東京教区東京2組
育成員研修会
二階堂行壽先生の講話より

【'04年5月19日掲載】

日時 '04年4月13日(火)
源隆寺 (台東区東上野)
講師 二階堂行壽先生 (新宿区・専福寺住職、45)
テーマ 「同朋会運動の願いと課題」
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4月13日(火)、源隆寺(台東区東上野)において、東京2組育成員研修会が開催され、「同朋会運動の願いと課題」というテーマのもと、東京4組専福寺のご住職であり、東京教区教化委員会総合調整総務会幹事の二階堂行壽先生(45)をお招きいたしました。

2011年の宗祖・親鸞聖人750回御遠忌に向けて、同朋会運動の歩みを振り返りつつ、これからの我々一人ひとりの歩みと真宗寺院のあり方について、二階堂先生からお話しいただきました。その講話のダイジェストを掲載いたします。


二階堂先生の講話(ダイジェスト)

浄土真宗になりつつある寺院

同朋会運動がはじまって40年が過ぎました。今では推進員養成講座ですが、以前は特別伝道(特伝)という名称で、推進員(門徒)の方を生み出していこうと願われていました。この40年の歩みを通して門徒さんから一貫して言われていることは、育成員(僧侶)の勉強不足ということです。勉強不足という形でしか表現されなかったわけですが、要するに知識的なことを言っているのではないのです。つまり、課題を明らかにする歩みが欠如しているということです。

浄土真宗と浄土真宗の寺はイコールではないという認識にたつべきではないかと思っています。組織的にはイコールでしょうが、親鸞聖人から言えば、浄土真宗という宗派をつくったのではなくて、どこまでも法然上人の教えを聞き続ける、明らかにするという意味で、浄土真宗という言葉をお使いになられたのです。実際、浄土真宗のお寺だから浄土真宗が明らかになっているかというと、けっしてそうではないと思います。教区のある先輩が「浄土真宗になりつつある寺院、門徒」と言われましたが、なるほどと思いました。どこまでも浄土真宗を指向しているかどうか、求めているかどうか、というところに浄土真宗があるのであって、そういうこと全体を同朋会運動という言葉で表現してきたのではないかと思います。大乗菩薩道でいえば、求道者、求め続ける人を示すわけで、成仏ということも仏になる歩みをしていこうということではないかと思います。我々の側に浄土真宗があるのではなくて、「なりつつある」という形で我々はうながされているのではないでしょうか。

僧侶同士の不信感の問題

同朋会運動がはじまったときには「家の宗教から個の自覚の宗教へ」とスローガンが掲げられ、「門徒一人もなし」との自覚に立って、どういうことを契機に現状のお寺を打破し、越えていこうかという模索が続けられました。本多弘之先生は「現在は同朋会運動がはじまる以前にもどってしまっているのではないか」と言われましたが、それは講師依存主義ということです。今の時代のさまざまな課題について、真宗用語を使わないで、その本質をやさしく話すことを講師に要求します。それが全て悪いということではないのですが、そういうことだけになるならば、寺という場の意味、同朋の会という場の意味が不問になっているのではないかということです。よぶ側の僧侶が学び、門徒さんと語り合うということがなくなってしまうのです。これは完全な講師依存であり、同朋会運動以前の状態と同じではないかと。門徒さんが言われる僧侶の勉強不足ということは、そういう問題について僧侶同士で話し合っているのかどうかということが根っこにあるのです。つまり僧侶同士の不信感の問題を門徒さんが感じているということなのです。それを不信感とは言えないので勉強不足と表現されてきたのでしょう。不信感というのは、ただ信用していないということではなくて、問題を抱えていても本当に話し合っていけるのか、なされているのかということが問われているということだと思うのです。

仏教はどこからはじまるのか?

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最近、気になって門徒さんに話していることは、仏法(仏教)はどこからはじまったのかということです。例えば、学校などでは、お釈迦さまからはじまったと教えます。曽我量深先生は「釈尊以前の仏法」と言われます。縁起の法(道理)はあったけれども、それに目覚めたのがお釈迦さまであるということです。仏法僧の三宝でいえば、法に目覚めた存在を仏といいますが、それだけでは仏教にはなりません。そこには僧(僧伽・サンガ)があるわけです。僧伽がどこで成立し、仏教がはじまったのかというと、お釈迦さまが5人の比丘に法を伝え、比丘たちがうなずいたところに僧伽(教団)ができてからだということです。そして「お釈迦さまが亡くなった以降」という言い方もできるかもしれません。お釈迦さまが生きているときは、お釈迦さまに聞くことができますが、亡くなった後は聞く事ができなくなります。その時に初めて、その問いに自ら向かい合うことにおかれたとも言えます。

つまり、「如是我聞」といわれるように、聞いたところ、問うたところから仏教がはじまるわけで、一人ひとりの問題です。そういう意味では、一人ひとりのなかから出てきた問いであるとか、疑問、不安が手がかりにならないかぎり、仏教になっていかないのではないかと思うのです。

ですから、こちら側に浄土真宗があるということではなくて、「なりつつある」ということ、まだ浄土真宗が明らかになっていないというところに立てるかどうかという大きな課題を投げかけられているのです。同朋会運動はそこからはじまったのです。

これからのお寺のあり方

最近のことですが、岐阜県高山で、お寺と一般の家と、両者が同じご講師の先生をおよびしたとき、一般の家のほうが沢山の人が集まったという話を聞きました。宗教的関心はあるのですが、お寺に人が集まりにくくなっている問題があります。首都圏教化推進本部で行なわれている講座は、寺にたよらず、電車のつり革などにポスターをはったりしてよびかけ、一般の会館を使われています。定員より数倍の人が集まる講座もあるそうです。やはり宗教的関心は高い時代なのですが、逆に言えば、寺に対する不信感が非常に強いのです。寺にくれば勧誘されるのではないかとか、何かついてくるものがあるのではないかという不信感があるようです。また、物理的には、とりわけ都心部のお寺の周りは過疎化が進み、地域にご門徒がいない状態になってきました。そのなかで、寺をどうしていくのかを指向していくところに大切な意味があると思います。

門徒さんとのお付き合いは大切ですが、大半はせいぜい人情的なところに留まっているのではないでしょうか。「感じのよい坊さんだ」とか「親切な坊さんだ」とか、そういうところに留まって、仏法でつながっているということがどのぐらいあるでしょうか。門徒さんとのつきあいで大きなウェートを占めるのは、やはり葬儀です。葬儀をどうしていくのか、いつも何かを感じている僧侶でありたいと思います。