東京教区東京2組
寺族研修25
本多和先生の講話より

【'04年10月20日掲載】

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10月7日(木)、蓮光寺において、東京2組寺族研修(Vol.25)が開催され、「同朋会運動の歩みとその願い」というテーマで、川崎組稱名寺住職の本多和先生(56)にお話しいただきました。また、東京3組宗善寺住職の山名廣隆先生(57)には、コメンテーターとして加わっていただきました。

本多和先生の講話を聞き、本多和先生の真宗僧侶としての歩みそのままが同朋会運動にほかならないことを感じました。ということは、どこかに同朋会運動があるのではなくて、親鸞聖人の教えを改めていただき直し、人間を回復していく歩みそのものが同朋会運動という名となって願われているのだと思います。私にとっての同朋会運動とは? その願いとは? このことをはっきりすることが一人ひとりの課題として与えられました。その講話の内容の一部をご紹介いたします。

本多和先生の講話ダイジェスト

はじめに

9月12日に父が亡くなりました。5月と8月に入院して亡くなるまでの間、私たち家族は、色々なことが問われ、また学ばせてもらいました。

特に、介護をするなかで、「まるごとつつんでくれるものがほしい」という願いを父の姿から感じました。「まるごとつつんでくれるもの」を人間は根源的な要求として持っていることを、あらためて父から教えられたわけです。

仏法にふれる縁を大切に

訓覇内局が成立したことでいえば、同朋会運動は1961年にはじまったといっていいでしょう。しかし、真人社運動、あるいは白川党運動のことまでさかのぼると、相当な歴史になると思います。

さて、推進員養成講座は同朋会運動の大切な核でありますが、各組が推進員養成講座を受けるか受けないかというときに、「同朋会運動はすでに終わった」というような発言が出されることがあります。こういう発言の背後には、上位下達ということへの反発もあるし、組織運動で人は生まれるのかという問題もあるでしょう。そんなことで、門徒を推進員養成講座に参加させない寺院もあるようです。残念なことですが、こんなかたちで推進員養成講座が了解されてきた面があります。

確かに組織の運動という一面もありますが、推進員養成講座は、「仏法にふれる縁」であることに相違ないので、縁まで切り捨てる必要などないのではないでしょうか。どういう方に呼びかけ、呼びかける自分はどこに立って呼びかけているのかが問われているのではないでしょうか。やはり、講座を通して、親鸞聖人の言葉にぜひふれていただきたいという願いがあります。同朋会運動は信仰運動だといいますが、いかがでしょうか。やはり「縁作り」という形ではじめることが大切ではないでしょうか。歩みだす縁を作るのが我々僧侶の責任ではないかと思います。

縁をつむいでしまう根、つまり門徒を推進員養成講座に出さない根拠は何なのかと考えたときに、我が弟子の問題があると思います。講座に門徒が参加すると、門徒が取られてしまうといったことを聞いたことがあります。門徒を自分の所有にしてしまっているのです。「親鸞は弟子一人ももたず」という意味をいただき直していかねばならないでしょう。

ところで、お寺というところにいて、どこで生きる喜びを感じているのでしょうか。

私のお寺は、お座というものが戦前から行われていました。子ども心に28日にご門徒が集まってきて同朋唱和をし、続いてお話をするといったかたちのものでしたが、それが非常に心地よかったことを覚えています。お座はお寺を確認する大事な場所でした。

2、3年前に、お寺の同朋会は発足30年を迎えましたが、お寺に教えを聞く場があるということは、私にとって力強いものでした。通夜葬儀・法事、永代経など仏事を行っているが、それと並行して教えを聞く場があるということは、お寺の意味を確認する大きなものでした。

同朋会運動と私自身の問い

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同朋会運動といった場合、宗門は教団問題も連続してあったわけですが、それをどう考えていくかということがあります。また、節目節目に何があり、何が問われているのかということを整理する必要もあると思うのですが、やはり自分自身の歩み(歴史)を語るしかないと思います。

私が小学校のとき、仮本堂のなかで生活していました。私たち家族の住まいは8畳2間の空間しかなかったので、いいこともあり、またいざこざもあり、すべてを目の当たりにてきました。そのときに「家族とは何か」という問いが私のなかに生じたのだと思います。小学校では仲良く暮らしましょうと教えられましたし、自分にもそういう妄想があったが、現実は色々なことがおこります。「家族とは何か」「自分がここにいるということはどういうことか」そして「寺とは何か」ということを考えていました。

