東京教区東京2組
いのちのふれあいゼミナールの集い
田口弘先生の法話
2005年6月25日(土) 於:西光寺

【'05年6月28日掲載】

日時 2005年6月25日(土)
会場 西光寺(台東区)
講師 田口弘先生 (「東京坊主バー」オーナー、44歳)
テーマ どうにもならない私を生きる

6月25日(土)、西光寺(台東区)において、東京2組“いのちのふれあいゼミナールの集い”が約60名の参加者をもって開催されました。講師には、門徒倶楽部のメンバーでもある栃木県慈願寺衆徒で「東京坊主バー」オーナーの田口弘先生(44)をお招きし、「どうにもならない私を生きる」というテーマでお話しいただきました。そのお話のエキスをお伝えいたします。

田口弘先生の法話ダイジェスト

宗教のイメージ

私は今日は衣をきていますが、もともと皆さまと同じように親鸞聖人があきらかにされた真宗の教えを聞いているものでございます。

「どうにもならない私を生きる」をテーマでお話しさせていただきますが、本当に「どうにもならない私を生きる」ということに頷けているのか、知識としてではなく、自らのこととして受け止めているのかということを確かめていかねばならないのではないかと思います。

「坊主バー」は飲み屋ですから、様々な方がいらっしゃいますが、そういう方々と色々なお話しをさせていただいております。最近、とみに言われることですが、仏教、あるいは宗教全体に力がなくなっているのではないでしょうか。今年に入って凶悪犯罪や事故がたくさんありまして、それらは仏教の力でなんとかならないのかという声が聞こえてくるのですが、このことは、私たちが宗教全般に対してどう思いで接しているかということを端的に表しているのではないでしょうか。

宗教といっても、例えば神社仏閣にお参りするときには、たいてい何かをお願いするのですが、これは自分の都合がかなうかかなわないかということではないでしょうか。どこまでも自分の都合、世の中が荒れてくれば仏教の力で何とかしてもらいたい、経済が悪化すれば仏教によって景気をよくしてもらいたい──。つまり、仏教が“魔法の杖”になってしまっています。自分たちができないことをかなえてもらう、まるで『ドラえもん』ののび太のようです。私たちが教えを魔法の杖にしてしまっている。その願いは、自分の都合をかなえてくれる願いです。

お店で「仏教は信用しない」というお客さまがいますが、「どうして信用しないのですか」とお聞きすると、「手を合わせたぐらいで、願いがかなうわけがないでしょう」とおっしゃるのです。「あなたの願いはかないません。仏さまの願いが私たちに来ているのです」とお答えしています。自分自身をどこまでもたのみにしていることが苦しみの根本なのですね。

自分を認められない苦しみ

どうにもならない私を生きているのですけれど、その私が本当にどうにもならないものだということに気がつけないのです。どうにもならないというところに立てないことが私たちの苦しみであり、悲しみなのです。ですから私たち真宗門徒は親鸞聖人の教えのご縁に出遇っていくということですね。

自分の思い通りになる世界を求めることが当たり前のようになっています。その思いからぬけだしていけないかぎり、私自身を極楽浄土に生まれよと願っている如来の本願に出遇うことはできないわけです。なぜ、そう言えるのか、それは私自身が、如来の本願に出遇えなくて、そのために自分を傷みつけ苦しんだということが現実にあるからです。そのことが今、あの時は如来の本願に出遇っていなかったと、もっと言えば、如来の本願によって、今、ここにいのちをいただいている私自身、それこそどうにもならない私自身だが、同時にかけがえのない私でもあるということに出遇っていけなかったのです。そのことに気づかせていただいているということが今あるからです。

現実に目が見えません。皆様には当たり前に見えることが、私の方からは見えないのです。これが現実であり、事実です。世間一般では、目が見えたほうがいいですね。私の家には、色々な新興宗教の人たちが勧誘に来るのですが、言うことはひとつです。「目を見えるようにしてあげます」と。しかし、これが本当に必要なことなのでしょうか。これはとても大事なことなのですが、今の自分の姿をいただけないものが、かりに今背負っている苦しみを取り除いてもらったとしても、そこにはまた新しい苦しみがでてくるのです。『大無量寿経』に「田んぼがあれば田んぼがあることを憂う。田んぼがなければ田んぼがないことを憂う」とあるように、もし目が見えても、今度は別の問題がおこるのです。ですから、私は勧誘に来る方に「目が見えないのは大変ですが、目が見えていたころから悩みがいっぱいありましたから」と答えることにしています。

