東京教区東京2組
門徒会主催「聞法の集い」2004
近田聖二先生の法話より

【'04年3月24日掲載】

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3月6日(土)、長泉寺(台東区東上野)において、門徒会主催「聞法の集い」が開催されました。

門徒会では“仏事を通して真宗の教えに出遇う”を基本テーマとして、毎回、各講師の先生に法話をいただいています。昨年は平松正信先生(東京4組・専行寺住職)に「彼岸と真宗の教え」をテーマとして法話をいただき、一昨年は私こと本多雅人(東京2組・蓮光寺住職)が「お盆と真宗の教え」をテーマとして法話をさせていただきました。

基本テーマが掲げられて3回目となる今回は、近田聖二先生(東京7組・顕真寺副住職、40歳)をお招きし、「修正会と真宗の教え」をテーマに法話をいただきました。その法話のダイジェスト版を掲載いたします。


はじめに

私のお寺では、26年ほど前に修正会を勤めはじめました。住職にそのころの話を聞いてみますと、聞法をしていても、正月になると、神社にお参りに行ってしまうという問題もあり、ぜひお寺で何かやってほしいとの声もあって始めたということです。

今年も元旦の6時に大勢の方がいらっしゃいました。正信偈のお勤めをいたしまして、それから杯を酌み交わした後、住職の法話というスタイルになっています。一部の人は残って、お寺で飲んだりしてゆっくりすごされます。

お正月はどなたも身が引き締まる思いがするのではないでしょうか。しかし、それは一体どういうことなのでしょうか? そういう問いを今回いただいたように思います。

お正月に見る私たちの心のあり方

日本のお正月は古来、歳神といって、ハレの文化として、神さまをお迎えすることによって、力をいただく、つまり作物の収穫を祈ったりしたものだったようです。奈良時代に仏教が伝わると、はじめてお寺で修正会が勤まったようです。しかし、奈良時代のお寺ですから、国が造ったお寺です。ですから五穀豊穣とか疫病から逃れるといった祈祷が行われていたようです。災いを避ける行事で、節分も同じですね。門松を立てるのも歳神さまをお迎えするためのものです。鏡餅やらお年玉の由来もここから生じているようです。まあ、現在は古来の意味がなくなり形だけになっているようですが、今日も神社仏閣に初詣に行くのは、やはり除災招福としてであり、時代が変わっても人間の根底には変わっていないようです。

年賀状に「明けましておめでとう」とか「新春のお慶びを申し上げます」とか書きますが、本当に慶んでいるなら神社にお願い事に行く必要などないのでないでしょうか。やはり本当は不安なのではないでしょうか。仏教では人間のあり方を「無明」と押さえます。明るくないということですから、何があるかわからないのです。不安の裏には無明ということがあります。つまり、この一年何があるのか、どう歩んだらいいかわからない、だから不安になるのではないでしょうか。現代は豊かな時代といわれていますが、豊かになれば不安は消えるのではないかと思われていましたが、実は今まで以上に不安な時代になってしまっています。無明をベースにした不安は複雑で多岐にわたっているのが現代といえるのではないでしょうか。だから初詣のかたちをとって、神や仏に依存していくのではないでしょうか。

事実に立つ

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こういう私たちに対して、仏教(真宗)は、どう自分と真向かいになって生きていくのかを明らかにするのです。お釈迦さまは因縁の法を説かれました。色々な条件が整って、今ここに自分がいるということです。この事実を受け入れたのがお釈迦さまだと言えるでしょうが、私たちは無明・我執に覆われていて、事実を事実としてなかなか受け入れられないのですね、どうでしょうか? 私自身、大変難しいことだと感じています。いやなことはなかなか受け入れられません。

事実と思いにギャップがあるのです。自分が思うとおりにならないと何かに依存していくのです。お釈迦さまは、「自灯明・法灯明」とおっしゃられました。「自らを灯火として歩め、仏法を灯火として歩め」と。つまり、自分の現実を仏法に照らして歩めということでしょう。

仏教で「慈悲」という言葉がありますね。この言語は同じ苦労とか悲しみをもった友だちという意味があるそうです。親鸞聖人は「真友」(しんぬ)と表現されています。同じ悲しみをもっている人がそばにいてくれるだけで救いになることがありますね。そういう意味が慈悲という言葉にあるそうです。何を申し上げたいかというと、自分とまったく離れたところに、自分を抜きにして、救いがあるのではないということなのです。如来の智慧の光と慈悲をいただくことが「自灯明・法灯明」ということではないでしょうか。

真宗における修正会

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有名な『蓮如上人御一代聞書』第一条に、正月に道徳が蓮如上人に新年のご挨拶をされたときに、蓮如上人は「道徳はいくつになるぞ。道徳、念仏もうさるべし」とおっしゃられました。念仏申すとは他力です。つまり、智慧と慈悲をいただいて自分の現実を引き受けて生きよということでしょう。自分の思う通りにしていくのではなく、自分がそのままでたすかっていることに気づくことです。『高僧和讃』に、「無碍光の利益より 威徳広大の信を得て かならず煩悩のこおりとけ すなわち菩提のみずとなる」とあります。自分が変わったものになるのではないのです。煩悩が転じられるのです(転悪成徳)。そして、自分のままに自分を引き受けて立ち上がっていくということなのです。

新年で身が引き締まるというときに、どこかで自分の変化を期待しています。しかし、毎年期待しても何も変わってはいないのです。変えられることは変えてもいいでしょうが、変えられないことを変えようとするところに、実は自分を受け入れられない問題があるのです。しかし、受け入れられないというところに仏法を聞く意味があるのです。そこに「頭がさがる」という世界が開かれているのです。

一年のはじまりは修正会からという意味を一人一人いただき直していければと思うことです。ありがとうございました。