東京教区東京2組
正副組長連絡会研修会
菅原伸郎氏の講話より

【'04年4月23日掲載】

日時 '04年4月5日(月)
浅草ビューホテル
講師 菅原伸郎氏 (元・朝日新聞学芸部長)
テーマ 「仏教寺院への期待──ジャーナリストの立場から」
_

去る4月5日(月)、浅草ビューホテルにおいて、東京正副組長連絡会の研修会が行われました。正副組長連絡会は、東京の1組〜8組の組長・副組長が毎月集まって、宗門の動きを掌握しながら、各組の教化事業の状況や問題点についての意見交換や交流を行なうことを目的としています。そのなかで、来る2011年の宗祖・親鸞聖人750回御遠忌法要に向けて、親鸞聖人の教えをどう聞き開いていくかというテーマで研修会を行なう運びとなりました。今回は、親鸞聖人の教えに精通している有識者から問題提起をいただきたいとの願いから、元朝日新聞学芸部長で、現在、複数の大学で宗教教育の模索を続けられている菅原伸郎氏をお招きして開催いたしました。菅原氏は「仏教寺院への期待―ジャーナリストの立場から」というテーマでお話しくださり、私たちに多くの課題をくださいました。その一部をご紹介いたします。

菅原氏の講話(一部掲載)

真宗大谷派の葬儀に参列して

実は先日、茨城県のひたちなか市で、私に非常に近い親戚の葬儀がありました。その親戚は核家族であり、この地域のお寺とは何の関係もなかったのです。ただ、夫のほうの家が先祖代々大谷派であるということだったので、私は「葬儀屋さんが入る前にお寺を決めた方がいいのでは」と話し、東京の知り合いの大谷派の住職に電話して、聴法寺(菊巒氏)というお寺さんを紹介していただきました。

聴法寺の副住職の真隆さんがすぐに来てくださり、枕勤めをいたしましたが、3時間近くも一緒に居てくれまして色々アドバイスしてくださいました。私はご遺族から、無駄なことをしなくてよかったとほめられました。世間では、まず葬儀屋さんに先に電話をかけて、それからお寺に連絡がいったり、お寺が決まるというケースが多いようですけれども、そうではなくて本当によかったと思いました。

副住職さんは、素朴な茨城弁で話す素晴らしい方でした。お通夜では読経後に、10分くらい法話をされたのですけれども、とても良かったのは、「真宗の葬儀というものは、悲しみをきれいさっぱり忘れるためのものではなく、悲しみを抱えながら生きていくという事を確認すると考えてもらってはどうでしょうか」ということをお話されたのですね。そして、小さな手帳にはさんであった新聞の切り抜きを出してきて、詩を読んだのです。あとで「これは茨城新聞という投書欄に載っていた詩です」と見せてくださいましたが、こんな詩でした。

私の体の中を川が流れている 川は何かを伝えたいと願っている 川のほとりは ゆるやかな起伏であったり つめたい荒野であったり 人がいたりいなかったり 耳を澄ますと いつもさらさらと音がする 笑っているときも泣いているときも 感情というものに左右されないで さらさらと 川は始まりを知らない体の奥のほうから 終わりも知らない川下へと ゆっくり流れている 何かを伝えたいと願いながら だから私の人生のすべての瞬間が そのための手段であると思っている そう思うと涙が出る」

これは中学生の詩なのですが、お通夜の席でとても評判が良かったのです。親戚一同、「これが本当の通夜・葬儀というものなのでしょう」と非常に感動しておりましたが、私自身が特に感動したのは、この小さい新聞の切り抜きをですね、くしゃくしゃの切り抜きを手帳の中に挟んで出している、その光景がとてもよかったのです。

葬儀ではご住職の一哉さんが来られました。やはり、小林一茶や榎本栄一さんの詩を読まれながら、法話をされておられました。聴法寺のご住職・副住職さんに感心しましたのは、偉い人の話もいいのですが、日頃からそういう目で新聞なりをかなり見てるから、このようなことが出来るのだという気がしまして、非常にうれしく思いました。

聴法寺のお二人のご僧侶のお話を聞いて、「仏教というのは意外におもしろいものだ」と思った人はかなりいると思うのです。悲しみを忘れるのではなく、悲しみを抱えながら生きていくという事を確認するのが葬儀であるという話を聞いて、「ああ、なるほど」と思った人も多いと思うのです。これは、すごいことだと思うのです。そして、そこからもうちょっと発展させるためにはどうしたらいいかということですね。まさに悲しみの深き縁として仏教を勉強したいという気持ちがある人は結構いるのではないかと思ったのです。

