東京教区東京2組
東京二組「同朋総会」2011(拡大組会)

※「東京2組関係」再開します。

【'11年4月10日掲載】

記念すべき御遠忌の年であり、また未曾有の被害をもたらした東日本大震災、そして余震と原発の不安のなかで「同朋総会」が開催されました。

講師には、2008年10月まで8年と長きにわたり宗務総長の任にあたられ、御遠忌の基礎をつくられた熊谷宗惠氏をお迎えし、「親鸞聖人に人生を学ぶ講座」での共同教化を核として生み出された「大会宣言」の願いに立ち返り、「御遠忌」に遇わせていただく我が身のあり方を見つめ直すとともに、御遠忌後を見据えていく眼を確認しました。

以下、熊谷氏の講話を中心に、総会の模様を、蓮光寺住職が一切ノートも見ずに、耳の底に残った言葉を手掛かりに、「如是我聞」の形で蓮光寺住職の了解をお伝えいたします。

日時 4月7日(木) 2:00〜5:00
会場 蓮光寺
講師 熊谷宗惠氏 (真宗大谷派前宗務総長・金沢教区仰西寺前住職)
テーマ   同朋会運動の歴史と課題
─ 東京二組「大会宣言」の願いと御遠忌後に向けて ─
対象 住職・寺族・坊守・門徒会員・推進員・寺院役員等

勤行: 正信偈・同朋奉讃


挨拶 福田忠門徒会会長(西光寺)

組が「御遠忌」に向けて、共同教化を大切に歩んできた結果として、僧侶と門徒とのより深い信頼関係が生まれたことは大変ありがたいことでしたが、その反面、共同教化を否定する動きも一部にあったことは大変悲しいことでもありました。この歩みを踏まえ、より一層の同朋公議を核とした共同教化を推進していきたいと思うことです。

趣旨説明 藤石哲朗副組長(西光寺)

「親鸞聖人に人生を学ぶ講座」を核に生み出された「大会宣言」はまさしく大谷派宗憲の精神そのものであったと思います。組は同朋会運動のさらなる展開をはかるための共同教化の単位であり、常に同朋公議にもとづいて運営されていくという基本に常に立ち返ることという確認をしつつ、御遠忌後を見据えていく願いのもとで、この同朋総会が開催されるに至りました。

講話  熊谷宗惠氏(前宗務総長)

東京二組の「お待ち受け大会」の報告書を読み、ご門徒とともに歩まれ「大会宣言」が発表されたということ、このことは今後、宗門におけるモデルケースになっていくのではないかと思います。また組長さんが「お待ち受けは、御遠忌の本番そのものである」と繰り返し語られていますが、なるほどそうだとうなずかせていただきました。確かに「報恩講」はいつかといえば法要が勤まる時だけではなく、一年中「報恩講」であるというのが真宗門徒のいただきです。そういう意味で、御遠忌に向けて、東京二組が僧俗「ともに」という形で聞法精進されてきた歩みに頭が下がります。

同朋会運動で生み出された大切な視座が「同朋公議」です。「ともに」ということが最も大切な視座として示されているのです。

今日、結論として申し上げたいことは、「大会宣言」を具体的に実践していく歩みを続けるということは、進歩発展という形で積み上げていくのではなく、常に根源に、もとに還るということだということです。

