東京教区東京2組
寺族研修24 一楽真先生の法話より

【'04年8月1日掲載】

_

7月30日(金)、源隆寺(台東区東上野)において、東京2組寺族研修(Vol.24)が開催され、「顕浄土の願い」というテーマで、大谷大学助教授の一楽真先生(46)にお話しいただきました。『教行信証』撰述の願いを通して、私たち自身が、どこで浄土の教えでなければ助からないといえるのか、大きな課題をいただきました。その講話の内容の一部をご紹介いたします。


一楽先生の法話ダイジェスト

はじめに

今回、このような機会をいただきまして、現在、自分は何を課題としているのかを改めて突きつけられたことです。そして、改めて確かめさせていただこうと思ったことは、テーマに掲げましたが「顕浄土の願い」ということです。これは、何を念頭においているかといいますと、『教行信証』が正確には『顕浄土真実教行証文類』というお名前です。宗祖・親鸞聖人は浄土真実の教行証を顕かにするという課題をもたれたわけです。これは、浄土真宗ということですが、それが見失われていくという危機感を親鸞聖人が感じられていたというふうに思います。法然上人が明らかにされた「顕浄土の願い」を改めて明らかにしていくという、その課題を親鸞聖人がになわれたということです。その親鸞聖人の願いをたずねていきたいと思います。具体的に言えば、『教行信証』撰述の願いと、なぜ、そこまでして浄土を顕[あから]かにしなければならなかったのか、ということを中心にお話させていただきたいと思います。

『教行信証』の全体を貫くもの

_

『教行信証』を著された背景ですが、親鸞聖人がどういう事情のなかでお書きになったのかついては、いわゆる後序のところにあるわけです。後序をどのように読むかということが、色々と議論になっておりますが、私は廣瀬杲先生から多くの問いをいただきました。

「竊[ひそ]かに以[おもん]みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛なり」の一句を見てください。「行証」とは「行じて悟っていく道」ということですが、これが久しく廃れている、もはや成り立たないと、親鸞聖人は押さえきっておられると思います。親鸞聖人も行じてさとることができるということで20年間比叡山で修行に励まれたわけです。それが悟りに結びつくかということが大問題だったわけです。はっきり言えば証拠がないわけです。悟りに近づいているという思い込みがあっても、悟りなのかどうかなのかすらわからない。本当に迷いを超えていく行なのかどうなのか、これが聖道の仏教が抱えている大きな問題でありました。行じているつもりということが果たして仏道といえるかどうかという問題です。それに対して、「浄土の真宗」という仏道は、「証道」、つまり「証[あか]されていく道」ということです。教えのところに自分のとらわれていたことが破られていくということを「証道」と言っているのです。ですから、結果としてどこかに到達するというのではなく、いつも歩み続けるような、そういう道を「浄土の真宗」という仏道に親鸞聖人は仰いでおられたと思います。一言でいえば、『教行信証』の全体は、今まで正統に見えた聖道の仏教が、もはや迷い苦しみを超えるという本来の課題に応えられないと言い切り、かたや、「浄土の真宗」こそが迷い苦しみを超えていく道になるとと言い切っています。ここに『教行信証』の一番言いたいことがあるのです。

『教行信証』撰述の願い

もうひとつ、廣瀬先生からいただいた課題ですが、後序の文章の並び方の問題です。書かれている順番は、

  1. 念仏の弾圧(親鸞聖人35歳)
  2. 法然上人の入滅(親鸞聖人40歳)
  3. 親鸞聖人が本願に帰したこと(親鸞聖人29歳)
  4. 『選択本願念仏集』書写と法然上人真影図画(親鸞聖人33歳)

となっています。一体どういう順番でしょうか。記録であればこういう順番にはならないでしょう。古田武彦先生の史料批判によれば、『教行信証』は、メモをもとに書かれたということです。そうだとしても、なぜこの順番なのかは考える必要があると思います。自分の記録目的ではないわけです。後序のなかに「仍[よ]って悲喜の涙を抑えて由来を縁を註[しる]す」とあります。この「由来」が何をさすかということです。それは、親鸞聖人が筆をとらざるをえないか、その由来だと思います。

なぜ書かねばならないかというと、はじめに申しましたように、生きた仏教である浄土真宗が国から弾圧を受けたということです。そして親鸞聖人は国よりも興福寺奏状を問題としてとりあげるのです。

