東京教区東京2組
寺族研修34 「現代社会の危機とお寺の存在」

【'07年8月31日掲載】

8月28日(火)、西光寺(台東区)において、「現代社会の危機とお寺の存在」をテーマとして「寺族研修34」が開催されました。講師は、帰雲真智先生(高山教区・還来寺住職、40歳)でした。

帰雲先生の講話のエキスをご紹介します。

帰雲先生の講話のエキス

現代社会の危機を端的に言うならば、「われいま帰するところなくして、孤独にして同伴なし」(往生要集)ということではないでしょうか。「帰するところなし」、「同伴なし」というのが、現代の姿を如実に物語っています。そのあり方を悲しみ、救わずんばやまんというはたらきが本願でしょう。

帰するところとは、私たちのよりどころです。それは本願に他なりません。我々のあり方が照らし出されるということですから、それは如来の智慧そのものでしょう。その教えを聞く場がお寺ですから、帰するところがない現代人にとって、帰依処としてのお寺の存在が大きな意味を持つのではないかと思います。

また、同伴するものとは、苦悩する私たちに本願がよりそってくださるということですから、それは如来の慈悲(大悲)そのものでしょう。その大悲を感ずるところに僧伽の大切さがあり、その僧伽を通して、僧侶が同伴する者となっていくことが期待されているのではないでしょうか。

『葬儀』の編集長の碑文谷創氏は「僧侶に今一番必要なことは、人の死という、いのちの大切な現場において、いかに遺族の同伴者となりえるのか」と問題提起されておられますが、それを聞いて、僧侶は特別なことをするのではないのだと、私は肩の力がぬけて、前向きになりました。葬儀の場において、一つひとつ大切に勤めていくことが僧侶の大切な姿勢だと思います。

もちろん、葬儀に限らず、聞法の場などあらゆる場において、ご門徒の同伴者になっていくことが求められています。同伴者といっても、「信」の世界においては、御同朋・御同行ですから、ともに歩むということにほかなりませんし、教えに照らされると「迷い」の衆生(凡夫)であるというところに平等なる地平が開かれているのです。そういう意味での同伴者ということです。ですから、僧侶が聞法をしていなければ話にならないということです。

亡くなられた百々海怜先生が「坊主は金がほしけりゃほしいと言えばいい」とおっしゃって、私は大変驚いたのですが、お寺が聞法の道場として機能するためのお金は必要だという、根底に聞法ということがいつも課題となっていた先生の言葉だったと最近になってようやくうなずかせてもらいました。

また、同じように亡くなられましたが、東洋大学の名誉教授であられた木宏夫先生が『真宗教団−教化活動の現代的諸条件』のなかで「寺の管理者として、また経営者として徹底していただけば、現代社会の苦悩の一端にいやおなしに触れてゆきますし、そこに立つ聞法になってゆきます。あらゆる条件のあらゆるチャンスの中で、教理と自己との関係を、人間の中で、他人との中で、自分のものとして展開していくからです」と述べられているのも、まさしく同様のことと思います。

現代社会の危機状況とは、まさしく私のあり方そのものと関わっています。その危機の中で、表層としては、お寺そのものも危機的状況にあるようにも思いますが、本質的には、いよいよお寺の存在が待望されている時代といっていいのではないかと感じています。

(趣意)