七百回御遠忌の時、私は23歳でした。その御遠忌では、鈴木大拙、曽我量深、金子大栄といった先生方が法話をされておりました。その中で、曽我先生が「信に死し、願に生きん」という講題でお話しされましたが、これは大谷派が時代に呼びかけるうえで画期的な内容を持ったものでした。安田理深先生も「死なずに何がやれるか」とおっしゃいましたが、今までの自分が問い返され、その自分が死んで、本当の願いに立っていく。つまり法による自己否定が、本当の自己を立てていくのですね。死ななければ生まれないのです。今後の課題を考えるとは、もともとの根源に還るということに関連した言葉です。さらに曽我先生は、仏教は釈尊からはじまったとする一般的な仏教理解に対して「釈尊以前の仏教」ということを言われました。これは修行を完成した釈尊のまねをして救われていくのではなく、どこにいても、どんな状況でも成り立つ道があるという教え、つまり阿弥陀如来の本願に出遇った釈尊であったということですね。「ジャータカ」(本生譚)は釈尊が釈尊になるまでの歴史です。つまり釈尊が菩薩であったときの説話です。仏の存在を理論的に解明する必要はなく、その意味において仏教は神学に対するところの「人間学」であると言えるでしょう。ですから「経」というのは理論ではなく、説話(物語)の形をとって人間像を言い当てようとするのです。釈尊以前に、錠光如来から始まって処世如来までの五十三仏の歴史がありますが、それは釈迦以前に念仏者がいたことを示しています。そのあと五十四番目が世自在王仏です。世自在王仏も人間の苦悩と迷いの歴史から誕生してきたのです。ですから誰もが仏になっていく教えが仏教であると示されています。「自在」というのは「自分が自分である」ということで、何かを構築して、手に入れていくのではなく、自分であるところに本当の満足を与えるのです。この王のもとで法蔵菩薩が願いを立てられ、願を成就して阿弥陀仏(如来)に成るのです。これらの説話が示す人間像とは何かと言うことですね。

「ジャータカ」によって生まれたのが、菩薩(因)―仏(果)であり、釈尊は仏陀になったわけです。現代は因から果をたずねますが、仏教は果から因をたずねる、従果向因です。つまり因である「菩薩」という求道者として示されるのは、進歩発展とか政治的経済的にどうだとかいうこと以前に、自分自身を問題として道を求めるところに人間の本心があるということなのです。つまり「願」ですね。もとに還るとは「本願に還る」ということではないかと思います。因位とは仏が私たちと同じ位におりてきて、ともに歩もうと、私たちが見失っている願いに立ち返って、人間を回復していく道を示してくださっていると思うのです。欲望の濁流の現代にあって、根本的な願いに還っていくというところに「大会宣言」の具体的実践があるのです。現在の上に何かを積み重ねていく、構築してゆくあり方を「流転」というのです。私たちは流転するしかないけれど、同時にその私たちに呼びかける声を聞いていくことを大事に歩んでいきたいものです。

座談  2班に分かれる


全体座談  熊谷氏の一言

わが大谷派には立法機関として「宗会」があり、それは僧侶の議員である「宗議会」と門徒議員の「参議会」の二院制で成り立っています。そのルールは、組やお寺に至るまですべてに及んでいます。このように教団の運営、意志決定に聖職者だけでなく信者が関わることをきちんとルール化しているのは世界中の宗教教団を探しても大谷派だけなのです。このルールは即席でつくられたものではなく、同朋会運動の一つ一つの丁寧な歩みによって出来上がった結晶なのです。『阿弥陀経』に「共命鳥(ぐみょうのとり)」が示されていますが、ひとつの願いの大地にともに生きていくことが求められている姿がここに表れているのです。

閉会挨拶  本多雅人組長

大震災によって、第一期の法要が中止となり「被災者支援のつどい」に切り替われました。それだけに今回の大震災は私たちに大きな衝撃と様々な問いや課題をあたえたと思います。何とか、第二期の四月、第三期の五月は御遠忌法要が実施され、私たちは団参に行くことができます。しかし、法要に参詣したいと願っていた被災地の亡くなられた人たち、苦しい生活を強いられている人たちは団参を断念しなければなりません。でもその方々は御遠忌に遇うことができなかったのではなく、すでに御遠忌を立派に勤められているとうなずかされるのです。やはり本山に行くことだけが御遠忌ではなく、毎日が御遠忌なのです。「お待ち受けこそ本番」という歩みの大切さをあらためて思いました。私たちはたまたま御遠忌法要に参拝できます。しかし、参拝したくてもいけない方々を考えたとき、被災者の人たちから、わが身の上に教えを明らかにしてほしいと願われている、そしてその使命と意欲が与えられていると感じます。支援する側が支援される側から励ましをいただいているのです。いよいよ聞かせていただかねばなりません。そして「ともに」救われていく道を歩きたいと思います。苦悩するという一点において教えが教えとして私たちに響いてきます。大切な歩みを続けていきたいと思います。