興福寺奏状については、「承元丁の卯の歳」と書かれています。1207年ですが、実際に興福寺奏状が出されたのは1205年の秋のことです。『親鸞聖人行実』によれば、やり取りがあって、なかなか受理されなかったのです。それが受理されるのは1206年です。そして実際に処罰が行われるのが1207年2月7日のことです。親鸞聖人はそれをまとめて、正統な仏教を名のる伝統教団の興福寺が生きた仏教である浄土の教え、念仏の教えを弾圧したと見ておられるのです。仏教が人々を苦しみ悩みを超えるということであれば、伝統教団も喜べるはずなのに、それどころか弾圧にまわったということに対して、親鸞聖人は、深い悲しみと憤りをもって、受け止められたと思うのです。

しかし、これだけならば、『教行信証』は書かれなかったと思うのです。2つ目としては、浄土を顕かにしてくださった法然が入滅されてしまったということです。そこに法然の教えを聞いた者の責任という記述に展開していっているのです。そして、法然上人の入滅を受けて、「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」と続くのです。つまり、法然上人の教えを通して本願に帰した者でありますと言い切っているのです。その教えを聞いた者であるということを確かめる言葉です。加えて「選択書写」(『選択本願念仏集』書写)と「真影図画」が出てまいります。これはたくさんの門弟のなかで、親鸞聖人が特別に立派だったということを言いたいのではありません。一連の課題として見ていくとわかりますように、法然上人の入滅のあとに、本願に帰した者が後を託されたということが「選択書写」と「真影図画」ということにあるのではないでしょうか。親鸞聖人に託さざるを得ないと法然上人がお考えになっていたのでしょう。ここには、法然上人にはおよばないけれど、後の事を託されたという思いが流れているのではないでしょうか。

安田理深先生の三回忌の時だったでしょうか、中野良俊先生は「曽我量深先生や安田理深先生が生きているときは、大きなひさしがあって、陽があたらないと思っていた。しかし、お2人が亡くなられたら、陽があたるどころか雨ざらしや」とお話されました。今まで色々なものに守られていたが、今度は嵐にあわなければならないということです。40年も50年も曽我先生、安田先生のお話を聞き続けられた中野先生からそのような言葉をお聞きして、なるほどなと思いました。先生がいないから、いよいよ私だと、すぐにはそうならないということです。陽があたるのではなく、雨、風、嵐にあわなければならないということです。おそらく親鸞聖人もそうだったのではないでしょうか。ただ、法然上人亡き後、力及ばなくても託された者として筆をとらざるをえないと思われたのでしょう。「悲喜の涙を抑えて由来を縁を註す」という言葉におさまっていきますが、「悲喜」とは、まさしく法然上人が亡くなったという悲しみ、そして悲しみのなかに、確かに教えに出遇えたという喜びがあるということです。力があるから『教行信証』を書くのではないし、力がないから書かないというわけにはいかないそんな思いが親鸞聖人を突き動かしていたのではないでしょうか。

ところで、坂東本の『教行信証』は草稿本と言われていましたが、清書本という指摘がなされるようになりました。字を揃えるための罫線が書かれていたということと、良質の紙を使って袋とじになっていたからという指摘です。ただの下書きというわけにはいきません。つまり、後の世に残し伝えるための清書です。良質の紙を使い袋とじであったので800年経っても保存の状態がいいのですが、この紙は親鸞聖人一人で集めたのでなく、支援者があったということもわかってきました。書き改めの部分があるから下書きだと言われていたのですが、清書をしたあとも書き改めたのが親鸞聖人だったということが話題になっています。つまり、『教行信証』は、いのち終わるまで書き続けられた、吟味され続けた書物ということができます。『教行信証』は、ひとつには法然に出遇ったことによって書かずにおられないということ、そして、もうひとつは関東で出遇われた人々の熱意に押し出されてできあがったといえるのではないでしょうか。

