東京教区東京2組
門徒会報恩講 宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要
(東京二組門徒会主催)

【'12年1月22日掲載】

日時 2011年12月21日(水) 14:00〜17:00
会場 常福寺
講師 渡邉晃純先生
(愛知県豊田市、岡崎教区二十五組守綱寺住職、東本願寺元出版部長、三河別院元輪番)
テーマ   「真宗儀式の回復」 ─ 私 一人の報恩講 ─

日程

2:00   開会  司会: 荒木副会長(光明寺)
挨拶: 門徒会会長 福田忠(西光寺)
2:10 勤行  導師: 本多雅人組長(蓮光寺住職)
  正信偈 草四句目下(「門徒報恩講勤行集」p.31)
  念仏讃淘三 三朝浄土ノ大師等 次第三首(p.79)
御俗姓御文拝読(八田裕生副組長・常福寺)
2:40 感話: 小野元義門徒会員(常福寺)、井上哲哉住職氏(長泉寺)
2:50 休憩
3:00 法話 渡邉晃純先生
4:30 質疑応答
4:45 閉会挨拶: 本多雅人組長(蓮光寺住職)
5:00 恩徳讃
5:30 懇親会 「四川菜苑」
司会の荒木門徒会副会長(光明寺) 開会挨拶をする福田門徒会長(西光寺) 勤行の様子。祖師前の内陣一番手前(巻障子の左)に座っているのが蓮光寺住職 小野門徒会員(常福寺)の感話 井上住職(長泉寺)の感話 松本教務所員による総長祝詞の代読 渡邉先生の法話

法話要旨

東京二組の門徒会主催の御遠忌法要で話をせよと言われまして、いただきました題は「真宗儀式の回復」というテーマでして、「私一人の報恩講」というサブテーマが付いております。

集って一緒にお勤めをする、これが一番大事なことですね。仏徳讃嘆をするのが報恩講という集いであります。集いがあると集まるわけですが、それが実は私一人の為のものであったと。皆さんご存知の『歎異抄』の後序に、「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば親鸞一人がためなりけり」。阿弥陀さんが世に出られて本願を立てられる。そのことを仏法至上といって、あらゆる生きとし生けるものを救い取るために本願を立てられたのですが、親鸞聖人は、それを「親鸞一人がためなりけり」といただいていかれた。そのことは先程の門徒さんとご住職が言われた感話の中で、共通することが一つありました。教えを聞くという、特に恩を知るということ。ご住職の感話に安田先生のお言葉を引いておられました。「因を知る」ということから背景を知るという意味が出て来るのです。門徒さんの方も、お寺が建て直されて記念誌を出された。そこに背景というものを感じられたと。私たちが生きるということは、伝統といいますが、歴史と現代社会の中で横のつながりを持って生きている。人間が生きるということは、縦と横の関係ですね。その中でも大事なのは、自分が自分になってきた背景を知ることだと言われています。門徒の小野さんが、「お寺との本当の意味のお付き合いを、これから始めたい」と言われました。お寺には本堂があって、本堂にはご本尊がおられるわけです。本尊とは本当に尊いこと。お前はいったい何を本当に尊いこととしているのだと。そいうことを知っていく中で、本当のお付き合いを保障してくれるわけですね。

資料の蓮如上人の「御文」ですが、これは報恩講の時に読まれる「鸞聖人」という名が付いております。最初を読みますと、「そもそも、今日は鸞聖人の御明日として」とありますが、最初の部分を見て何か気付きませんか。「御命日」が「御明日」と書いてあるのです。「めいにち」と読んでいたが「あす」と書いてある。報恩講の儀式は親鸞聖人のご法事です。ご法事は命日をご縁として勤められる。そうすると命日は明日という、明らかにすることである。私の勝手な思いかもしれませんが、蓮如上人の願いというものがここに表現されているのではないかと思うのです。東京ですと、ほとんど門徒さんがお寺に足を運んで法事を勤めておられるようですが、我々の所は門徒さんの家に伺って法事を勤めるのです。私の反省もありますが、法事ということが法事になっていないのではないかと思います。法事というのは報恩講なのではないでしょうか。そうすると、みんなと一緒に法事をするということになっていなのではないか。そういうことが思わされます。