【参考資料】 大会宣言 ─前文と実践三項目─

東京二組宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌お待ち受け大会「大会宣言」(2010.10.3)

宗祖親鸞聖人750回御遠忌に向けて、御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」が発信され、「人生を貫く真のよりどころ」とは何かと問いかけられてきました。私たちは、このテーマを本願が南無阿弥陀仏と言葉になって呼びかける「浄土」からのメッセージとして確かめながら歩んできました。

人は生まれた時から、自ら選ぶことのできない境遇に投げ出され、苦の現実に遭い、そしていのち終えていく存在です。ですから、私たちはまさしく「生老病死」の身の事実を生きているのです。その身のままに、何を願い、何を願われて生きているのかを問われ続けていながら、迷い続ける愚かな凡夫でしかありません。しかし、そんな私たち人間を深く見つめ、私たちが見失っている心の奥底にある本当の願い(本願)を見抜き、「その願いに目覚めよ」と呼びかけ続けてきたのが仏教、本願の教えであり、その呼びかけを、生活を通して証してくださったのが宗祖親鸞聖人でした。

そのことに気づかされた時、個人の思いを超えた本願の歴史の中に、この私も摂め取っていただいていた事実にただひたすら頭が下がる他ありません。如来(教え)が深い悲しみを持ってこの私たちを見つめ続けてくださっていたのです。どんな状況におかれようとも、かけがえのない存在として人生を生き抜く道が今、ここにあたえられていたのです。だからこそ、私たちは安心して迷いながら生きていくことができるのではないでしょうか。

そんな私たちが「御遠忌」という遇いがたきご縁に遇い、お寺に集い共に学び合う場をいただいたことに、今更ながら「縁に遇う」ということの尊さを身にしみて感じています。「お待ち受け」とは、御遠忌の準備期間ではなく、まさしく本番だったのです。「生まれた意義と生きる喜びを見つけよう」と如来が待っていてくださっていたのです。私たちはすでに待たれた存在であり、願われた存在だったのです。

ただし、仏教や宗祖親鸞聖人の教えを、絶対的に正しい答えとして受け取り、我がものにしてしまうならば、そこに閉鎖性が生じ、「共」なる世界を断絶させてしまいます。それは現実の問題からの問いかけを聞き取ろうとしない傲慢な姿勢につながるからです。実は、そういう危険性に落ち込みやすいのが凡夫たる人間であることすらも見抜き、自覚していた方こそが宗祖親鸞聖人でありました。教えは常に向こうから、つまり如来の本願力回向としていただくのです。だから苦悩の身に響くのであり、うなずかされ、頭がさがるのです。仏法を我がものにしてはならないのです。ですから常に現実と真向かいになりながら、人とのふれあいを大切にしつつ、そこから教えを受け取っていきたいと思います。

子どもからお年寄りまでが孤独、不安、むなしさを感じ「生きづらさ」を抱えるこの現代社会において、生老病死といういのちの厳粛な事実を受け止めつつ、教えにたずねる(聞法)歩みを続けていきたいと決意し、次のことを阿弥陀如来の御尊前と宗祖親鸞聖人の御影前で宣言いたします。

1. 苦悩の現実と真向かいになって、何を願い、何を願われているのかという人間の抱える根本的な課題を顕かにしていきます。
2. 「愚かな凡夫」であるという共通の大地に立って、御同朋御同行として、あらゆる人々と共に生きていきます。
3. お寺が開かれた場となるよう、「誰もが集えるお寺作り」を創造していきます。

真宗大谷派東京教区東京二組