東京教区東京2組
寺族学習会一泊研修
四衢亮先生の講話より

【'04年9月27日掲載】

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日時 '04年9月13日(月)
不遠寺
講師 四衢亮先生 (高山教区・不遠寺住職)
テーマ 寺檀関係が崩壊しつつある今、
寺と寺族の担うべき役割とあり方

9月13日(月)、岐阜県高山市の不遠寺において、東京2組寺族学習会一泊研修が開催され、「寺檀関係が崩壊しつつある今、寺と寺族の担うべき役割と在り方」というテーマで、不遠寺住職の四衢亮先生(46)にお話しいただきました。飛騨高山の真宗の歴史と現状を語りながら、都市・過疎地域のちがいを越えて、寺檀関係が崩壊しつつある今、寺と寺族の担うべき役割と在り方とは何であるのかについて問題提起をしていただきました。その講話のエキスの一部をご紹介いたします。

四衢亮先生の講話(ダイジェスト)

何が問題なのか?

このテーマは私が最近問題としていることでもあるのですが、答えというものがあるわけではありませんが、今年3月に東京教区同朋会議の席でも問題提起という形で基調のお話しをさせていただきましたが、それを踏まえながら、今感じていることをお話しさせていただきます。

寺檀関係の崩壊ということは、皆さんそれぞれ実感としてあると思いますが、それが一体どういうことなのかということをきちんと整理しておくことが大切だと思います。そして、寺檀関係のなかで真宗がどう培われてきたのかということを点検し、そのうえで、私たちが宗祖親鸞聖人の真宗というものをたずねながら、どういうことが見えてくるのかを考えていくことが必要だろうと思います。

そこで今日は、寺檀関係の崩壊について、その状況と、一体何が崩壊しているのか、その崩壊が私たちにとって何が問題なのかを整理してみたいということがひとつ、そして、それについて私たちはどういう方向で考えていくべきなのかを皆さんといっしょに語り合えたらと思います。

飛騨の真宗史

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まず、飛騨の真宗についてですが、飛騨は3つのルートから真宗の教えが入ってきたといわれています。そのひとつが高山別院開基と伝えられる嘉念坊善俊の流れです。嘉念坊善俊は伊豆の三島で上洛途中の親鸞聖人の門弟になったと伝えられ、後鳥羽上皇の孫とも皇子ともいわれているようです。ですからそこから郡上を通って、白川郷鳩ヶ谷に入って真宗の教えをもたらし、照蓮寺を建立したと伝えられています。

もうひとつの流れは、『執持鈔』のあとがきに記されていますが、覚如が飛騨願智坊に『執持鈔』を与えたと書かれています。願智坊は高原川流域から飛騨に、つまり北からのルートから入ってきたと伝えられています。

さらにもうひとつは長野県からのルートです。長野県に接している朝日村へ高田浄興寺の流れが入ってくるのです。善光寺を通ってアルプスを越えて入ってきたと伝えられています。

飛騨の真宗は親鸞聖人とほぼ同時期か覚如の時代までに北と東と西から入ってきたといわれていることです。

しかしながら、飛騨が真宗の本当の基盤になっていくのは蓮如上人の時代からです。室町時代になると、嘉念坊善俊(照蓮寺)が教線を張った白川に真宗門徒がさらに増えましたが、豪族の内ヶ島氏と争いが生じ、寺が破却され、住職は自害してしまいました。その遺子の明心(第10代)は蓮如上人に保護され、帰依するようになります。そして力を蓄えた明心は、再び白川の地に戻って本堂を再建し、光曜山照蓮寺と改称して、真宗を再興するのです。蓮如上人の門弟であった赤尾の道宗がいたところも白川と隣接し同じ生活形態だったのです。そのころの飛騨の蓮如上人の門弟といえば、牧ケ野の唯乗、楢谷の善宗がおり、道宗を加えた3人が蓮如上人の有力な門弟でした。

熱心に真宗の教えを聞く人が増え、本願寺が大きな勢力になっていくわけですが、何らかの問題で北ルートが閉ざされた場合でも、こうして門弟が教線を張っていたので、裏街道として、瑞泉寺、城端から赤尾、白川の照蓮寺、牧ケ野、楢谷を通って那上を抜けるルートで京都に通じ、さらにそこから越前、加賀にも連絡がとれたのです。蓮如上人の時代の教線拡大を見ることができます。

その後、戦国末期、豊臣秀吉の命を受けた金森長近が飛騨に侵攻しましたが、照蓮寺(第13代・明了)と協調路線をとって、高山の現在地に寺地を与えて、堂宇を建立したのです。ここに、白川中野にあった照蓮寺は高山へ移ったのですが、後に血筋が絶えて本願寺の別院となりました。こうして、飛騨全域が照蓮寺門下になっていくのです。

飛騨の真宗の特色
−ご回壇と御堂番−

巡回の法座のことをご回壇といいます。報恩講につぐ大切な仏事になっています。明了の時、各寺各講にご回壇が開かれ、現在でも続いています。私も一昨日に使僧として、あるお寺にご回壇に行ってまいりました。本来は輪番が回るのですが、とても回りきれませんので、輪番のかわりに使僧が派遣されるのです。7月の半ば〜9月上旬まで飛騨全域を巡回します。お寺がない地域でも講がありましたので、公民館や民家などで行われるのです。

