東京教区東京2組
寺族一泊研修
出雲路善嗣先生の法話より
2005年8月23日(火) 於:陽願寺

【'05年9月4日掲載】

日時 2005年8月23日(火)
会場 陽願寺 (福井県福井市)
講師 出雲路善嗣先生
テーマ 金子大栄先生の思い出

東京2組の若手学習会は、福井市の陽願寺に金子大栄先生の直弟子である出雲路善嗣先生を訪ねました。先生は、「金子大栄先生の思い出」をテーマに、知識で仏法を聞くのではなく、生活のなかから身を通して、仏法を聞くことの大切さを語られました。その一部をご紹介します。

出雲路善嗣先生法話「金子大栄先生の思い出」

恩師・金子大栄先生

復員して大学で鈴木大拙先生の集中講義に参加しました。先生との出遇いが人生に大きな意味をもちました。大拙先生が言われた「お前らの時代が来た」ということがひっかかって火がついたのでしょう。そこで何を専門にやっていくかについて、金子先生が華厳、曽我先生は唯識をやられておられましたが、私自身、祖父の影響もあって、華厳をやるようになっていきました。そこで金子先生との出遇いがあり、先生に師事して、論文を書いたのです。

六十華厳は2年半かかりましたが、金子先生について学びました。私はそれほどまじめに勉強をしたほうではありませんでしたが、金子先生の講義だけは一度もさぼりませんでした。そんなことで、金子先生から論文を85点もらいました。卒業後、金子先生に進められて大学に残ることになりました。

金子先生が全人社という出版社を作られていたので、そこでお手伝いをさせていただきました。先生は文章に厳しく、何度も何度も校正をさせられました。先生のもとに1年いましたが、北海道の随行を命じられて、1カ月以上先生のお供をしました。研究室に残るわけでもなく、まじめに勉強したわけでないのですが、私がお供することによって、旅館や汽車などで色々とお話を伺えたことが何よりも人生の大きな財産になりました。

その後、本山に入り、南米ブラジルの開教に6年赴任しました。餞別はもらいましたが、手当てなど1銭もなかったのです。現地でお数珠や和讃本を買ってもらうことが生活費でした。法話をしなければならなくなりまして、とても苦しみました。時には日本人の門徒の人たちはシビアで帰ってしまうこともありました。金子先生が意訳の『教行信証』をくださいましたが、それをもとに話をしようにもなかなかできませんでした。華厳も誰も聞いてくれませんでした。逃げることもできず、その中で一つひとつ教えられていきました。生活といえば、赴任して1年目に息子ができましたが、お風呂もない状態でした。日本人にしか言葉は通じないわけです。フエラという市場では日本人の買い物客が多かったので、現地の人も日本語を話したので、そこにはよく行きました。そこで現地の人と知り合いになり、彼らを通して、彼らの両親とも話すようになり、現地の人たちの生活ぶり、苦悩を聞き、そういうことから、仏法をいただき直すことができました。このような苦しい状態を縁として、常に金子先生のご恩を常に感じていました。

帰国後、金子先生は在家仏教協会で東京の本郷にいらっしゃるということを松原先生から聞かされて、先生に再び会うことができ、先生の教えを聞き続けました。金子先生や曽我量深先生の本はすべてもっていましたが、本を読むのと、先生が目の前で法話していただくこととはぜんぜんちがうことがわかりました。ブラジルで先生の本を読んでもわからなかったのですが、先生の声を聞くとちがってくるのです。先生の声を聞くということの大切さを教えられました。

仏事の回復

同朋会運動に命がけで没頭しましたが、今何が危機的なのでしょうか。率直に言って、「正信念仏偈」(正信偈)のお勤めの伝統がなくなりつつある現状を憂いています。真宗の葬儀の中心が、「正信偈」で組まれていないのです。葬儀での布教がなくなっているのではないでしょうか。それをどこかで破っていかねばならないでしょう。私は、通夜葬儀で経典は読みません。「正信偈」を自信もって読んでいかなければならないのではないでしょうか。七日ごとにお寺に来て正信偈を読むように遺族に言っています。真宗は正信偈を中心にお勤めするということを考えていかねばならないでしょう。それが真宗のいのちです。家族皆で正信偈のお勤めをしていくところにお育てがあるのではないでしょうか。私がなぜそう思うかというと、金子先生のところに行っているとき、先生はお内仏で正信偈のお勤めを欠かさずされていたのです。そこに本願念仏の教えにふれていく場があるのでしょう。そして、言葉を超えたものが生まれてくるのではないでしょうか。門徒がお内仏の前でお勤めをすることがなくなってきています。それがなくなってしまえば何も生まれてこないですね。

私はよく草むしりをします。草むしりするということと聞法ということは同じではないかと思うのです。草むしりは聞法です。金子先生の和訳の真宗聖典を毎日読んでいるのですが、とても響いてきます。それは草むしりのおかげだと思っているのです。これは知識ではなく、身を通して聞いていくということが仏法をいただくということではないかと感じています。

毎月20日は金子先生の命日なので、必ず京都に行っております。この年になりましたが、先生の恩を深く感じており、先生のお内仏の前で念仏申させていただくことを楽しみにして聞法生活をさせていただいております。