大谷大学入学後、入学式に杖をついて出てこられたのが曽我量深先生でした。アカデミックなものが大学と思っていたので、衣に杖をついた先生を見て、えらいところにきてしまったと思ったものでした。1ケ月後、和田稠先生が手紙をくださいまして「お念仏の仲間になったことを祝います。大学で教えに触れられることを切に願います」と書かれてありまして、大谷大学で学ぶということは、そういうことだったのかと教えられました。大学2年の時、祖母が癌で亡くなりましたが、亡くなる前のお見舞いの時「助けてくれ、こわい、なんとかしてくれ」と私は言われましたが、何も言えずに京都の下宿に戻りました。その祖母の言葉から、私は何をよりどころとして生きようとしているのかが問われたのです。「自分の財産を頼みにし、自分の妻子朋友を頼みにし、自分の親兄弟を頼みにし、自分の地位を頼みにし、自分の才能を頼みにし、自分の学問知識を頼みにし、自分の国を頼みにするようではいけない」と、清沢満之先生は『宗教的信念の必須条件』に書かれていますが、まさしく私自身に問われていることでした。こうしたことが私の出発点にあるのです。

私の大学時代は、学園紛争の最中でした。「総括せよ」と迫る言葉、「自己否定」、「主体性の確立」、「原点」、そして「連帯を求めて孤立を恐れず」といった言葉が横行していました。「自己否定」ですが、自己を否定するのは何かという問題があります。最終的には自己が自己を否定しなければならないという。どうしたら自己が解体するのかが問題でありました。

大谷大学でも、学生と教授が毎日のように大衆団交でした。学内では、セクトごとにマイクをもってがなりたてて、デモや集会が行われていました。大谷大学は宗門の大学ですが、大学の自治からいえば宗門とは何かという問題もありました。そのような状況の中で、授業では寺川俊昭先生の『真宗教団論』が一番面白かったですね。そこで清沢先生がおられることをはじめて知りました。白川党運動やら『教会時言』、『精神界』、あるいは清沢先生の修道的歩みなどを学び、宗門にこんな人がいたのかと、大きな励みと力になったのです。清沢満之先生は宗門改革に身を捧げられました。しかし、上からの改革はまちがっていたと、要は、寺院を含む1千万門徒のことを忘れていたと気づかれて、真宗大学の学長になって、仏道による教育に尽力されるのです。清沢先生は、教団を捨てるのではなくて、教団に身を置く生き方をされたのです。どこまでも宗門を追い続けるという形で改革運動も、そして教育にも専念されたのです。私は、清沢先生のような人がいるなら、自分も何とか寺で生きていけるかもしれないと思いました。清沢先生の生き方は、私にとって本当に大きな力となりました。

こうしたなかで、宗門では「開申問題」がおこりました。このとき、法主制度の廃止が学生の側から取り上げられました。現在は、法主制から門首制に変わりましたが、門首制とは何かについて、もうひとつはっきりしていないように思います。

大学卒業の時には、全共闘のシンボルであった安田講堂が陥落し、また、四ツ谷の自衛隊駐屯地では、三島由紀夫が割腹自殺をはかりました。このように、大学時代は学園紛争の只中で、改めて宗門、教団とは何かということがいやをなく問われたのです。

学部を卒業後1年残り、曽我量深先生や金子大栄先生の大学院の授業を聴講して、1年後に寺に戻ってきました。現在は、教区や組に色々なかたちで出ていく場所がありますが、当時はあまりなかったので「我聞会」という学習会に参加して、児玉暁洋先生と西田真因先生をペアで何年かお呼びしました。

また、当時、教区駐在教導をされていた長川一雄先生との出遇いがありました。東京本願寺の近くの飲み屋に連れて行ってもらって、色々と語ってくださいました。長川先生は、まず親の承諾を得ておいて私に「京都のこの研修会に出なさい。書類をすぐ書きなさい。あとは私が提出しておきます」というようなかたちで、色々な人や会を紹介してくださいました。2組にも教導さんがおられますが、教導の仕事とは、研修会の司会とかも大事ですが、「君はここに行きなさい」とか「君はこの人に会いなさい」というルートをつけていくことではないでしょうか。

長川先生の勧めで「伝道研修会」(伝研)に参加しましたが、講師は蓬次祖運先生でした。夜は「真宗カリキュラム」の学習でした。東京教区でも2泊3日で地方伝研を開催し、蓬次先生をお招きし、毎年『教行信証』の講義をいただきました。こういう学びのなかから、宗門を何とかしたいとの思いも強くなっていきました。

