東京教区東京2組
門徒会主催「聞法の集い」
花園彰先生の法話より

【'05年3月7日掲載】

3月5日(土)、源信寺(足立区千住大川町)において、門徒会主催「聞法の集い」が開催されました。

門徒会では“仏事を通して真宗の教えに出遇う”ことを集いの願いとして、毎回、各講師の先生に法話をいただいています。今回は、花園彰先生(東京1組・円照寺住職、56歳)をお招きし、「法事を勤める意義」をテーマに法話をいただきました。

その法話のダイジェスト版を掲載いたします。

花園彰先生の法話ダイジェスト

はじめに

「法事を勤める意義」というテーマをいただきました。そのことを親鸞聖人の教えに照らして、いっしょに学んでいきたいと思います。

先日、ひさびさにお墓参りにいらしたある門徒さんは、家を建て直すので、安全祈願のために来たと言われていました。前にも子どもが受験のためということで、お墓参りにいらっしゃった門徒さんがおられましたが、お墓参りも法事もそうですが、一体どういう心持ちでお参りするのか、自分のあり方を見つめ直すことが大切だと思います。

「ないものねだり」から「あるものさがし」へ

私は『サンガ』の編集に携わっておりますが、その関係で辻信一さんとお会いしました。辻さんは、明治学院大学の教授で文化人類学を専門とする傍ら、環境運動家という肩書きをもっておられます。「ナマケモノ倶楽部」をつくって100万人のキャンドルナイトをおこなっています。動物のナマケモノは環境に優しいからそういう名をつけたそうです。キャンドルナイトは、テレビや電灯から怠け者になって、暗闇をとりもどして、ロウソクの火をともしたなかで、食事をしたり語り合ったりと、ゆっくりとした時間をすごそう、そういう時間をとりもどそうと提案してやられています。

辻さんは『スロー・イズ・ビューティフル』という本を書かれ、遅いことは美しいこととして、スローライフを提起されています。日本は戦後、豊かな生活をめざして、より早くより効率的により便利にということで皆がんばってきました。しかし、ものは豊かになりましたが、本当に心の底から豊かさを味わっているのでしょうか。子どもが親を殺し、親が子どもを殺す時代になってしまっています。一度私たちの生活を見つめ直してみようということですね。

真宗の家庭生活の伝統は、お内仏中心の生活でした。お内仏にお仏飯を上げて下げて、それをいただくわけです。いただいたものは必ずお内仏にお供えしてからいただいたものです。お内仏の生活は今いる自分と、過去の先祖たちと、またそれを子どもたちが引き継いでいくという未来にわたって、つながったいのちを感じることができたのです。ところがファーストフードはより早くより便利にということですから、こういう価値観がお内仏の生活を奪っていってしまいました。

辻さんは、「ないものねだり」から「あるものさがし」へ社会が変わってきていると、「ないものねだり」でがんばる時代は終わったと言われます。私たちの生活はどうでしょうか。若いころはよかったなぁということであれば「ないものねだり」ですね。それは、今ある自分を受け入れられなくて、自分を見捨てていってしまいます。生老病死のいのちを生きているわけですから、「ないものねだり」では先細りになっていってしまいます。そうではなくて、「あるものさがし」をすることによって、つまり当然のこととして省みないようなことをもう一度受け取り直して、自分を犠牲にして見捨てていくあり方を転換していくことが大切だと思うのです。実は親鸞聖人もそういうことをなさったお方だと思うのです。「いま ここの私」を受け止めて生きていく、そういう道すじを明らかにしたのがお念仏の教えではないでしょうか。

仏法不思議といいますね。「不思議」とは、超常現象とか怪奇現象ではありません。あたりまえのこととして省みないことが、大切なこととして問い返させられ、目が覚めたということが「不思議」と表現されています。つまり驚きと感動を表わす言葉が「不思議」ですね。例えば、皆さんには両親がいますね。そのお父さんにも両親がいて、そのお父さんにも両親がいるとさかのぼっていくと、30代さかのぼると10億人を越える両親がいることになります。10億人の両親のひと組でも出遇いがなければ、私がここに生きているということはないわけです。不思議としか言いようがないですね。こういういのちの背景がありますが、さらにこれを空間的に広げてみますと、私は今日の昼は、天ぷらそばを食べましたが、その一杯の天ぷらそばを見ても、えび、小麦粉、醤油・・・全世界のいのちが一杯の天ぷらそばになり、それを食べて私のいのちが維持されるのです。私が生きているということは、そういう無限の過去、無量無数の両親を背景に持ち、そして全世界が私のいのちになって、今、ここに、私がいるのです。本当に不思議としか言いようがありませんね。そうしますと辻さんの言われていることと親鸞聖人の教えと何かつながりがあるように感じ、大変共鳴したわけです。