私たちの苦しみの根源は何かというと、今の自分自身の姿が認められないからです。「仏教なんて、宗教なんて、いんちきだ」となぜ言うかというと、自分の願いをかなえてくれないからです。ですから逆にあなたの願いをかなえてあげるという宗教があったら、みんな入ってしまうのです。しかし、かなえてもらえないと、うらむのです。私たちの願いそのものが自分本位なのです。

摂取不捨の利益

私が弱視のとき何がつらかったか、目が見える奴に馬鹿にされるからということがあるのですが、もう少し突っ込んで言うと、本当は馬鹿にされるような自分でありたくないからつらかったのですね。すでに、かけがえのないいのちを生きるものとして自分があるのに、その自分の姿に出遇えないのです。

今の自分の姿に全然満足できないのですね。それが私たちの苦しみのもとなのです。例えば、病気になってはじめて健康のありがたさがわかりますね。何気なくやっていることも当たり前のことではなかったのだと気づかされますね。でもこれは真宗の教えにふれなくてもわかることなのです。真宗の教え、私たちのかけがえのないいのちを生かさせていただいている阿弥陀のいのちに出遇ったときには、病気になっても生きていけるということですね。つまり、私たちのいのちの重さは平等であるということを教えられるのですね。

『歎異抄』1章に「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」とあります。「摂取不捨」(おさめとって捨てない)ということが、仏教の、阿弥陀の利益ですね。私たち一人ひとり皆ちがいますけれども、かけがえのない、代わるものはないということで平等なのです。皆、同じいのちを生きてほしいと願われているのですね。それを受けて、私たちは今、ここにいのちをいただいて生きているのですね。これが摂取不捨の利益ということですね。

願われている存在に気づく

しかし、私たちはそのことになかなか頷けないのです。自分のものさしが中心となっているのです。「目が見えないのなら死んだほうがいい」、これが自分のものさしです。なぜ、そう思うのか、それは人に勝てないからです。30年前の私はまさしくそうでした。毎日、死に場所探すような生活をしていました。

しかし、京都専修学院の学院長をしておられた長川一雄先生との出遇いが私を翻したのです。私が先生に「何をやっても負けるから死にたい」と話しましたら、先生は「勝ち負けは世間ではあることでしょう。問題はあなたが勝とうが負けようが、今、ここにあなたが生きているということが一番大切なことでしょう。それだけが事実ではないですか。そして、阿弥陀如来の願いは勝っても負けてもあらゆる人を救うのです。勝っても負けてもわが身の事実を受け止めていくことです」と話してくださいました。

事実を受け止めるとは、いただいたご縁を精一杯生きているということですね。他力というのは如来の本願力です。それはどういう力かというと、極楽浄土に生まれよと私たちを摂めとって捨てないということです。願われている力ですね。私たち一人ひとりがかけがえなく輝いて生きていける世界を極楽浄土というのです。

『阿弥陀経』に「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」とありますね。それぞれの色がそれぞれの色で光っている、このことがすべてのものが平等だと表わしているのです。では私たちは何色で光っているのだろうといってもだめなのです。蛍ではありませんから自分では光れないのです。仏さまの願いを受けてはじめて光っていくのです。けっして自分では「かけがえのない○○です」とはいえません。何かと比べたり、自分勝手に基準を設けたりしてはいないでしょうか。

「目が見えないのですね」と聞かれると「はい、見えませんが、ちゃんと働いています」とただ「はい」といわずに、必ず一言つくのです。結構がんばっているのだと言いたいのですね。一人ひとりのかけがえないいのちを生きるものであるならば、「はい」だけで十分なのです。一人ひとり、それぞれのいのちのままで生きよと願われている存在だと気づかないと、どこまでも他人と比較していくのです。それは自分の都合、自分のものさしです。勝っていこうとすることは、罪悪深重煩悩熾盛ということです。このことは私たちから消えていかないのです。

その私たちを摂めとって捨てないのが如来の願いなのです。私は目が見えないから、どうにもならないから生きていくのではなくて、実はそのことを受け止めていけないことが、どうにもならない私だということですね。私たちの事実を事実として受け止めないで勝手に色をつけていくのです。本当は「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」ですね。そう願われているのです。それを自分の絵の具で塗りつぶしていってしまうのです。それが悲しいかな、私たちの姿なのです。