仏法が深まる3つのキーワード

プロテスタントの牧師さんの集まりで、「仏教のお寺に何を学ぶべきか」というテーマで講演したことがあります。私は、千葉県の市川市にある本願寺派で中原寺いうお寺を例に挙げて「大切なキーワードが3つある」と話させていただきました。

まず、中原寺は『お父さん』を大事にしていると言ったのです。中原寺の場合、壮年会というのがありまして、これが上手く活動しているという気がするのです。キリスト教でもお寺でも婦人会の活動というのはどこも盛んなのですが、男に活動の場がないのですね。ところが、このお寺の月々にある聞法会は、5時か5時半くらいからビールを飲むことになっていて、そこが男の人たちの語り合いの場になっているのです。結構酔ってくると話が面白いのです。最初に私が行った時のことですが、「ところで朝日の記者さん、あなた、お浄土というのは本当にあると思うかね」ということを聞くのです。そういうことを言えるというお寺の雰囲気というのはなかなかいいというです。私はキリスト教の集まりに行くこともありますが、教会では「天国があるか」という質問は出てできせん。自明の理になっていて、そういう質問をする人はいないのです。けれども、中原寺では、「浄土があるかないか」ということを聞くのですよ、浄土真宗のお寺で。そういうことは知識欲かもしれないですけれども、教義について勉強したいという気を持っている人が結構いるということなのです。これは、浄土真宗の素晴らしい伝統なのではないかと思うのです。仏教だって、浄土宗でも禅宗でもいいのですが、そこにご住職がおられながら、ご住職が言っていることに対して本当かと聞き直していく雰囲気ということはなかなかないのではないかと思います。

2つめとして、中原寺では、もちろん浄土があるかないかの話だけではなくて、お父さん同士が、例えば会社の中の悩みとかですね、あるいは子供の教育の悩みとか、そういうことを飲みながら結構話し合っているのです。そのような中年男性の悩みをお寺で『双方向』の形で話し合えるという雰囲気があるかどうかです。真宗はその点非常にいいと思うのです。

第3のキーワードは、『お酒』ということでありまして、今までの話は、まあすべてではないですけれど、「お酒」という潤滑油もあって話しも進んでいたようなのです。少なくともキリスト教の教会にはお酒はないのです。ミサの時、葡萄酒はありますけれども。私がお招きを受ける真宗の集まりというのは、だいたい午後3時過ぎでありまして、それで丁度終わると「お酒」という事になっているのです(笑)。これは非常にいいのではないかと思うのです。要するに、中原寺がやっていることは、別に真宗では珍しいことではなくて、要するに蓮如さん以来の布教方法なのではないかと思うのです。ご住職の方を囲んで、まあご住職のほうから見れば、門徒の力を借りてですね、その中で仏教を語っていくということですね。

葬儀をより充実したものにするために

_

今回のように、聴法寺のお二人はとても素晴らしい葬儀をしてくださって、皆とても感動いたしましたが、横で見ていて気がついたのですけれども、例えば枕経やお通夜で三帰依文が読まれるわけです。あえて欲を言えば、そうした時に「これは三帰依文です」と紹介してくださったらもっと良かったと思います。葬式の時でも「これから読むのは正信偈です」というようなことを、それだけでも説明してくだされば、もっとよかったのではないかと思ったのです。それから、葬儀が終わって、遺族が私などに皆が聞いてくることは、要するにお墓はどうしたらいいかとか、仏壇はどうやって買ったらいいかとか、あるいはお線香はどうやってあげるのか、とかいったことです。何も知らない遺族は結局、まず仕来りみたいな事を知りたがるのです。東京4組の教化委員会が作った「真宗門徒の葬儀」とか、札幌別院の「通夜勤行集」を持っておりますので、今度四十九日法要の時に届けようと思っています。このような本を葬儀の時にお寺から遺族にさしあげてはどうかなという気がしたのです。とはいってもこのように作られているものにしても、例えば、親鸞聖人がいつ頃の人かといったことは何も書いていないのですね。何かもうちょっと解説みたいなのがあってもいいのではないかという気がしたのです。何も知らない日本人の家庭が増えているのですから、いわば外国人に布教するような気持ちで対応した方がいいのではないかなという気がしたのです。

ちょっとだけキリスト教のことをほめておきますと、キリスト教のプロテスタントの場合、どこの葬儀でもA5版のプログラムを配るのです。そこに何が書いてあるかというと、時間と場所と故人の経歴、それから牧師さんが説教するときに登場させる聖書の中の一節、そして賛美歌です。葬送の讃美歌や、故人の愛唱していた讃美歌が、楽譜と共に印刷されているわけです。ですから、牧師さんは、プログラムのなかの聖書の言葉を引用しながら説教をし、弔辞を読んでもらうわけです。そういうことが仏教葬儀ではなぜできないのかなとよく思うのです。

