東京教区東京2組
いのちのふれあいゼミナール
'04年6月26日開催(講師:近田昭夫先生)のご報告

【'04年7月2日掲載】

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日時 '04年6月26日(土)
常福寺 (足立区)
講師 近田昭夫先生 (豊島区・顕真寺住職、72)
テーマ いのちのふれあいを求めて - かろやかに、安らかに -

6月26日(土)、常福寺(足立区)において、東京2組足立・荒川・葛飾ブロック「いのちのふれあいゼミナール」が約50名の参加者をもって開催されました。講師には、豊島区顕真寺のご住職でいらっしゃる近田昭夫先生(72)をお招きし、「いのちのふれあいを求めて - かろやかに、安らかに -」というテーマでお話しいただきました。そのお話の一部をお伝えいたします。


近田先生の法話(ダイジェスト)

誰もが問われる課題
“無条件に尊いいのちを生きる”

ご紹介いただきました近田でございます。

あらためて、ご案内状を拝見しましたが、大変なことが書いてあります。「かけがえのない自分を喪失してしまった現代。そのなかで無条件に尊いいのちであり、自分であると、それがどこで言えるのでしょうか」と書かれております。どうですか? 「無条件にかけがえのない自分」と思っておられますか? そう言われればそうかなという程度の話ではないですか。非常に重たい問題です。しかし、このことがはっきりしなければ、自分がわけのわからないということになりはしないでしょうか。

これは現代だけでなく、時代を越えて、生きている人間が避けることができない問題だといっていいでしょう。誰にでも宿っている課題といえるでしょう。毎日、大切なことに追いかけ回されていますが、しかし、一体何が一番大切かということを問われるとわからないのです。自分自身でわからなくなっているのが、どうも私たちではないかということをあらためて思わされたことです。

「世尊」にこめられた大切な意味

お釈迦さま、つまり、釈迦牟尼仏世尊(釈尊)は、釈迦族の王子さまでありました。「牟尼」とは聖者という意味ですが、今申し上げたいのは「世尊」ということです。「世尊」とは“世にも尊きお方”という意味です。「無上尊」ということです。教えを聞いている弟子たちが師匠に対して「世尊」という言葉を使われていたわけです。

なぜこのことを皆さんに申し上げるかというと、3年ほど前に「世」と「尊」は次元が違うのではないかと気づいたのです。違う言葉がひとつに成り立っているのが「世尊」ということだと思ったのです。つまり、大切な問題を示唆してくださっているのです。「世」は世間ですから比較心理です。「かけがえない自分」と言っても、人と比べてということしかないのです。人とくらべてましかましでないかというコンプレックスです。劣等感と優越感の行ったりきたりです。言語的に言えば、ともにコンプレックスです。コンプレックスを根底として優越感、劣等感があるのです。

私、インドに仏跡参拝に行きましたが、お釈迦様の住まわれたところは非常に緑豊かなところでした。お釈迦様が菩提樹で説法されたのは、木陰に集まってくるからです。そして、お釈迦様も米を食べておられたことが親近感を覚えましたね。農業社会ですね。キリスト教とかイスラム教とはスタートがちがうのです。キリストは砂漠の民とか牧畜民族ですから定住しないのです。どこにいるかといえば天の星で判断するしかないのです。星占いが盛んになるし、天ですから垂直思考になっていくのです。ところが、仏教は農耕社会ですから、仏教の道筋は農耕社会を通って広がっているのです。農業社会は定住が基本ということですから、先祖代々はっきりわかっているのです。ですから、まわりを配慮しないと生きていけないということです。いい意味に作用すると、まわりに対する気遣いということになりますが、マイナスに作用すると、やたらとまわりを気にして、人からどう思われているかというが最大の関心事になってしまうのです。

「世」はまわりのことがいつも気になると言うことです。比較心理なのです。本当は自分に自信がもてないのです。世間にいれば、人にどう見られ、どう考えられているかということを気にせずにはおられません。そうすると世間に埋没して、自分を見失っていくことが避けられないということなのです。

それに対して、「尊」は「たっとい」とか「とうとい」と読みます。「とうとい」という言葉、二昔前はよく使われましたが、今使われていますか? 使われませんね。ということは、「とうとい」「たっとい」ということが何を意味しているのかがわからないのが現代なのです。なぜかというと世間というところでしかものを考えることができないようになっている私たちだからです。「とうとい」「たっとい」ということが感覚的にわからなくなっているのです。

辞書を引くと「尊」(「とうとい」「たっとい」)とは「立っている者がすっくと、しかも静かにおちついているさま」と書かれています。堂々とした生き方です。漢字は表意文字ですから、形が意味を表すのです。「尊」ばかりでなく「貴」もありますが、これは「群れのなかからとび抜けている」という意味ですから、意味合いがぜんぜんちがうのです。