だから罪悪深重煩悩熾盛のものとして救われていく、そのことに気がつくかどうかです。自分の思いでは気づくことはできません。如来の願いにふれるのです。どんなつらいことがあっても、今、ここに、いのちとして生かさせていただいているのです。悲しいことがあっても、悲しい人間として生きていくことが許されているのです。今、ここに、ある自分、これが事実です。それに対する言い訳とか、とりつくろいはたくさんあるのです。しかし、そのことが本当のいのちから、自分を遠ざけているのです。

今、いのちがあなたを生きている

親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマは「今、いのちがあなたを生きている」ですね。私がいのちを生きているのではありません。いのちが私を生きているのです。これがいのちの事実です。目が見えなくなったら見えなくなったままで生きられるのです。

今日もいらっしゃっている蓮光寺さまのご門徒の篠崎一朗さんは『人生に何一つ無駄はない』(東本願寺出版部)というご本を出されましたが、癌になられて闘病して克服されたのですが、そのときに教えによってはじめて「無駄はない」と気づかれていかれたそうです。

健康であることが当然であって、あるいは病気であることが異常なことだという尺度では、たとえ一日であっても病気の日は無駄になってしまうのです。だけれども、入院して闘病されていただいた人生と、健康のまま生きていった人生とは同じなのだと気づかれたといわれていますね。

篠崎さんは「天命に安んじて、人事を尽くす」という清沢満之の言葉に感銘を受けられていますが、私たちは、この「人事を尽くす」ということをもっと大切にしなければならないと思います。如来の本願力によって、私たちが今、ここに、いのちをいただくということは、人事を尽くしていくということなのです。

他力をいただくということは「がんばります」ということです。ありのままに生きるといいますが、何もしないということではありません。癌になったら、癌のままに生きていくのです。目が見えなくなったら、目が見えない人生を生きていくのです。もちろん愚痴、悲しみもあるでしょうが、そのことをまるごと受け止めて生きていくということです。楽しいことと同じように受け止めていくのです。それが浄土に生まれていくということです。

回心懺悔ということ

仏教によって、悪い事件がおこらなくなるということはありません。その事件と真向かいになることです。曽我量深先生は、「仏教は人間の苦悩を取り除くのではない。苦悩する人間を救うのである」とおっしゃっています。苦悩を取り除くために色々とお寺参りをする人も多いようですが、そうではないのです。

家庭ひとつとってみても、例えば私の父親は「家族はいつも一心同体であるべきだ」といっていた裏には、いつも家族が自分の言いなりになってほしいという心根が見え見えでした。すべて自分の都合、思いです。仏法に照らすと、おかしな生活をしているのです。私たちは救われがたい身なのです。

殺生はいけないというけれど、私たちはたくさんのいのちを食べて、自分のいのちをつないで生きているのです。このことがしょうがないということなのか、本当はいけないことをしてしまって申し訳ないという懺悔があるのか、食べている現象は同じでも質が違うのです。懺悔するということが回心ということでしょう。

回心懺悔とは、翻されていくということです。自分の思いがくつがえっていくことです。私は目が悪いことがいけないことだと考えていましたが、そう考える自分こそがいけなかったのです。目が見えないなら、見えないそのままにいっしょうけんめい生きるのです。その力は如来からいただいた力です。それが如来の願いに生きるということなのです。

自分のものさしを絶対にしてはならないのですが、そこから逃れることはできませんから、どうにもならない私を生きるのです。どうにもならないということを自覚し、阿弥陀さんの願いによって、そのことが悲しまれていると受け止め、事実を事実として生きていけることが回心懺悔ということでしょう。回心懺悔の姿こそが南無阿弥陀仏ですね。

かけがえのないいのちとして私が救われていくということが願われているのに、私自身がその上に自分の絵の具を塗りたぐって見えなくしている、本当に申し訳ない。このことが南無阿弥陀仏ですね。そんな救われがたき私でありながら、その私を摂めとって捨てないという如来の願いがたてられているということに気づくかどうかですね。それが如来の願いに応えることなのです。いのちの願いに応えていくのです。私たちは願われているのです。それが回心懺悔であり、南無阿弥陀仏なのです。

今日はたまたまお話をする側ですが、私も皆さんと同じように教えを聞いていく人間です。これからも皆さまとともに聞法させていただきたいと思います。ありがとうございました。