なぜ国を求めるのか

親鸞聖人は「浄土の真宗」が弾圧を受けたことを、なぜ危機に感じ、悲しみをもって受け止められたのでしょうか。反対に言えば、なぜ、「浄土の真宗」でないといけないのでしょうか。後の世に残すということは、どのような願いがあったのでしょうか。「浄土の真宗」は長い歴史を通して、証され続けてきた仏教ですが、親鸞聖人においては、どこで「浄土の真宗」に出遇ったかというと、法然上人の教えにふれたというところに根っこがあるわけです。『歎異抄』第2章に「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」とありますが、これは親鸞聖人の生涯を貫く言葉であったわけです。では、「ただ念仏して」というこの言葉が、なぜ親鸞聖人は納得できたのでしょうか。納得できる背景というのがあるわけです。それは自分とはどんなものなのだろうということがあるのです。「弥陀にたすけられまいらすべし」ということは、「あなたは自分で自分のことを助けられないのですよ。あなたは阿弥陀仏に助けられないといけない人間なのです」と、こう言われているわけです。比叡山の修行を支えているのは、基本的に自分のことを助けるということだったのです。お経に書いてある通りに修行するといいますが、その修行ができていると判断しているのは誰なのでしょうか。自分なのですね。「私は悟りに近づいた」とか「まだまだだ」とか、自分で自分の救いを決定しているのです。まあ、真宗門徒のなかにもありますね。「これだけ聞法してきたから助かるはずだ」とか「何年聞いてもわからないから助からん」とか、そういう門徒さんもおりますね。しかし、救いというのは、自分が助かるとか助からないとか決めていうことができるものなのでしょうか。それについて、親鸞聖人は法然上人から阿弥陀仏に助けられないといけないと教えられたのです。念仏しているようでも、仏を念じていたのではなく、自分を念じていたということです。自分の思い描いていたことをあてにして生きてきたということなのです。仏を拝んでいる立派な自分を拝んでいるという問題です。我を念じていたにすぎないとあばかれたということです。ここに大きな転換があったのです。

そこで何が見えてきたかということですが、仏教は煩悩を痛ましいというところから出発します。仏教はけっして煩悩を肯定しません。それをどう断ち切るかという「断煩悩」というのが、出家の仏道です。親鸞聖人もその道に20年励まれたわけです。そして、修行するなかで見えてきたことは、一向に煩悩が消えていかない、離れることすらできないということです。『沙石集』のなかで、4人の禅僧の無言の行の話があります。無言の行をしている最中に灯明が消えました。すると、一番若い僧が「火が消えた」と言った。そうしたら次の若い僧が「おい、今無言の行の最中だ」と言った。そうしたら壮年の僧侶が「おまえたち、くだらないことに心を奪われてはいけない」と言った。そして、最後に老僧が「最後までしゃべらなかったのは私だけだ」と言ったのです。要するに4人ともしゃべるわけです。でもしゃべった内容を聞けば、一番若い僧が純ですね。やっかいなのは老僧ですね。とらわれを離れるということで修行していても、最後に「私」が残るのです。「私ほど修行をしたものはいない」と、勝ち負けをいうことになっていくのです。親鸞聖人は、そういう人間の煩悩の深さにぶつかったのです。つまり、自分から断ち切ることの難しさに直面した人だったのです。だからといって、煩悩を肯定したのではけっしてありません。そこに「不断煩悩」を教えられていく道があるのです。それは、煩悩中心に生きる愚かさ、痛ましさを教えられていく道です。煩悩によって傷つけあっているということを教えられながら、煩悩に埋もれてしまわず、ふりまわされずになんとか一つの道を歩んでいく生きかたです。教えられる、つまり、よびかけられるところに何とか歩んでいける道です。善導大師が言われる「二河白道」の譬喩もまさしくよびかけです。お釈迦さまに押し出され、阿弥陀さまによびかけられて、何とか一歩一歩歩んでいけるのです。この声を離れれば、私たちは自分の感情だけにもどらされてしまうのです。煩悩にふりまわされてしまうのです。私たちは煩悩から離れることもできないし、また痛むこともできません。しかし、そうやってお互いが傷つけあっている痛ましさを教えられていく道があるのです。それが阿弥陀仏に助けられないといけないということなのです。阿弥陀仏のよびかけによって歩む生き方があるのです。

そして、阿弥陀仏のよびかけの中身が浄土ということに関わってくるのです。どうも私たちは「煩悩」か「断煩悩」かで考えるのですが、どちらでもない第三の道があるということを確認しておかなければなりません。煩悩があるという事実に立ってどう生きるかという道です。そこに阿弥陀仏に導かれる生き方があると親鸞聖人はよびかけてくださっていると思うのです。

