宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌関連ニュース

2005年7月12日掲載

5月20日、東本願寺(京都)において、親鸞聖人七百五十回御遠忌「お待ち受け大会」が開かれ、御遠忌テーマが発表になりました。御遠忌テーマは、蓮光寺住職もテーマ委員として加わった御遠忌テーマに関する委員会が約1年をかけて、検討に検討を重ねて生み出されました。

ここに、御遠忌テーマに関する委員会の報告内容を掲載いたします。

宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマの願い

1 宗祖御遠忌テーマを生み出す背景

宗祖御遠忌をお迎えする私たちの姿勢は、御遠忌・御修復委員会『最終報告』の「事業策定方針」において、「私ども一人ひとりが、どういう姿で宗祖の御遠忌を迎えるのか」、また「私にとって真宗本廟とは」という問いに真摯に向き合うことであると確認されている。

それは宗祖御遠忌が形式的な五十年ごとの通過儀礼ではなく、どこまでも、真宗門徒としての私たち一人ひとりの宗教的課題をあらためて問い直していくところに、御遠忌厳修の意義が存在することを明らかにするものである。端的に言えば、親鸞聖人を宗祖として、文字通り、人類の根源的な課題(宗)を私たちに先立って顕かにされた方(祖)であるとして、その「宗祖としての親鸞聖人に遇う」ことである。

七百五十年の時空を超えて、「宗祖としての親鸞聖人に遇う」こと、つまり、浄土の真宗を開かれた親鸞聖人に出遇い続けていくことが御遠忌の基本理念である。それは親鸞聖人が担われた課題が、他でもなく、群萌を同朋として共に願生浄土の道を歩もうとされた志願であると見定めることである。そして、私たちもまたその精神に学び、その課題を生きんとすることが、御遠忌厳修の願いでなければならない。

しかし、このような確かめは、宗祖親鸞聖人七百回御遠忌を契機にして立ち上がった真宗同朋会運動の問題提起でもあった。言うまでもなく、真宗同朋会運動は、私たちが封建的伝統教団のなかで安閑として、宗祖としての親鸞聖人に出遇うことも、その生きざまに学ぶことも、全く見失っていた現実への自己批判から生まれてきた信仰運動である。

このような真宗同朋会運動を歴史的背景として、このたびの「宗祖としての親鸞聖人に遇う」という基本理念が見出されてきたのであろう。その意味で、御遠忌テーマを考えていく背景として真宗同朋会運動の歴史を抜きにはできない。むしろ、この七百五十回御遠忌を契機に、あらためて、真宗同朋会運動の願いに立ち帰り、いただき直すことが問われているのではなかろうか。

2 「御遠忌テーマに関する委員会」に課せられた課題

宗祖御遠忌をお迎えすることを機縁として、どのようなテーマを教団内外に発信していくのか。それが私たち「御遠忌テーマに関する委員会」に課せられた第一の課題である。

そこで、私たちがテーマを提起していく手順としては、まず、このたびの宗祖御遠忌がいかなる課題(願い)のもとで、いかなる御遠忌として位置づけられ、どのような御遠忌としてお迎えするのか。そういう基本的な視座が明らかにされなければならない。その場合、先に述べたような意味で、七百回御遠忌を契機にして提唱された真宗同朋会運動の歴史を看過することはできない。

真宗同朋会運動とは、「真宗門徒一人もなし」との痛烈な自己批判を通して、真宗大谷派教団の存立を賭して、「我が身」一人の上に浄土真宗を聞きとろうと提起された信仰運動である。「家の宗教から個の自覚へ」と願う、言い換えれば、本願念仏に生きる「人の誕生」を期し、あらゆる人々を御同朋としていただく念仏の生活者が生まれ出ることを願いとする信仰運動である。

しかし、やがて七百五十回御遠忌、真宗同朋会運動五十年を迎えようとしている私たちの現実は、そのような願いに応えてきた五十年であったであろうか。むしろ経済的な豊かさの中で、問うべきものを問わず、言うべきことを言わず、見るべきものを見てこなかった「慚愧の五十年」でなかったか。

これまでテーマ委員会においては、このような慚愧するしかない闇の情況を、経済至上主義、近代合理主義、果てしのない人間の自己絶対化、言い換えれば、科学主義による人間の知恵の絶対化であると捉え、その人間の闇が結果として孤独と虚無(ニヒリズム)を生きる現代人の病理として現象していると話し合ってきた。

このような時代情況、人間情況、総じて言えば、現代における人間の闇を見据えて、人間の回復を願って厳修されなければならないのが、真宗同朋会運動の中で初めてお迎えする宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌である。そうであるだけに、いよいよ如何なる課題(テーマ)で御遠忌を厳修するのか、それが問われなければならない。

元来、御遠忌等の大法要を勤めてきた教団の歴史の中で、課題となる言葉を掲げて臨んだ事例は、親鸞聖人御誕生八百年・立教開宗七百五十年慶讃法要と先回の蓮如上人五百回御遠忌法要の二回であると言えよう。

