野さんは、母親に神の愛を感じたのでしょう。我々でいえば仏さまですね。如来さまの大慈悲心を母を通して感じた、と。自分では何もできない、両手両足も動かない自分を、全部受け入れてくれる、そういう人が母親としていた。ということで、今までペンを触わるのも嫌だと言っていた自分の人生が要求している、絵を描く、詩を作るということを、また始めることができた。だから、自分自身のそういう現実を受け入れるということは、星野さんは次のように言っています。

動ける人が動かないでいるには忍耐が必要だ。私のように動けない者が動けないでいるのに忍耐なんか必要であるか。という事にふっと気が付いた時、私を縛りつけている忍耐というトゲのある縄がふっと解けたような気がした。

動けないのが事実なのですね。そして「動かないでいるのだから、もっと忍耐して堪え忍ばなきゃならん」と自分に課す訳ですよ。それがつらいんですね。その時に、健常者のように動ける人が動かないでいるのは忍耐が必要だけれども、私みたいな動けないということが事実であり現実なのだから、その現実を受け取れれば忍耐ということは必要ないんだということにハッと気がついたら、自分を縛りつけている忍耐というトゲのある縄がフッと解けたような気がした。人間というのは、つまり凡夫というのは、事実のままの自分でいいんだと、それをそのまま受け取るというのは大変なことなんですね。それにはやはり自分を全部受け取って下さる人に出遇わないと、自分で自分を受け取れないんです。そういうことを教えられます。

具体的に仏さまがどこか遠い所にいるとか、(内陣を指して)あそこに立っておられる方が仏さまだとは限らないと思いますね。仏さまというのは微塵世界に満ち満ちているものです。自分の母親という形をとる場合もあるだろうし、自分の子どもという形をとる場合もあるし、自分の大事な友達や先生、そういう形をとるかもしれません。しかし、「私は仏さまなのだから、あなたにいろいろやってやる」とそんな根性ではないのですね。思わず知らず、そうせざるを得ない、その中で受ける法は純粋な仏さまが私に願っていることであるのです。人生にはいろいろな事件が起きてきますね。そういうことを通して「そこに如来まします」と、仏さまの願いが生きているということを感じない限り、自分で自分のことを受け入れるということは到底不可能なことではないか、ということを星野さんの言葉からも教えられたことでございます。

時間が過ぎましたね。あれこれ言いたいことばっかり言ってしまいましたが。テープを起こしてもらうと私は半分くらい「まぁ、まぁ」と言っているそうですね (笑)。半分まではいかないけれど1割くらいは言っているそうです。癖なのですが、その「まぁ、まぁ」というのはやっぱり曖昧なのですね。きちっと言葉が出てこないというのは、曖昧なまま、ここに立っているということを教えて下さいました。テープを起こして下さった方、本当にありがとうございました。

二階堂行邦先生のご法話を蓮光寺で聴聞することができます。詳しくは「法話会のおしらせ」をご覧下さい。

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