この御文の特徴的なことは、「もし本願他力の真実信心を獲得せざらん未安心のともがらは」、「すみやかに本願真実の他力信心をとりて」、「一流の他力真実の信心いまにたえせざるものなり」、「本願真実の信心を獲得せしむるひとなくは」、「たちまちに本願一実の他力信心にもとづかんひとは」というように、他力の信心を獲得するということを懇ろに確かめておられます。その他力の信心を獲得するとはどういうことでしょうか。そのことも書いてあります。「年月日ごろ、わがこころのわろき迷心をひるがえして」とあり、迷い心を知るということがなければ、翻すことができない。翻そうとも思わない。「年月日ごろ」ですから、年中ということです。親鸞聖人の言葉を借りれば、「臨終の一念」という死ぬ間際まで、私たちは迷心という、損だとか楽だとかいう心に引きずり回されている。自分の心に引きずられているわけです。あいつが悪い、こいつが悪いと他に責任を転嫁していかなければならない生き方。そういう迷い心がわかったということを、親鸞聖人はご恩と言われるのです。「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて」と言われます。つまり、煩悩を知れば、自分の煩悩というものを自分の立ち位置にしようとは誰も思いません。対照的に煩悩を知るといっても、それは煩悩を知ったことにはなりません。自分が煩悩の身だとわかること以外ないのです。仏法が難しいというのは、仏教学者が沢山の知識を持っているから仏法がわかるかといったら、それはわかったことにはならないでしょう。仏法は目覚めの教えですから、仏法を聞けば仏法がわかる、仏法がわかるということは、自分がどこに立っていたかということがわかるということです。日ごろの心は迷心だと蓮如さんはおっしゃっておられますが、仮なるもの、本当に頼りにならないものを頼りにしているということでしょう。仮を仮と知る、それがご本尊に出遇うということ、本当に尊いことに出遇うということでしょう。

親鸞聖人の信心は、向こうに阿弥陀さんを置いて一生懸命拝むということではないですね。自分というものが仮なるものを、間違いないものだとしていたことに気付くことです。信心には、これで良しとしない批判があるのです。これが親鸞聖人の教えのダイナミックなところです。一生懸命に信仰しているが、その全体が仮なること偽なることだと。それが証拠に悩むということは避けられない。仏教の面白い点は、悩むということですね。悩むということを大事な能力といただく。もし苦悩がなくなることが救いならば、簡単です。人間は前頭葉が悩むとか苦しむということを司っています。ですから脳外科で前頭葉にメスを入れて傷を付けてもらうと、何をされても笑っていられる。それが救いでしょうかね? そうではないと思います。自分の背景を知ることでしょう。そういう私の一番大事なことは、本願他力の真実信心を獲得することです。根元的に願っていることであり、悩むということは、まだそういうものに出遇えていないという悲鳴なのです。いつも評価が気になる。他人の目が気になる。自分が生きているということが実っていかない。

報恩講とはどういう法事かというと、『蓮如上人御一代聞書』の第十条ですが、浄土真宗では、お勤めをして亡くなった人に回向する、そういうものではないのです。「他力信心をよくしれとおぼしめして」つまり、亡くなった人から私たちはどういうメッセージを頂いているか、それが今はだんだんわからなくなっている。病気になった人が、三代前のおばあちゃんが成仏していないからだと言われたそうです。成仏とは、そういう意味でしたかね。こっちの問題ではありませんか? 成仏してないと言われると、我々の迷い心が受け入れてしまうのです。こっちが迷っているのです。仏というのは仏陀ということですから、仏陀になることが成仏です。成人式は二十歳になったら、目覚めたものになる成仏という課題があるのだということに気付く儀式なのです。皆さんご存知の高史明さんが中学生になった息子さんに、これからは君の好きなようにしなさい、やったことには責任を取りなさい、人に迷惑をかけてはいけない、と言ったそうです。その後、息子さんが自死された。高さんは息子に不十分なことを言ったと気付かれた。人に迷惑をかけてはいけないというのは大間違いで、人間は人間という字が語っておるように、人の間に生きている。だから迷惑をかけなければ生きていけない。孤島に住んでいるなら迷惑をかけないかもしれないけれども、それは人間とは言えないでしょう。人間である以上迷惑をかけるのです。迷惑をかけるということは、単に迷惑をかけているのではないのです。非常に豊かな人間関係があるからだということです。先程、背景という話がありましたが、私も沢山の方々のお陰を頂いて生きているのだという関係の中で、私が私として育てられてきたのでしょう。孤立している命というものは絶対ないのだということを伝えるべきであります。