それらはそれぞれの時代と社会の呻き声から真宗大谷派教団に何が問われているのか。ある意味では、教団にかけられている願いを発掘していく作業の中から見出されてきたものであろう。何が問われ、何が願われているのか、その問いと願いに真摯に向き合うことの中から、このたびの御遠忌テーマも考えられていかなければならない。

3 御遠忌テーマを考える共通の視点

すでに述べたように、このたびの宗祖御遠忌への歩みを貫く基本理念は「宗祖としての親鸞聖人に遇う」である。その言葉に語られているように親鸞聖人の御遠忌をお迎えする意義とは、私たちに先立って、本願の名号に立って真実に目覚め、願生浄土の信に生きる生涯をおくられた宗祖としての親鸞聖人に出遇うことである。

いま私たちが御遠忌テーマを考えるとはその出遇いによって開かれた世界を語ることである。しかし、それは決して教団的な信仰表現の中で、つまり、教団内の人々にしかわからない宗派的な言葉で、親鸞聖人との出遇いを語ることではない。私たちの闇と、その闇を照らし出す光との呼応の関係を、誰もがわかる現実的な言葉、生活の言葉で語ることであろう。

それは御遠忌の基本方針にも(1)宗門を開く(2)親鸞聖人を世界に(3)一人を尊敬する同朋教団の実現(4)同朋の生活を明らかにする、と私たちの歩むべき方向が掲げられているように、親鸞聖人の教えに生きようとする私たちと私たちの教団を世界に向けて開放することでなければならない。

そのかぎり宗祖御遠忌テーマを生み出す私たちの視点とは、「いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり」と、社会の底辺に立って、虚心坦懐に、時代と社会の呻き声に向き合われた親鸞聖人の生き様に学び続け、どこまでも、本願念仏の信心が根拠となって、その広大威徳の世界を我が身一人の上に立って表現することにある。

言うまでもなく本願の念仏とは、人間の自己中心的な自我意識で構築された時代社会の闇、それこそが人間の闇であるが、その闇を根本から照らし出す如来の智慧そのものである。その智慧のはたらきを根拠にして、実は私たちの現実が問い糾されることになるのであって、決して、人間が人間を問い糾すものではない。人間が人間を問い糾す歴史の底に、人間を丸ごと悲しむ眼差しこそを大切に見出していかなければならない。

そして信心とは、人生を流転し閉塞している、その孤独と虚無の直中に生きる我が身が、すでに、如来から無条件に呼びかけられている我が身であったことに目が覚めること以外の何ものでもない。その空前絶後の目覚めにおいて、根源的独断の世界に生きていたことの現実を知らされるのである。その目覚めが、ある意味では、あらゆる人々をとも同朋と見出して生きていける万人共生の道である。だからこそ、その信心の世界は一人で生きている世界であり、また肩抱き合って万人と共に生きていける世界でもある。

いまあらためて、宗祖親鸞聖人の御遠忌に出遇うとは、親鸞聖人が身に感じ取られた阿弥陀の本願のはたらきに、時代と社会を生きる具体的現実的な我が身をもって、直参するということである。それが本願念仏の信心の開かれる具体的な生活である。

真宗大谷派教団は新宗憲の前文に「同朋社会の顕現」を掲げた教団である。本願念仏をいただく者の具体的現実的な生活の歩みとして「同朋社会の顕現」が掲げられている限り、テーマは、世界に向かって開いていくものでなくてはならない。内に閉ざしていくものであってはならないのである。

4 御遠忌テーマについて

宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマ
「今、いのちがあなたを生きている」

(1) 協議の要点

今回の御遠忌テーマを見出すにあたっては、実に多くのテーマとしての言葉が提案されてきた。そして最終的に「今、いのちがあなたを生きている」という言葉を御遠忌テーマとして提起することになった。最後まで、はたしてこの言葉が、今、大谷派として宗門の内外に発信すべき言葉なのか、もっと具体的で行動的な言葉はないのかという議論がなされた。

たとえば、今日の世界や日本の社会情況を踏まえて、今という時代を念仏者として生きる、そのことを言い当てようとする表現として、「生きるとは、生きつづけること、解放されつづけること」という言葉。理知の闇に迷い苦しみ不安に苛まれ疲れきっている現代の私たちに、不安の中に安んじて立ち上がれる真の立脚地を語り、今こそ無量寿に帰して、安んじて為すべきことを為せという如来の呼び声に生きようではないか、そのことを表現する「安心して迷える道に立つ」という言葉。生きる主体を問うてくるいのちの深い要求の声、人間の普遍的根源的問いとしての「人間ってなんだろう 生きるってなんだろう」という言葉。「悲しみ」を悲しみとして見据えていくことができない自己肯定的な私たちの現実を踏まえ、人間自身を深く悲しむところからわれも人も共に生きる世界を見出され、歩み出された釈尊と宗祖の、その歩みを表現する「悲しみが、いま、世界をひらく」という言葉等である。