もう一つの特色として、別院に対して、末寺寺院のご門徒が御堂の番をする御堂番があります。現在も、別院の本堂に詰める係として、各寺院から2名ずつ御堂番が出ております。昔は泊まりだったのですが、専業農家の減少などで泊まりは廃止になりました。

このような歩みのなかで、蓮如上人500回御遠忌のときに「飛騨真宗門徒の信条」が制定されたのです。しかし、真宗門徒として伝えられてきたものを、あえて「信条」を作って文章にして読んで確認しなければならないような状況になっているともいえるのです。伝えられるべきものが形だけのものになって、あいまいになっている、これが現在の飛騨の真宗事情といっていいでしょう。

共同体信仰の崩壊と僧伽

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宗務改革推進委員会の最終報告書を見てみますと、そのなかに「宗門の内外事情は一転し、過疎過密問題はもとより、さらに進行する核家族化や少子高齢化問題、そして近代合理主義に起因する世相の宗教離れなど、宗門の存在基盤をも揺るがす容易ならざる状況に至っていた」とあります。

高山の場合でいえば、まさしく過疎地域であり、関係が崩壊するというより、関係を結ぶべき人そのものが消えていくという状況がひとつあります。しかし、2100年代には現在の半分(6000万人)になるという統計がでていますので、現在の過疎地域に限らず、寺檀組織そのものを維持していくことが難しくなっているという状況面も考えなくてはならないと思います。

ただ、かつて人口が少なくても寺が維持できてきたのですから、そのことだけでは何ともいえないと思います。

ご回壇などで回っていて感じることは、飛騨は共同体信仰だということです。例えば、ひとつの在所のお寺があって、そこにいる方が皆、そのお寺のご門徒という関係です。共同体信仰のなかで、御堂番も大事にされたし、報恩講もご回壇も大切な法座でした。そのなかで、それ以上の真宗に出遇うという人たちもたくさん生まれましたが、やはり基盤は共同体信仰でした。現在の状況は、世相の宗教離れというよりも、この共同体信仰が崩壊してきているということではないかと思うのです。

高山では、葬儀はお寺で行われ、葬儀一切は葬儀社ではなく、共同体の真宗門徒が仕切っていたのですが、近年は葬儀会場が次々とつくられ、寺ではなく葬儀会場で行われるようになり、葬儀社がすべて仕切るようになりました。若い人たちのなかには、共同体信仰の意識が急速に薄れています。また、どこかに属して参加することを嫌う風潮が強まっています。以前、高山のお医者さんが、池田勇諦先生をお招きしたら、普段寺に参らないような人たちがたくさん集まったのです。お寺では絶対そんなに集まらないだろうというぐらい盛況だったのです。お寺とかに属してお話を聞くことを嫌う、つまり共同体に属して参加するということを嫌うということがでてきているのです。

東京では、それがよりはっきりしているのではないでしょうか。カルチャーセンターでの仏教講座では人がたくさん集まります。しかし、カルチャーセンターでは、聞いた教えを確かめ合い、聞いた教えをともに生きあっていくという僧伽が形成されないのです。ただ、僧伽が形成されて日本的共同体に移行してしまうと、共同体以外の人を排除するという閉鎖性や偏りが出てきます。しかし、それすらなければ教えによって破られるものがないし、自覚も生まれないのです。つまり、共同体信仰があればこそ、私たちの信仰は偏りせまいということを教えられて破られるのです。カルチャーセンターも大切ですが、問題は僧伽がどこで形成されていくかということです。

私たち宗門が、共同体信仰の復活という方向でいくのか(再組織化と活性化のてこ入れ)、それとも新しい人との出遇いを大切にしていく方向でいくのかが問われています。

それから、青少幼年センター構想に関わって感じたことですが、これからは一人ひとりの問題にどれだけ向き合えるかが教化として大切になってくると思います。しかし例えば、住職が一人ひとりに向き合うということは非常に大変なことですし、手にあまる問題も出てくると思います。そういうときにサポートするのが宗門・教区・組という教化組織ではないかと思うのです。そういうネットワークが必要です。ですから、宗門は、オールマイティに人を育てるという発想よりも、専門家を養成していくことが急務であるように感じます。

もうひとつ、親鸞仏教センターもそうですが、有識者や専門家と出会って対話・交流することはとても大事なことだと思います。有識者から刺激を受けながら、こちらもアピールしていく、こうして交流しながら新しい課題をいただき、真宗が新しい表現をもって親鸞の思想を発信していくという、新しい教学の展開をしていくことが大切です。

ただ、そういう教学の研鑽の部分と住職の現場との距離、つまり、教学と教化との距離があるのではないでしょうか。これは現場にいる者の問題なのですが、教学を研鑚する学習会が現場で生かされないのです。教化の現場では、旧態依然のことしかできていないという問題があるのではないでしょうか。ですから、教化現場で行っていることが、教学に照らして真宗といえるかどうか、真宗だとしたら、どういう問題があるのかということを指摘され聞いていくことが大切になってくると思います。

以上、最近感じていることをお話しさせていただきましたが、このような時代状況の中で、私たちが担う方向性について、皆さんといっしょに考え語り合い続けていきたいと思います。