釈尊が「世尊」と呼ばれたということは、はじめて「世尊」という生き方をした方だといっていいのだと思います。がんじがらめになった世間において、自分におちつけるというということが成り立つということです。「世」にあって、「尊」という生き方がどこで成り立つのか。そういうことを課題にしたときに、釈尊は自ら「世尊」として、そのご生涯を生き抜かれました。

釈尊の教えとは何かといったら、我と等しく、すべての人が「世尊」という生き方をしてほしいということです。それは誰にも宿っているところにちがいないと、これが仏教の基本的な問題であり、「世尊」がそれをえぐりだしている言葉ではないかと思うのです。

かろやかに、安らかに

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さて、サブタイトルですが、「かろやかに、安らかに」としましたが、これも仏教から出た言葉です。「かろやかに、安らかに」とは「軽安」[きょうあん]ということです。身かろやかに、心やすらかなことです。なかなかそうはなれません。実際は「〓沈」[こんじん]です。心が重く、暗く、滅入るということです。現実の私たちは「〓沈」しかないのではないでしょうか。「〓」(「りっしんべん」に「昏」)は「心にほの暗い」と書きます。うっすら暗いということは、身構えるということです。真の闇とちがって、まるっきりわからないわけではないけれど、今自分に直面していることがねいつも不安の材料でしかない、そういう意味での孤独感とか閉塞感を表わしているのが「〓」ということなのです。

私のいるところというと、現住所を言えば、手紙の届くところでしょうが、今は常福寺[会場]にいるのです。でもここにずーといるわけではないのです。何を言いたいかというと、あなたが本当に立っている現住所はどこでしょうか、という問題なのです。

仏教は、個人のことを考えるのですが、個人的な出来事として考えるのではありません。だれでもある問題を私個人に問われているということなのです。これが仏法ということなのです。仏法は特別なものではなくて、日常茶飯事の出来事が自分の眼でしか見えないものを、ちがった切り口で考えていくということであり、そうすると問題が見えてくることがあるのです。現実問題をどういう角度で見ていくかが仏法なのです。人間のだれにもある問題を私の上に考えていくのです。

三界というあり方

人間関係のなかで、肩身のせまい思いがすることがありますが、逆は鼻が高かったということもあります。つまり、人間の現住所とは、肩身のせまい思いと鼻の高い思いの行ったり来たりのなかにあるのではないでしょうか。自分の思いのなかで生きているのです。これを仏教では「三界」というのです。「三界」とは私たちの生活世界、生活現場をいっているのです。

「三界」とは「欲界(食欲・性欲・睡眠欲)、色界、無色界」です。現住所とは手紙の届く場所でしかないのです。本当はどこで生きているのかというと、自分の思いのなかでしか生きていない、それを「三界」というのです。一人ひとりが思い描いた世界のなかに自分がおさまっているという、仏さまによって見出された私たちの有り様を「三界」というのです。

私は以前、私の家は1つの世界に7人が生活していると思っていました。しかし、世界が7つあるということにふと気がついたのです。これはどの家族ということではなく、どこ家族でもです。水入らずの夫婦でも世界は2つなのです。

私の弟はお寺の住職であり、保育教育に携わっていますが、毎年新任の若い保母さんに「たまには、屈めて子どもの視線になってください」ということだけ言うそうです。保母さんは朝から夕方まで、子どものいい面と悪い面がしっかり見えていますね。だからわかっている。しかし、これが知っているつもりということなのです。「つもり」というのは一番危ないですね。つまり、すべて大人から見た子どもなのです。子どもそのものは実はわからないのです。

私の家内が入院したときのことですが、病室に行くと、看護婦さんが椅子を出してくれるのですが、座らないことがあったのです。そうしたら看護婦さんが「椅子には必ず腰掛けてください。上から見下ろさないでください」と言われたのです。一発でノックアウトでした。丈夫な人間が上から見下ろしているということですね。せめて視線を等しくすることが大切だということを看護婦さんから言われて、やっぱり夫婦といっても、私は私、妻は妻だったということに気づかされました。いいとか悪いとかそういうことではないのです。自分の意識とか思いで描かきだされた世界が本当の世界だと思っているのです。しかし、そうではないのです。これを第一ボタンのかけちがいというのです。第一ボタンからかけちがえたら、一度皆はずしてみて、第一ボタンからはめ直すという作業をしなければなりません。そういうことが聞法ということなのです。自分の身のうえいただいていくということなのです。

仏教では、欲界の3つ(食欲・性欲・睡眠欲)を同じレベルで問題としていますが、なぜだと思いますか? 人間のやることなすこと保身ということで成り立っているからです。保身をまぬがれないのです。要は快か不快かです。快楽原則で構築されている世界が欲界なのです。