こうした協議の中から、これらの具体的な表現の原点、根拠をあらわす言葉として「今、いのちがあなたを生きている」という、念仏そのものの呼びかけ、いわば、いのちの大地である無量寿なる如来の声をあらわすこの言葉が、テーマとして立てられるべきであろうということが、私たち委員会の結論となった。無論、このテーマが絶対であるということではない。むしろこのテーマが様々な議論を呼び、さらにテーマが展開され、新しい表現や運動が起こされていくことこそ委員会が願うことである。また、そのような対話の場を開いていくことが、宗門としての責任であり、大きな仕事であろう。

今回の御遠忌テーマを生み出すにあたっては、その前提として、これまで宗門が発信してきた「生まれた意義と生きる喜びを見つけよう」と、「バラバラでいっしょ ─ 差異をみとめる世界の発見 ─」スローガンとして「帰ろう もとのいのちへ」という言葉があった。そのことを踏まえたうえで、今日の時代情況の中で何が言いうるのか、一体私たちはどういう親鸞聖人に出遇おうとしているのか、聖人のどのような言葉に聞いていくのか、そのようなことがあらためて課題となる中で、「今、いのちがあなたを生きている」という言葉が生まれてきたのである。

ところで、委員会の話し合いの中で、いつも帰っていったのは、今日の時代情況のこと、そして宗門の現状についての深い痛みであった。自分の居場所がなく生きる希望も見出せず、「疲れた」という言葉を残して自死していく子どもやおとなたち。手首にリストカットの跡を隠しながら何とか生きていこうとしている人々。年間に3万人を超える自殺者を思うにつけ、悲しみと痛みに耐えない。しかもその大半を占めるのは、50歳を超えた人たちである。さらに毎日のように、いとも簡単に人が人を殺し殺されている現状がある。また、世界に目を移せば、民族と民族、宗教と宗教の対立、止むことのない戦争などで、尊い多くのいのちが奪われている。このような現状の背景には、近代的人間観に基づいたいのちの私有化という問題がある。いのちは誰のものか、決して私のものではない。そういう自己執着の闇を破る呼び声こそが、南無阿弥陀仏、念仏ではないか。そういう声を、今、われひと共に聞かなければならない。

しかし、このような現実の中にあって、私たちの宗門、寺は世俗化への一途を辿り、教学と教化という本来の使命、責任を本当に果たしているのだろうか。真宗同朋会運動はいまだ地につかず、念仏の聞法道場は何処に開かれているのかと言わざるをえない。正に深刻な危機的情況にあるのである。

このような時代と宗門の現状の中、全国のご門徒、更に多くの縁ある人々のご苦労、ご懇志をいただいて、両堂の修復が進み、6年後に御遠忌を迎えようとしている。今、この時にあたって、どのようなテーマが掲げられるのか、そのことに腐心しつつ、論議が重ねられた委員会であった。

(2) テーマの解題 「今、いのちがあなたを生きている」

「今」という言葉は、自覚をうながす呼びかけの言葉として押さえたい。人間は往々にして過去の思い出と経験にとらわれるか、未来の空想にとらわれて生きるものである。そうした今を忘れている私たちに、本当にこの身に目覚めよ、今を今として受けとめて生きよという自覚をうながす念仏の声を、「今」という言葉に聞きとりたい。

「いのち」という言葉は、同朋会運動の中でもよく使われた言葉であり、生物学的な命なのか、自覚語としての無量寿としてのいのちなのか、不明確であるという問題が提起されている。「今」にしても「いのち」にしても、一般的には自覚語として受け取られることはほとんどないのではなかろうか。であればこそ、そこに問題提起として、あえて、「今」「いのち」という言葉を自覚語として掲げたいのである。生物学的な生命と、「無量寿」という自覚的な「いのち」とのちがいは何かなど、教学的議論の多いところであろうが、それは今後、宗門として責任を持って応えていかなければならない。いまこそ「宗祖としての親鸞聖人に遇う」という理念とこのテーマを通して、様々な反応、議論が生まれ、その中から自覚的に自らの課題を掲げて歩み出す念仏者の運動が展開されていくことが強く願われる。

自覚語である「今」。私たちのいのちの私有化を破る呼びかけとしての「いのちがあなたを生きている」という言葉。これらの言葉に、今日のような時代にあって、「十方衆生」、いわば全人類への南無阿弥陀仏の呼び声、その願いに帰し、親鸞聖人が「ともの同朋にもねんごろのこころのおわしましあわばこそ、世をいとうしるしにてもそうらわめ」といわれた同朋の生活、同朋としての人生をわれも人も共に生きようではないかという「願生浄土」の仏道の願いを託したいのである。

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