東京教区東京2組
東京2組門徒会報恩講を厳修
 
2005年12月16日 於:蓮光寺

【'06年2月28日掲載】

稲垣俊夫先生

昨年12月16日(金)、蓮光寺において、東京2組門徒会報恩講が厳修されました。2011年の宗祖親鸞聖人750回御遠忌に向けて、門徒会独自で報恩講を勤めようという願いが実現したものです。

講師には稲垣俊夫先生(台東区・東京1組通覚寺前住職、80歳)をお招きし、「宗祖としての親鸞聖人に遇う」というテーマでお話いただきました。

会場である蓮光寺住職が内陣出仕、組内僧侶有志が外陣出仕をして、参詣者全員で勤行をいたしました。また蓮光寺住職が『御俗姓御文』を拝読しました。

その後、門徒会の福田忠さん(西光寺門徒)と大聖寺副住職さんがそれぞれ感話されました。その感話を受けて、稲垣先生がお話しくださいました。

その先生のご法話のエキスの一部をご紹介いたします。

終了後、蓮光寺の座敷で懇親会が開かれ、ご門徒がそれぞれ思いを語ってくださいました。

稲垣先生の法話のエキス

「恥ずかしい我が身です」「本当にもったいないことです」ということが報恩講を迎える気持ちではないでしょうか。

親鸞聖人は「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」と言われていますが、「けり」というのは単なる過去形ではなくて、「そうだったのだ」と気がつくという意味です。本当に身に余る幸せですということです。そのあとに続けて、「身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずしてまよえるを」と言われています。「迷い」というものはどういうものかということが、ここにはっきり示されていると思います。迷いとは、まず我が身の罪の深さのほどを知らないということです。我が身の罪の深さのほどを知らないということは「身知らず」だということです。身体性で持っているところの身です。自分のことが分からない。もうひとつは、如来の御恩の広大さのほどを知らないということです。御恩の広大さを知らないというのは「恩知らず」と言ってもよろしいでしょう。これが私たちの姿なのです。やはり自分では自分の姿が見られないのです。

自分で自分を見れば、どこまで行っても『歎異抄』でいう「自見の覚悟」ですね。独りよがりの独断的な自分に都合のいい見方しかできないのです。「身知らず」と「恩知らず」はいずれも人間ではないと。人間の顔をしているけど人間ではないといわれます。

「我が身を知る」というところにはどういうことが起こるかというと「恥ずかしい」ということですね。恥ずかしさを知るということなのです。恥ずかしさを知らぬ者を「恥知らず」と言います。本当に我が身を知らずという意味で言うと、「お粗末は私でございましたと、本当に頭も下がらんような私でありました」というところに、たまらない恥ずかしさがある。この恥ずかしさを「慙愧[ざんぎ]」と言います。「恩を知る」ということは恩に報いるということです。それが報恩講の大切な意義です、報いるというのはお念仏からの呼びかけに責任を持って応答するということです。これが「報」ということの一番元の意味です。

報恩講は親鸞聖人の呼びかけに本当に一人ひとりが責任を持って、「私は親鸞聖人の教えをこのようにいただきました」と、「私はこのように生きていきたいと思います」と、責任を持って応答することが「報恩」という意味なのです。ただ単にありがたい、ありがたいと言ってうれしくなっているのではなくて、そこにはいつも「我が身を知る」ということと「御恩を知る」ということの2つがついているのです。このことは2つのようですが一つなのですね。

「恥ずかしい」と「もったいない」、これがお念仏の生活の要ではないでしょうか。実に親鸞聖人が念仏一つに本当になりきり、頭が下がりきっていられる姿がそこにあるのではないでしょうか。

「凡夫はすなわち我らなり」と親鸞聖人は言われますが、「すなわち」というのは取りも直さずという意味です。凡夫はとりもなおさず私たちだと。しかし、親鸞聖人が言う「我ら」というのは単数ですよ。凡夫というのは私たちという意味ではなくて、親鸞聖人ご自身を言っているのです。妄念と言えば迷いの心でございますね。煩悩と言っても同じことです。妄念はもともと凡夫の地金です。「慙愧」できたということではありません。「無慙無愧のこの身にて」と、恥ずかしさということさえもないような我が身だとまで、ご自分のことを見つめ抜かれた方が親鸞聖人でございます。私は、死ぬまで凡夫だというところに腹を据える修行があるということをこのごろ思わさせていただいています。