「報恩」としての仏事

『歎異抄』5章に、「親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」とあります。法事にはふたつの流れがあるようです。ひとつは追善供養、追善としての仏事ですね。亡くなった人に対して、生きている側がなにかはたらかけをする。しっかり供養することによって家族を守ってもらいたいという心根、また、それをしないと祟られるといった心境が追善としての仏事にはありますね。追善供養は結局のところ、我がため(自己中心性)におこなうといっていいでしょう。それに対して真宗の仏事は、「報恩」としての仏事です。親鸞聖人は「親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」と言われます。親鸞聖人は、追善のために念仏は申さないと。それは「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟」だからというわけです。つまり、「報恩」ということが成り立たなければ本当の供養にならないと言われるのです。

松永伍一さんという門徒さんがいらっしゃいます。松永さんは文学者として、名もない農民の詩集を『日本農民詩集』としてまとめられたのですが、お母さんは熱心な念仏者でした。そのお母さんが亡くなるとき、松永さんは和紙に筆で「母上様、私を産んでくださってありがとうございました 松永伍一」と書かれて、柩のなかに入れたそうです。お母さんは自分で死に装束を作り、また詩を作っておられたそうです。「冥より 冥へ移る この身をば そのまま救う 松影の月」という詩です。松影とは阿弥陀さんの光のことです。阿弥陀さんの光のなかでこの世をすごさせていただきました。南無阿弥陀仏と書かれて亡くなっていかれたのです。松永さんは、そのお母さんに「私を産んでくださってありがとうございました」と書かれたわけです。松永さんは、いつもお念仏のなかでお母さんと遇っていると言われます。この世に生を受けたいのちを本当に喜ぶ者になっていくということ以外に供養ということはないのですね。

このことに関連して、曽我先生の言葉を紹介いたします。「自分自身の心を深く掘り下げれば、そこに宿業がある。祖先というものは、いつでも自分自身の中にある。祖先は自分自身において生きている。だから、それはわが業、わが宿業、わが責任である。だから自分自身が助かれば、祖先も助かる。自分だけが助かるのではありません。自分が仏法を信じ念仏を称え本願を信じれば、祖先もまた助かる。一切の祖先は、どうかお前助かってくれと願っているのである。無量無数の祖先が、私達の身の中、心の中に生きている。そして、どうか助かってくれ、そして私を助けてくれとみんな願っているのである」─。松永さんが念仏に出遇って、「母上様、私を産んでくださってありがとうございました」と言われ、我が身を我が身としていただくことができたのと同じです。これが「報恩」の仏事ということと重なってくると思うのです。

いのちみな生きられるべし

信国淳先生は私にとってかけがえのない先生です。先生から教えをいただいた仲間で、先生の法事を毎年「青草会」[あおくさえ]として勤めています。「われら 一向に念仏申して 仏天のもと 青草人となりて 祖聖(親鸞聖人)に続かん」という言葉は多くの人たちが先生の遺言としていただいています。生活が仏天仏地の場になっているかということが問われているということでしょう。家で言えば、単なる家ではなく、如来の家になっていってほしいということです。家にご本尊をお迎えしているということは、本尊を迎えた生活の場ということです。本尊に手をあわせる生活が開かれてくるということですね。

「青草人」という言葉は、親鸞聖人が90歳ご臨終のときに書かれた「我が歳きわまりて 安養浄土に還帰すというとも、和歌の浦曲のかたお浪、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。一人居て喜ばば二人と思うべし。二人居て喜ばば三人と思うべし。その一人は親鸞なり。 我なくも 法は尽きまじ 和歌の浦 あおくさ人の あらんかぎりは」という『御臨終の御書』からの引用だと思います。この身が喜べれば、そこに私がいますよということですね。青草とは、いのち、同朋ということです。朋に草冠が付いて萌(もえ)、群萌という言葉がありますが、私たちのいのちを表現しているのです。無量寿(アミダ)という無量なるいのち、そのいのちを私たちは生きている、つまり阿弥陀のいのちを生きているのです。群萌のようにお互いが関係し合いながら生きているのです。信国先生は「いのちの根源的事実」と言われます。無量寿を大地とした世界を「浄土」という言葉で表現されてきたのです。そういういのちを私たちはえり好みをして、自分の思いで固めて生きているのです。他に対してだけでなく、自分自身すらも閉じ込めていってしまうのです。その思いの殻を破られて、無量寿といういのちの世界にふれさせていただく、これが南無阿弥陀仏ということです。浄土とはどこかにある世界ではなく、私たちのいのちをささえている根源的な世界なのです。阿弥陀のいのちを生きているということに目覚めることが願われているのです。

最後にリルケの詩を紹介します。「あたかも牢獄を逃れんがごとく 人は自己の前を逃れんとすれども 世にひとつの大いなる奇蹟あり 我は感ず いのちみな生きられるべし」─。自分のいのちさえ犠牲にしていく自分のあり方、選び、嫌い、見捨てるあり方の殻をやぶって、いのちみな生きられるべし、ということですね。

法事はご本尊のもとで行われます。選ばず、嫌わず、見捨てない世界を私たちに伝えようとするのが法事でしょう。そういういのちにふれて、はじめて私たちは生きるということが本当の意味ではじまっていくのでしょう。それが念仏相続の大きな意味だと思います。