昭和50年ころでしたか、川崎組で「正信と迷信」というテーマで特伝を行いました。講師は蓮原昭先生でした。このころは非常に力が入っておりまして、基本的に一カ寺一会場にして、組内の寺院をすべて回りました。講師随行の人は、その寺院に宿泊したのです。

ちょうどこのころ教区の実践4項目(本尊・位牌・塔婆・法名に関する実践項目)が掲げられ、生活のなかの非真宗性、あるいは習俗と伝統、因習の打破ということが、宗門でも教区でもテーマとなってきたところでした。そういうことに関係して、川崎組の特伝でも「正信と迷信」というテーマが出てきたのだろうと思います。

同朋会運動とは、自分自身の信仰批判

『教化研究』(111/112)の「同朋会運動の願い」という特集のなかで、教学研究所の蒲池信明所員が「近代化、民主化、正常化することが同朋会運動だという誤解があったのではないか」という指摘をされています。また、「近代をどう理解するのか」ということも問いかけられています。同朋会運動を提唱したとき、近代をどう理解したのかということです。そのことがはっきりせず、現代の問題を応えていこうとしたのではないか、そして、そこにどうしても不明瞭なものが残るといわれるのです。それは、ひとつには分裂報恩講に象徴されているのではないかと思います。その時に、同朋会運動は善人の運動になっているのではないかという問題提起がありました。一度も倒れたことがないものがする運動というのは、善人の運動であるということです。善人の運動であるかぎり、必ず敵・味方に分かれます。同朋会運動とはどういう運動なのか。信仰運動というかたちで運動をしているけれども、教えを通して、自分自身が一度倒れるということがないならば、それはやはり善人の運動にすぎないのです。悪人ということに頷いていくということが宗祖の教えの内容です。自分自身が悪人であることに頷いていくということがないと、果たして同朋会運動といえるのかどうかです。

私自身の了解ですが、聞法するということは、自分がいかにせまい世界に生きているかが教えられてくるのです。そういう意味でいえば、「いのちの私有化」とも言えるし、「自己保身」という言葉で言えるかもしれません。そういうかたちで生きている私の日常が、教えを聞くということを通して、せまい世界に生きているわが身が知らされてくるのです。知らされてくると、そこに感動が生まれるのです。そのことが聞法ということのなかにあります。ある先生は「公性が回復されてくる」と言われました。いのちを私有化している者が、教えを通して、公性なるいのちに生きようとするのです。人類に捧げる教団といいますが、それがどこでいえるのか、確認されていかなければなりません。聞法を通して、自分自身の有様が知らされ、そして公的な世界にふれるから、いのちが感動してくるのです。それが私の聞法の実感です。

色々な会がありますが、会を持つと、会いたくても会えない関係になってくるというやっかいな問題があります。ひとつの事柄がおきると、その事柄の関わり方においても分かれるし、ある先生に学んでいく者と遠のく者とが信頼関係を失っていくし、本当に難しい問題ですね。協力し合い、そして分裂していくのですね。和田稠先生は「ご本尊の前にみんなで座る。それ以外ないですね」と言われました。

同朋会運動といいますが、どういう運動なのか、私の感じたことを少しお話させていただきました。

山名廣隆先生のコメント

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「同朋会運動の歩みとその願い」ということで言えば、同朋会運動が自分にとって問題となってきたのは、第1期の特伝のときに萌芽があり、「実践4項目」の討議に加わって、教区全体で動く方向が見えてきてからです。共同教化と言いますか、同朋会運動が本当に力になってきたのは、「実践4項目」を立ててからです。それによって、少しずつ、私たちが持っている浄土真宗を理解しあえるようになってきたのではないかと思っています。しかし、東京別院の離脱という問題がおきて、その解決に目が向けられてしまい、教区の教化の歩みの足並みがそろわなくなってきてしまいました。お互いの浄土真宗の確認ということができにくくなり、また、個々にもどってしまった感じがします。

お互いのなかで浄土真宗を確かめられない現実のなかで、88年ぐらいに「総合調整総務会」ができて、私が幹事になって、本多和さんや藤森さんらと、改めて教区の課題を明らかにしてきたのです。そこで「浄土を明らかにする」というテーマが生まれ、歩んできました。

一人のなかに浄土真宗を閉じ込めるのではなくて、教えを聞く者同士が確かめ合いながら歩むことが何より大切なことではないでしょうか。同朋会運動は、やはり本多和さんがおっしゃるように、「縁を実らす」運動です。そのために組織がバックアップしていくしかないと思います。