東京教区東京2組
寺族研修30 春秋賛先生の法話より

【'06年8月16日掲載】

春秋賛先生

7月25日(火)、蓮光寺において、東京2組寺族研修(Vol.30)が開催され、「同朋会運動の歩みと御遠忌テーマの願い」というテーマで、春秋賛先生(金沢教区仙龍寺住職、65歳)にお話しいただきました。

春秋先生は、「御遠忌テーマに関する委員会」(計8名)の委員長で、同委員である蓮光寺住職にとっては、委員会の法友であり、宗門の大先輩でもあります。

宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」が生み出された願いを中心に熱く語っていただきました。そのなかで、とりわけ印象に残った春秋先生の講話のエキスを紹介いたします。

春秋先生の講話のエキス

1.「お待ち受け」の姿勢

私たち一人ひとりが、御遠忌を「お待ち受け」するにあたっての姿勢ですが、今回、テーマに関する委員会に関わって、なぜ「お待ち受け」にこだわらないといけないのかということをつくづく教えられました。ご本山の行事だから「お待ち受け」があるというより、私たちの日常の寺役の時にも「お待ち受け」があるのです。

松任では、ご法事は土日に集中しますから、ご法事の日を決める際に、料理屋さんの都合が優先される傾向があります。しかし、ご門徒のご法事でも、その遺族が、どのような「お待ち受け」をするのかという課題があるのです。肝心要の「人生を問う」とか「亡き人を偲びつつ、如来のみ教えに遇う」というご縁、それがご法事の要であるにも関わらず、料理屋さんの次は引き物をどうしたらいいか、そういうことばかりが優先されています。私たち僧侶が、ご法事を迎えるにあたっての「お待ち受け」の最も大切な中身をきちんとご門徒に話しているのかどうかを、「お待ち受け」という言葉から問われました。「あなたはご法事を勤めるにあたって、どういう心構えでいらっしゃいますか」ということをご門徒に声をかけ、語り合っていくという地道な姿勢が大切ではないでしょうか。

ご法事(葬儀もしかり)当日は何らかの法話をしますが、その前に「お待ち受け」の期間があるのです。これはご本山に限った話ではなかったことを痛感させられました。そこに「真宗の仏事の回復」ということがあるのでしょう。

御遠忌にしても、ご門徒一人ひとりのその意味を明らかにしていく歩み、つまり「お待ち受け」が大切になってくるのは言うまでもありません。御遠忌テーマを決めなければいけないというと気負いがありましたが、自分の足元にもどしていくと気が楽になりました。

ですから、御遠忌が最終目的ではなく、そのことを機縁として、自身の信心発起・開発の如来の方便として位置付けていくことですね。

「釈迦弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し われらが無上の信心を 発起せしめたまいけり」という善導和讃がございます。その意味は「釈尊と阿弥陀仏は、慈悲豊かな父母のようであります。我らの人間の心にそうて、いろいろ巧みな手をつくし、こうすれば気付くか、ああすれば分かるかと心温かく導いて、如来回向のこの上もない信心をおこさしめられた」ということです。

御遠忌は一般の法事と変わらず、信心発起の如来からの方便としていただくことが大切ではないでしょうか。ご法事は釈迦弥陀の善巧方便として勤められるのです。御遠忌の「お待ち受け」の意義は単なる通過儀礼でなく、人それぞれの信心を、具体的には一人ひとりの人生を問う場、人間が人間として成就していく道としての御遠忌であり、このことは真宗独自の意義だと思います。

2.真宗本廟の意義

正に、釈迦、宗祖親鸞聖人、蓮如上人はじめ私を押し出してくださった善き人たちの「発遣」、日頃の聞法活動を通して、『汝、一心にして直ちに来たれ』という如来の「召喚」の声を聞く道場、二尊教としての釈迦・弥陀の報土としての本願荘厳の場が真宗本廟(東本願寺)です。「帰依処」といわれる意味がそこにあります。阿弥陀堂・御影堂がそのことを現していますね。

3.御遠忌テーマの誕生

孤独と虚無の蔓延した現代社会にあって、「濁世の目足」としての念仏に対して、親鸞聖人は「如来の遺弟悲泣せよ」という痛みを通して、自利利他、つまり願作佛心・度衆生心をもって、無明を破する独立者の誕生、真宗門徒の誕生を願われたのですね。

釈尊滅後の論師、宗師たちは戒定慧の三学を修めつつも、念仏は死後成仏を目的としたものでした。それに対して釈尊の出世本懐の意義はそういうことではなく、称名念仏、つまり無碍光如来の名を称えることであり、それがすなわち無碍光如来に遇うことである。遇うとは無碍光如来の光の中なる自分を発見することです。如来に照らされて自己の分限を信知するとき、その人間の愚悪を大悲し、摂取する如来の心に感動する、その如来の真実信心が我の主体となり、我がそのものとなる。そこにおいて、自ずからにして無明の闇が破れるのですね。そのことを親鸞聖人は「他力回向」と言われ、蓮如は「信心獲得」と教えられます。曽我量深先生も「如来、われとなりて、われを救う」「法蔵はわれなり、われは法蔵にあらず」と教えられています。

その「念仏」をどのような言葉にして表現し、浄土を根拠とする生き方が回復されていくテーマとなっていくかということですが、念仏は先の曽我先生の指摘の通り、我の主体となって今まさに、煩悩の林・五濁悪世界において用[はたら]いているのです。そのことが大切な生き方としてアピールしていきたいと思いました。テーマ委員会では、〔1〕あらゆる人びとを同朋として、内外に向けて発信するため仏教用語は使用しないで表現する。〔2〕特に現代の人間中心的思考より人間否定への仏教的思考で表現する。〔3〕あえて、問題意識・議論を生み出す言葉を選択する。こうした点を基本姿勢として、テーマは生み出されたのです。

「いのち」とはまさしく「無量寿・無量光」です。お念仏です。私のいのちに先立って、この私のいのちを支えている用らきがあるのです。ゆっくり味わっていくと、じわじわと感じてくるものがあると思います。このテーマから問われていることを明らかにしていく歩みをしていくということは、何よりもお寺にそういう場がある、つまり聞法会があるということですね。このことが「同朋会運動の原点に帰る」ということに他ならないと思います。