それから、讃美歌を一緒に歌ってみると、非常にドキッとするような内容があるのです。例えば讃美歌第312番という大変有名な歌ですね。その3番の歌詞は、

いつくしみ深き 友なるイエスは
変わらぬ愛もて 導きたもう

世の友われらを 棄て去るときも
祈りにこたえて 労りたまわん

です。この中で「世の友われらを 棄て去るときも」というのを葬儀で歌わせるのです。私もクリスチャンの友人が亡くなったとき歌ったのですが、キリスト教とはなかなかすごいなと思いました。いかなる親友、同級生であろうとも、友達を裏切るのだという前提で成り立っているのですね。確かに感じたことは、若いときは仲良くやっていたのだけれども、最近はあいつに冷たかったなというようなことを思うときがありますよね。そういうときにこういう歌なんかを聴かされると、キリスト教というのはなかなかすごいなと思うのです。でもこれは考えてみると、『歎異抄』で言えば、「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」とか、「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうわらず」のようなニュアンスでいうと、相通じるようなものがあるわけです。でも、こういう歌詞を葬儀で披露するというのも一つの布教の手段と言いますか、関心を持っていただく第一歩にはなりえるのではないかと思うのです。

先日の坂東性純さんの葬儀では、故人の経歴の載ったプログラムをいただきましたが、このような方だけではなくて、一般の人の場合でも作ってさしあげたらと思うのです。自分の家族のことが活字になるなんてことはあまり一般の人にはありえないはずですから、家族にとって良い思い出になるんじゃないかなと考えたりしました。

念仏とは何か

私はそのように幾つかの葬儀に立て続けに出ることになりまして、色々と感じたのですけれども、やっぱり一番同じ歳くらいの人に聞いてみて、戸惑うことがまず「念仏」なのです。全く真宗に縁のなかった人たちからみると、念仏とは何だろうという思いがするらしいのです。ひとつの呪文なのだろうなと思っている人が多いわけです。

ある時、坂東性純さんとお茶を飲んでいて、その席で念仏についてのお話をしました。坂東さんは家永三郎さんの「信の一念で救われるとしながら口称念仏を不可欠としたことは矛盾であり、偉大な思想を社会的実践に活かすための致命的欠陥となった‥‥念仏は親鸞にとって『躓きの石』であった」という有名な論文「親鸞の念仏」のことを口に出されたのです。そうではないと坂東さんはおっしゃりたかったのだと思います。私はといえば、なかなか未だに念仏がすっと出てこないのですね。例えば「弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜんひとはみな ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなうべし」ですね、なんとなくまだぴったりと来ないのです。そこで、坂東さんに「今度、報恩寺のお勤めの時間にお邪魔しますから」とお約束したのですが、果たせないまま亡くなられまして‥‥。

それで、坂東さんにとって念仏とは何だったのかと思っていたのですが、親鸞仏教センターの機関誌『アンジャリ』に、坂東さんが亡くなる直前に書かれた「現代人と親鸞思想―称名念仏の非行性について―」のなかで、「昔、そろばんを手にとって計算を行うとき、すべての桁から残っている数値を残らず消去する操作―ご破算―から始めるのがつねでした。称名念仏はこのご破算を、雑念の渦巻く私の心に対して行うことに相当するようです」と書かれてあり、私はなるほどと腑に落ちました。つまり、空なら空に、そういう世界に一回自分を戻すというようなはたらきを「念仏」とおっしゃっているような感じを受けました。念仏とは何かということを、現代の人たちに通じる言葉でお話しされる大切さを感じました。

浄土とはどういう世界か―方便の大切さ―

次に「浄土」ということについてですが、先日の葬式の後でも、ご年配の親戚の皆様に「浄土っていうのは何ですかね」という事をやっぱり聞かれたのです。先ほどの中原寺でも、「本当に浄土というのはあるのかね」というふうに、いい大人が聞いてくるわけです。それに対してどう答えるのかというのはすごく大事なことではないかと思うのです。