善導大師の言葉でいえば「汝、一心正念して、直ちに来たれ」ということです。これは、「わが国に生まれんと欲[おも]え」という本願のよびかけです。

安田先生は「法蔵菩薩が、なぜ「わが国に生まれんと欲え」と言うのかを考えてみなさい」と言われました。もう少し言いますと、法蔵菩薩の四十八願というのは、基本的に、こういう世界をつくりたいという国の願、世界の願です。なぜ法蔵の願は国の願なのでしょうか。安田先生は「私たちは、本当は国を求めているのではないでしょうか」とくり返しおっしゃられました。これは助かるという中身に関わる問題です。

助かるという場合、私たちは居場所や関係を求めていながら、うまくいかないと後ろ向きになって、ひとりでも生きていく、たくましい人間になっていこうという方向になってしまうのです。私を磨くいう方向です。そういう苦しみ、悩みをうんでくる国、関係全体を問うということがなくなってしまいます。私たちは、個人的に強くなることが救いになると考えがちです。問題はそうではなく、弱くても生きていけるような国が必要なのではないでしょうか。どういう国がだれもが安心できる国なのかということをかたちにあらわそうとしたのが、法蔵の本願だと思います。だから「わが国(浄土)に生まれれば、だれもが安心できるよ」と法蔵はよびかけるのです。立派になるとか、強くなるとか、そういうことを法蔵は願ってよびかけるのではありません。国の願ということは、そこから照らし返されるということがおこってきます。だれもが安心できる国を見ることによって、私たちがつくりあげている国がどれほど問題をもっているかということが問い直されるということです。浄土の教えを聞くということは、ぜんぜんちがった国をつくっている日頃の私たちの生き方が見えるということなのです。伝統的な言葉でいえば「欣浄厭穢」です。この世がいやだから、浄土を願うのではなく、浄土にふれてはじめて、この世を厭うということです。浄土にふれなければ、問題だといっても、自分がこまっているという程度のことがあるのです。こまっていることが過ぎれば忘れてしまうようなことが多いのです。問題を問題として見る眼を浄土にふれていただくのです。浄土から教えられるような、この世を見る眼です。一人ひとりが鍛えて、どんな苦しみにも負けないということも大事でしょうが、それは仮の方法にすぎません。本当はだれもが安心できる国が必要なのではないでしょうか。

親鸞聖人が着目されておりますが、『悲華経』にありますが、法蔵という方は、国王であったときに無諍王と呼ばれていました。つまり、争いなきことを願った王様ということです。国が安らかであれと願えば願うほど痛ましい戦争がおこってくる。なんと人間は愚かで痛ましいことであるかと悩んでいた王様として、親鸞聖人は『悲華経』を通して『大無量寿経』(『大経』)の法蔵菩薩をおさえられるのです。では、そうではない世界がどこにあるのかということが法蔵の願いの根本であり、私たちにとっても一番大切なこととして、私たちにも呼びかけられるのです。つまり、国ということは、関係で生きているということなのです。自分だけ平和で安らかにといっても、となりとの関係を切れないわけです。どう生きていてもまわりとつながっているのです。だから、だれもが安心できる国でなければならないと、『大経』に掲げていくわけです。

顕浄土の願い

_

浄土というのは、一言で言えば、私たちが関係を生きているという問題に根本から応えようとする、そういう教えなのです。私たちは自分でできると思っていますから、浄土でなければならないということは、そこに大きな転換がいるわけです。

浄土から照らしかえされているというところから煩悩を押さえ直したのが曇鸞大師です。これは『浄土論』の「永離身心悩 受楽常無間」[ようりしんじんのう じゅらくじょうむけん]、「永く身と心の悩みを離れて、楽を受くること常に間[ひま]なし」という言葉から押さえられたのです。身の悩みとは、飢渇[けかつ]、寒熱、殺害[せつがい]等と押さえました。つまり、身の悩みとは関係のなかでの悩みなのです。まわりとの関係を身に受けて生きているということです。心の悩みとは、是非、得失、三毒等と押さえました。いいとか悪いとかいっても、つながりの中で悩んでいるのです。ですから、全体が解決される道を見い出さなければ、場所を代えたりしても何も解決にはならないのです。ありとあらゆるものと関係しているということが、実は私たちの身の悩みであり、心の悩みなのです。こういう問題をどう超えていくかについて、「わが国に生まれんと欲え」とよびかけるのです。浄土にふれて、問題が見えてくるということが出発点です。そして見えたならば、親鸞聖人は往生浄土に加えて、「願生浄土」とおっしゃるのです。身や心の悩みがなくなるわけではありません。この世の問題を見つめ続けながら、浄土として教えられる世界が私たちの帰るべき世界であるということを確かめ続けていくような生き方がはじまるのです。親鸞聖人は往生を「願生」という言葉で確かめ直されているのです。『教行信証』証巻に「もし人ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念[こくねん]して生まれんと願ぜんものと、ま思議すべきや、と」とあります。これについて、『一念多念文意』には、