阿弥陀とは
薬となって現れたはたらき

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『華厳経』には「三界はただ心が生み出したもの」と書かれています。皆、心が描きだした世界であり、心の影だと言っているのです。

練馬の真宗会館に「我以外皆我師(我以外は皆我の師)」[吉川英治]という言葉がかかっていました。その言葉をもとに、私は「つらくても後から見てよかったと言えれば、出来事も師と言えるのではないでしょうか」とある人に話したのです。その後、帰路につくため、ハンドルをにぎっていて信号待ちしているとき、ふとこの言葉が思い出されたのです。私自身のあり方は、「我以外皆利用価値(私以外は皆利用価値)」だと気づかされました。意識していなくとも、考える発想の原点はこれしかなかったのです。私にとって役に立つ方かどうかということではないでしょうか。反省ぐらいではすみません。「我以外皆我師(我以外は皆我の師)」という言葉に出遇ってみると、私自身は「我以外皆利用価値(私以外は皆利用価値)」ということしかないということを教えられたのです。そのことを知らしていただいたことが「我以外皆我師(我以外は皆我の師)」ということだったのです。

「三毒」とは貪欲・瞋恚・愚痴との3つをいうのです。「煩は身を煩わす、悩は心を悩ます」のです。八万四千の煩悩ということは、ありとあらゆるものが煩悩ということなのです。そう考えたことがありますかというメッセージなのです。自分に疑いを感じたことがない私に“?”[クエスチョン・マーク]をつけるメッセージなのです。「正信偈」に「遊煩悩林現神通 入生死園示応化」とあります。この世は煩悩林(林は沢山あるということ)であり、生死の園なのです。

皆一人ひとり、自己流のものさしを使っているのですから、2人以上いれば、ふれあわないのです。いのちのふれあいといいますが、ぜんぜんふれあわないのです。煩悩の林、生死の園、つまり園林とはもとの意味は「人のいないところ」という意味です。そこに相通じるということがあるわけないのです。これが仏さまの御眼によって見出された私たちの生活世界なのです。だから仏様がじっとしていられないということなのです。真宗の本尊は立像です。それは、仏さまが「はたらき」だからです。座っていられず立ち上がっているのです。そして、直立不動ではなく、前のめりになっています。それは、他ともふれあったことがない、自分自身のいのちともふれあったことがない、孤独と閉塞のなかでしか生きる道を知らない私にだまってられなくなってよびかけるのです。だからこそ、煩悩林や生死園に仏は現れるのです。

「三毒」のうち、欲や怒りは枝葉であって、愚痴が根本煩悩です。愚痴といったら、人知です。自分からでしか考えられず、それがすべてだと思っているのです。その人知が病んでいるから「やまいだれ」がついているのです。自他ともにわずらい悩むということは、自分の考え方に“?”をつけたことがないからです。誰にも通用するかのように考えてしまうのです。ですから、時代を越えた人類の共通の迷信は、自分の考えに“?”をつけたことがないということです。

『唯信鈔文意』に「よろずの煩悩にしばられたるわれら」「いし・かわら・つぶてのごとくなるわれら」とあります。親鸞聖人は、ただ人を批判しているのではなく、ご自身をふくめて、悲しみをもって「われら」と言われているのです。いし・かわら・つぶては、ふれあってしみこまない存在の象徴です。そういう悲しき「われら」なのです。

私たちは仏さまから悲しまれているのです。そこに仏さまが私たちのところに姿を現しているというので、「如来」(如より来生)というのです。ダイナミックな“はたらき”を表しているのです。

親鸞聖人は「本願醍醐の妙薬を執持すべきなり」とおっしゃっています。南無阿弥陀仏は薬です。阿弥陀仏は自ら薬となって、私の病を完治しようさせようと現れてくださった“はたらき”なのです。その薬を飲んでほしいという願いがこの言葉です。だから「三毒をも少しずつ好まずして、阿弥陀の薬をつねに好みしめす身となりて」とおっしゃられるのです。蓮如上人は「無始よりこのかたの無明業障の恐ろしき病」とおっしゃっていますが、みんな気がつかない大きな問題だから「恐ろしき」なのです。本当に薬を飲まねばならない身であるが、その自覚症状のないあなたのために阿弥陀仏が薬になってくださるということを説いて聞かせてくださるということが、真宗の聞法の一番大切なところではないでしょうか。

聞法とは「聞治」ということです。仏法を聞かせていただくということは、私の病が聞治するということです。阿弥陀仏が薬となって私の前に現れたはたらきであるということを肝に銘じていきたいと思います。