実は「浄土」というのをどう考えるかは、宗教を担当していた記者の私にとって、ここ10年くらいの大きなテーマだったのです。ある時、築地本願寺で、龍谷大学の学長だった信楽峻麿さんの講演をたまたま聴いているときに、世間でよく言われている「浄土」とは違うのではないかとふと思ったのです。それでその後、たまたま信楽さんとお酒を飲む機会があって、思い切って「先生のおっしゃっている浄土という意味は、死んでから行く世界ではないですよね」と尋ねたら、信楽さんは「あんた、そこなんだよ」とおっしゃってくださいました。そういう中で、例えば石田瑞麿さんや玉城康四郎さんなど、色々な大先生が励ましてくださいまして、「それでいいんだよ」とおっしゃってくれましたので、だんだん自信が持てるようになったのです。そして、こういうおつきあいする中で出会ったのが坂東性純さんでした。朝日新聞「こころ」面での八木誠一さんとの対談「浄土と神の国」のなかで、坂東さんは「“阿弥陀さまのお慈悲は、この私まで及んでいる”と感じることがある。この体験や感動が大事ですね。それをどう表すか。浄土思想は、阿弥陀とか無量寿とか、つまり、限りなきものと仮に名前をつけたが、ほかの名前でも構わない。だから体験が先で、名前が後。逆ではない。浄土も感動や宗教体験が先にある」とおっしゃられていたのが特に印象的でした。

キリスト教との一番の違いは、仏教には「方便」という言葉があるということですね。仏教では、例えば阿弥陀様のことを説明するときに「これは一つの方便の化身なんだ」ということができるわけですね。こういう説明をすると、中年のお父さんたちも「そういうことなら分かる」と納得します。ところがキリスト教の「神」の場合は、やっぱり「神は方便だ」とは言えないわけです。あくまでも実体としての神にこだわるから、多くの現代人は「神はいる、いない」にこだわってしまう。つまり、仏教は本来、大人の宗教だ、ということが言えるのではありませんか。

ですから、私は「浄土」についても、実は唯物論の人にも納得できる教えではないかという気がするのです。例えば、河上肇はマルクス主義の経済学者ですけれども、この人は本当に真宗の立場に立って、宗教的地位と科学的真理というものがあると言われたのです。マルクス主義の科学的真理を唱えていましたけれども、宗教的真理というのも別にあるのだということを説いていたわけです。ですから、たとえば、宗教教育を公立学校で教えるという場合でも、河上肇のような意味での宗教観なら、たとえ唯物論の教師だって納得してくれるのではないか、という気がするのです。唯物論の立場とそう矛盾もしていないように思うからです。

罪業の自覚

_

従来、人間は死が恐くて、死んだ後の「浄土」で、つまり「あの世」で生きられるからということで、浄土教が広まったというふうに言われている節があります。死への恐怖から浄土教というものが広まったんだと、そう思いますね。ところが今、幸か不幸か死への恐怖というのは、現代人はあまり感じていないような気がするのです。80ぐらいになって感じるかもしれないが、しかし、真宗には、仏教には、もっと若いうちから関心を持ってくれなければ困ると思うのです。私もさっきご紹介いただきましたように、大学で「宗教と人生」とかいうような授業をやっているのですけれども、20歳前後の学生に浄土や念仏、あるいは「罪の自覚」という事を話すことは難しいのですね。もちろん死後の世界のことなんて話しても全く関心を持ってくれません。

では、どういうふうにお寺で話せるか、葬儀で話せるかですね。もちろん「故人は罪を犯した人でした」などとはなかなか言えません。参列した人に向かって「あなたがたも罪を犯しているでしょう」と言いたいところですけれども、これは葬儀とあまり関係なくなってしまいます。浄土や念仏を教えることは実に難しいところだと思うのです。家永三郎さんは「日本仏教の今後の生命」という論文のなかで、

「阿弥陀仏信仰、特に日本のそれの内にある不朽の生命ある一の重大な思想が含まれていることを指摘したい。それは人間の罪業の自覚である。ことに親鸞の悪人正因説に含まれる人間の本質観と、その克服の道とである。 [中略] 神の存在を信じることはできなくても、罪業の自覚は何人にも可能であろう。神を信じ仏を念じることはむつしいかもしれぬが、自己の罪業を直視することは容易である。

と、こういうことを言っております。これは仏教だけではなく、宗教の存在価値というものを「罪の自覚」ということにおいて論じておられるのです。私も、これが現代人の心にもっとも訴えられる要素ではないかと思います。

ただ、これをどういう場面で、現代人にどういう風に思い起こさせていくか。たしかに大変に難しいことです。しかし、そもそも浄土真宗というのは「罪業の自覚」という事を最も大切にしてきた宗教ではないでしょうか。今後の大きな課題でありますが、そこを何とかみなさんで智恵を出していただきたい、と思っている次第です。