いのちのふれあいゼミナール(海法龍先生)
2006年6月18日 於:大聖寺
【'06年7月4日掲載】
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海法龍先生 |
6月18日(日)、大聖寺(荒川区)において、東京2組足立・荒川・葛飾ブロック「いのちのふれあいゼミナール」が開催されました。
講師に、横須賀市の長願寺住職、海法龍先生(48)をお招きし、「終わりなき歩み──回向の宗教」というテーマでお話しいただきました。そのお話のエキスをピンポイントでお伝えいたします。
海法龍先生の法話のピンポイント
- 経典(お経)ではすべての人に通じるものを「真実」と呼んでいます。その中心となるものが『大無量寿経』です。その経典の心を受け止められて、親鸞聖人が「正信偈」をお書きになりました。その「正信偈」の心が形になって本堂の荘厳となっています。ですから形には意味があるのです。お寺が何のためにあるかという形が意味するものがはっきりするということは、その形が意味する願いを聞いていくということです。
- 私たちは、自分自身のことを本当にわかっているのでしょうか。もしわかっているなら、お経がわざわざ人の道という必要はありません。何か見失っているものがあるのです。ですから、あらためて仏道、人の道ということをお示しになったのだと思います。
- よくテレビで見受けられる重い相談の答えのキーワードは「前世」と「霊」です。いざ自分の問題になるとそこに陥っていきます。そして、答えをあたえられると自分で考えることが奪われていきます。答えがほしいということはうまくいけばいいということです。つまり思い通りになればいいということです。障害物、邪魔者を排除したいというのが私たちの心ではないでしょうか。それを自我というのです。お経はそういう私たちの姿を知らしめてくる内容を持っています。そういう心を知らしめるお経の言葉をいただいて、生きる道、生きる力、明るみがあたえられてくるのです。
- 「回向」とは回転趣向です。如来、仏さまから言葉をいただいているから、如来回向というのです。ですから、私たちには「聞く」ということが大切になってくるのです。今、自分におこってきている問題を受け止めて考えていく世界をいただく、そのことが課題になっていく方向性をお示しになっているのがお経です。そこから自分自身を見つめた歩みがはじまるのです。終わり亡き歩みです。いのちあるかぎり、教えを聞かせていただき、自分のあり方、社会のあり方、社会をつくった私たちの心を問いただす世界をいただくのです。それに向き合っていく使命があるのです。