東京教区東京2組
寺族研修26
谷田暁峯先生の法話より

【'04年12月19日掲載】

12月9日(木)、常福寺(足立区)において、東京2組寺族研修(vol.26)が開催され、「わしらがやらにゃ仏法はさかんにならんぞ ─ 聞法道場「広大舎」発足の願い ─」というテーマで、「広大舎」主幹の谷田暁峯先生(70)にお話しいただきました。谷田先生は、サラリーマン生活を送りながら、在家の仏道を歩まれ続け、現在は自宅に聞法道場「広大舎」を開き、ひたすら念仏道を歩んでおられます。

その谷田先生の講話の一部を紹介いたします。

谷田暁峯先生の講話ダイジェスト

はじめに

「わしらがやらにゃ仏法はさかんにならんぞ」という暁烏敏先生のお言葉は、昨年亡くなられた西村見暁先生が、昭和29年8月18日に暁烏先生のご病床にまいられたときに、暁烏先生からお聞きになったお言葉です。西村先生は、暁烏先生の最後のお言葉として心底に残っていらっしゃったのですが、この言葉を私に教えてくださいました。

暁烏先生にご縁をいただいた者は、この言葉を先生のご遺言として生きるものになるということだと思っています。

「わしらがやらにゃ仏法はさかんにならんぞ」というタイトルで4年前に『教化研究』に寄稿させていただきましたが、それをベースにしながら、お話しさせていただきます。

明達寺での生活

私は、昭和32年、23歳のときに暁烏先生の明達寺にお世話になるようになりました。そして34年に得度して、明達寺の衆徒となりました。暁烏先生は亡くなられておられましたが、西村先生を通して、暁烏先生にふれることができました。

実は、私は家出を2回いたしまして行き場がなかったのですが、縁あってお寺にお世話になることとなったのです。そのころ、藤原鉄乗師が中心となって、暁烏先生の三回忌の記念事業として、『暁烏敏全集』の刊行ということが寺内で行われておりました。お寺では9人の僧侶が寝食をともにしていましたが、私もその一人として加わりました。ちょうど3年半、お寺で暮らしました。お寺に入って45日間、たばこ好きの私がたばこを吸うのも忘れるほど高揚したのです。

長続きはしませんでしたが、今ふりかえってみると、お寺は「悩みを悩むことができる」場所だったと思います。西村先生が私を指導してくださいましたが本当に厳しかったです。感話もいきなりあてられ、泣きながら壇からおりる毎日でした。

後にお寺を出たのは、出奔というのでしょうか、突然逃げ出したのです。ただ、「後生の一大事」の問題はもちろんなのですが、暁烏先生の食前後の言葉、ことに食後の言葉「おあたえの尊い食物をいただいて 心身に力が満ちてまいりました このご恩にいさんで御用を勤めさせていただきたいと念じます」という言葉が後々響いてきました。

こんな私のような者でも、明達寺にもどってくると、自然に受け入れてくれたのです。仏道を求めるならば、どんな人でも受け入れるという暁烏先生の伝統があったのです。恐る恐るお寺に戻ってきたのですが、明達寺の坊守さんは、何も言わずに、逃げ出したことなどまったく関係なく、いつも生活しているがごとく接してくださったのです。

道場を開く

その後、私は上京しミサワホームに勤めました。59歳のとき、東本願寺「真宗会館」の教師取得コースが土日だったので、土日なら受けることができると思って申し込もうと思いました。受付の方に「大谷派の教師になって、どうなさるのですか?」と質問され、戸惑いました。定年後の「メシのタネ」と思う以外ない自分の正体を見抜かれてしまったように感じ、意気込んできた気持ちも一気にしぼみ、申し込まずに帰宅しました。林暁宇先生に「ご縁がなかったとあきらめます」とお話しいたしましたら、先生は「暁烏先生が生きておられたら、どれだけ喜んでくださることだろうな」とおっしゃられました。暁烏先生が喜んでくださるならと、再び受ける気もちになりました。明達寺の暁烏哲夫住職に判をもらい、取得コースで勉強をはじめ、試験に合格し、本山での修練を経て、教師の資格を取得しました。

当時、神奈川県伊勢原市のマンションに住んでいましたが、そのマンションを共に教えを聞いていく念仏道場にしたいと思いました。暁烏先生の「南無阿弥陀仏」の名号一幅をかけ、お越しいただいた林暁宇先生と家族4人に、道場に寄せる私の願いを聞いていただきました。こうして念仏道場「雖陜舎(すいこうしゃ)」が誕生したのです。「わしらがやらにゃ仏法はさかんにならんぞ」という中身は「念仏忘れまいぞ」ということだったといただいております。

道場と在家生活の意義

「教師になって何をするのか」という問いを念仏道場「雖陜舎(すいこうしゃ)」を開くかたちで具体化したのですが、それは首都圏開教ということもありますが、布教のためではなく、自分の生活のなかに仏道を求めるというのが基本です。そのことを大切にしながら、報恩講を勤めるなど、広く開放するようになっていったのです。

暁烏先生は還暦を迎えられて「大報恩会」(昭和11年、釈尊、聖徳太子、親鸞聖人、蓮如上人、清沢満之先生、ご両親を勧請され、1週間にわたってつとめられた法要)を厳修されました。曽我量深先生、金子大栄先生、鈴木大拙先生をはじめ、毎日3人のご講師が法話され、暁烏先生は講師の一番近いところに座って聴聞しておられました。それを昭和18年に『わが信念の伝統』として出版されたのです。

平成6年に還暦を迎えた私も有縁の方々と聴聞する場を持ちたいと願い、「念仏聴聞会」が始まったのです。「臘扇忌」(6月)、「香草忌」(8月)、「報恩講」(11月)、「聖徳太子奉讃会」(2月)と毎年4回のご法座が開かれるようになりました。「私一人[いちにん]の道場と言いながら、なぜ人を集めるのですか」と妻に言われ、よくけんかをしたものですが、在家で道場を開くと必ずおこる問題でもあるのですね。林先生は「舎は、わが家じゃないということだ」とおっしゃり、「私が」「わしが」というところに仏法はないと堪忍しました。「なぜ」という妻の声は、実は私自身の本音だったことをお知らせ下さいました。

「広大舎」で法話される谷田先生

「関東こそ大事の土地」との林先生のお言葉と共に「わしらがやらにゃ仏法はさかんにならんぞ」という暁烏先生の大音声が響いてくる毎日でした。その後、私は石川県に帰り、関東での願いをもって、念仏道場「広大舎」を開きました。

同朋会運動を暁烏敏先生は同朋生活運動とおっしゃいました。先生の仏法は常に生活でした。仏の教えは家にあると思います。私は林先生を通して、暁烏先生に直参していったのですが、林先生は私に「暁烏先生に会わせてやりたかった」と口癖のようにおっしゃられます。前回の研修会の資料のなかに長川一雄先生のお言葉がありましたが、それは結局「自分自身が本当に遇いたい人に出遇っているのか」ということだと思います。そのことがとても大切なことだと感じています。

私の在家としての仏道の歩みについてはこれぐらいにして、このあとは皆様からお寺のなかで在家仏教をどう生きておられるのか、どこで生きる喜びを感じているのか、また人々の隠れた宗教心にどうふれられているか、むしろお聞かせいただければと思うことです。