『浄土論』(論註)に曰わく、「経言『若人但聞彼国土清浄安楽 剋念願生 亦得往生 即入正定聚』此是国土名字為仏事 安可思議」とのたまえり。この文のこころは、もし、ひと、ひとえにかの国の清浄安楽なるをききて、剋念してうまれんとねがうひとと、またすでに往生をえたるひとも、すなわち正定聚にいるなり。これはこれ、かのくにの名字をきくに、さだめて仏事をなす。いずくんぞ思議すべきやと、のたまえるなり。安楽浄土の不可称・不可説・不可思議の徳を、もとめずしらざるに、信ずる人にえしむとしるべしとなり。

と述べられています。「剋念して願生すれば」と読むところを、親鸞聖人は「剋念して生まれんと願ぜんもの」と読まれるのです。そして「また往生を得るものとは」と、2種類の人を見ているといえるわけです。『一念多念文意』の解説には、すでに往生した人も、生まれようと願う人も、ともに正定聚にいるとあります。「願生」ということを、私たちの上に成り立つこととして言おうとしているわけです。ひとたび浄土にふれた者は、身や心の悩みをもちながら、浄土として教えられる世界を生きていくことがはじまるということです。ですから、いのちあるかぎり浄土に向かい続ける人生といえると思います。そういう全体を見る眼があたえられるのです。どちらを向いて生きるのかということがはっきりすることだと思います。

「浄土の真宗は証道いま盛なり」とありましたが、まず私の闇が破られるということです。まず私の上に顕かになることです。と同時にこの世の闇も破られるのです。それを毎日毎日、確かめ続ける歩みが続くのです。

親鸞聖人は、浄土を通さないと見えてこない人間の問題があることに気づかされたのです。親鸞聖人が実感なさっていたことですが、この浄土の教えは、みな凡夫であるという人間観です。だれもが乗ることのできる教えなのです。「願生浄土」の仏道を別の言葉でいえば、「誓願一仏乗」ということです。『教行信証』行巻の言葉ですね。「一乗はすなわち第一義乗なり。ただこれ、誓願一仏乗なり」と述べられています。仏教は一乗であるというのが根本精神です。それがどうやって実現するかです。比叡山も一乗といいながら、修行できるものとできないものというランク付けをするわけです。そして親鸞聖人は、その比叡山を後にしたのです。比叡山を去ったということは、一乗の課題を捨てたのではなく、いよいよ一乗を顕かにされたのです。そして、親鸞聖人は、誓願によって、誰もが同一に仏になっていく教えであるということを確かめられたのです。ということは、『教行信証』は、けっして仲間内に書かれた書物でなく、浄土の教えでないと本当に私たちが迷いを超えるということが成り立たないということをよびかけるのです。そういう使命をもった書物なのです。なぜ浄土の教えでなければならないかということを『教行信証』はよびかけているのです。

最後に『教行信証』化身土巻に「横超とは、本願を憶念して自力の心を離るる、これを『横超他力』と名づくるなり。これすなわち専の中の専、頓の中の頓、真の中の真、乗の中の一乗なり、これすなわち真宗なり」と、横超を押さえられています。横超とは、本願を憶念して自力の心を離るることだと、浄土としてよびかけている教えを思い出すといってもいいでしょう。自力の心をなくすのではなく、なくならないけど離れるということです。それが本願に導かれる道だということなのでしょう。

この本願からの、浄土からのよびかけを受けて、私たちが浄土の教えでなければ助からないといえるのかどうかは、私たち一人ひとりの課題だといえるのではないでしょうか。