『真宗の生活』という冊子を用意して頂きましが、この中に田口弘さんの文章があります。田口さんは目が見えないのです。「浄土とは、自分の欲望を叶える場所ではなく、欲望が叶うか叶わないかにとらわれることなく生きることのできる世界をあらわした言葉です。たとえ都合の悪いことや、つらいことであっても逃げ出さずに安心して受け止めていくことのできる、自分の思いから解放された世界です。」

我々は、自分の思いというものを何よりも確かなこととしている、これを迷い心と蓮如上人はおっしゃるわけです。これから発生してくるのが迷心です。厄年というものがありますが、33歳は散々な目にあうといわれますが、30歳で亡くなれば厄年にもあえません。「今日私が無駄に過ごした一日は、昨日亡くなった方が、どれだけ生きたいと願った一日だろう」という法語がありますが、33歳まで生きたということは、30歳で亡くならなかったという奇跡が起こっておるのです。それを厄年としか捉えられない。これが迷心であり、迷い心を作り出しているのです。悩んでいるということは、すでに与えられた事実があるということで、それがわからないということが迷心である。仏法は、苦悩することを大事な能力だと言いましたが、悩むということがないと、覚めるということが起こらないのです。「欲望を叶えることばかり考えている私たちの人生は、思い通りにならないという苦しみから離れることができません。しかし、仏様の教えに照らされることによって、身に起こった出来事が苦しみを生むのではなく、思いに合わない事実を引き受けられない自分の心が、苦悩のもとになっていることに気づかせていただくのです。」気づくのは仏様の教えがあったからですね。気づかせていただくという世界をいただく。仮なるものを本当のこととしていたというとらわれ、「執」ということです。「執」ということが自覚できないぐらいに、自分の都合をいちばん確かなものとしているのです。

私たちは、私が悪いとは言えなくて、私も悪いけれどもお前も悪いとなる。念仏は智慧です。南無阿弥陀仏と申すところに仏様の智慧に照らされる。本尊の仏像を持って歩くのは大変ですが、念仏はどこでも称えられます。しかし、念仏申したからといって煩悩はなくならないのです。「無明煩悩われらがみにみちみちて、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず」。ですから、これはご催促なのです。自分の悩み・苦しみ・腹立ちというのは、単に出て来るわけではないのです。自分の都合の思い通りにならない、そういう現実が私に催促しているのです。帰るところへ帰れ、立つところへ立てと。そこが浄土ではないでしょうか。浄土は念仏がはたらくところ、穢土は念私がはたらくところ。「誰もが、思い通りの世界を求めることが当然の権利としてとらえられている現代では、そのために他のいのちを傷つけたり悲しませたりすることも、ごくあたり前になっています。」そういう私だったと気付くことで、一人が誕生していく。これが「私一人の報恩講」として、長い伝統を歩む中で私一人が報恩講にお参りするということが願われていたのです。報恩講全体を、否、自分の生活全体を責任者として引き受ける。そういうことが、私の歴史背景を知ることが恩のこころだということです。恩を報せる集い、つまり法事を勤めていく。それは皆さんの大切な人の法事を勤めることと一緒です。

(資料提供: 東京二組)