東京教区東京2組
寺族研修23 斉藤信也先生の法話より

【'04年3月1日掲載】

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2月25日(水)、西照寺(台東区東上野)において、東京2組寺族研修(Vol.23)が開催され、「寺を、自分を引き受ける」というテーマで、東京8組真教寺副住職の斉藤信也先生(36歳)にお話しいただきました。自分を飾らず、等身大の自分を語る斉藤先生の姿に感動しました。

自分が望んだわけでもないお寺を引き受け直すことは、自分の人生を、自分自身を引き受け直すことに相違ありません。つまり、お寺に生まれた人間だけが抱える問題ではなく、この世に生を受けた人なら誰もが抱えている根本的な問題です。誰もが今、ここにある自分を本当に引き受けているかどうかが問われています。お寺に生まれ生活する斉藤先生がどう歩んでいられるか、法話のダイジェストを掲載いたします。


はじめに

「寺を、自分を引き受ける」というテーマでお話させていただきますが、「私はこのように引き受けました」という話をさせていただくのではありません。引き受けることの大切さを感じながらもなかなか引き受けられない自分がおります。しかしながら、そういう自分が何を感じ歩んできたかを少しお話できればと思うことです。

寺に入るまでの歩み

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子どものころは、親の職業を聞かれると僧侶だということがなかなか言えなかったのです。お寺ということに自信がもてなかったのです。自分が寺の息子であることをなんとなく隠して生きてきたように思います。こんな感覚で高校時代まですごしていたように思います。はじめて自分をさらけ出すことができたのは、お寺の子弟が多い宗門立の大谷大学に進学してからでした。大学生活は私にとって大切なモラトリアムだったのです。

それから、大学などの学びとは別に大谷派教師取得のための「修練」がありました。修練そのものは非常に厳しく、「寺のレールに乗っているだけで甘えるな。寺が霊信仰の場になっていないか」とか「社会問題に関わらないと真宗僧侶とは言えない」など上から押さえつけられるような感じを受けましたが、いくつか納得させられることもありました。

さて、大学生活は私にとってのモラトリアムであったのに、十分に自分を見つめることができないままに、いよいよ卒業が近づくとまた不安になってきました。勉強したいという気持ちはなかったわけではありませんが、モラトリアム延長のために大学院に進学しました。ところが、大学院はレベルもちがう上、一般大学から来た優秀な人たちに囲まれ、劣等感にさいなまれました。寺川俊昭先生のゼミに入り、『教行信証』の研究をしましたが、なかなかついていけず、なんとか3年かかって卒業し、お寺に帰ることになりました。

問いをごまかさず、ただ聞く

お寺にもどってからの私は悶々とした日々をすごしていました。聞法ということより、法事や月参りの日々でした。こうやって一生終わっていくのか、お寺は人生の墓場だとしか思うことができず、お寺も自分もまったく引き受けられない状態でいました。

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ただ、寺で生きる以上、門徒さんに色々とお伝えしないといけないと思い、法事のあとに法話をしました。しかし「法事は一般的にいう先祖供養とはちがいます。お経は亡くなった人のために読むのではなく、生きている人が聞くものです」とか「位牌は正しくは用いないので法名軸にしましょう」とか真宗マニュアルを話すだけで、自分が本当に思って話しているのではありませんでした。今は、法話の場は自分が試される場だったと思うのですが、当時は使命感や義務感、つまり教条主義に陥って語るだけで、自分が試されている感覚もなく、もちろん門徒さんとの対話もなく、門徒さんとのつながりがなかったのです。これではなかなか聞いてはくださらないですね。義務感だけでは伝わらないし、自分もくたびれてきます。“義務感”の抜けたあとは“怠けごころ”しかありませんでした。

こんな中で、東京教区の教化研究室に入りました。やはり、なかなか領解できませんし、自分の言葉でなかなか語れず、とてもつらく、劣等感を引きずっていました。しかし、こういう歩みのなかで、結局自分に何が問われているのか?ということをいつも突きつけられてきたように思います。具体的には「何で生きているのか」「何をよりどころに生きているのか」という問いです。この問いが消えたり出たりしながらの日々が続く中で、この問いをごまかさずにただ教えに聞いていくということでいいのかなと感じられるようになりました。

人を通して学ぶことの大切さ

最近では、教区で行っている青少年部門輪読会は私にとってはかけがえのない時間になっています。平野修先生の『親鸞からのメッセージ』を輪読し座談をするのですが、皆それぞれが自由に語れる空間になっています。そのなかで、仲間のひとりが私に大きな視座をあたえてくれました。彼はどんな小さなことでも「なぜ」「どうして」と食い下がって質問したり、語ったりしています。彼は若くして住職になり、多くの苦悩をもって生きているのですが、けっしてごまかさず自分を吐露するのです。その姿を見て、私自身が今ある私に素直に向き合って、教えの前で語ればいいのだなと思えるようになってきたのです。

青少年部門輪読会に限ったことではありませんが、人を通して学んでいくことの大切さを今まで以上に感じています。たとえ何も言えなくても、それを続けさせていただくということで、教えに真向かいになってきたように思います。

聞法道場としてのお寺

最後にお寺の聞法会のことをお話させていただきます。10年ほど前、私が寺に帰ってきたころだったと思いますが、東京8組では推進員養成講座が開かれていました。それがきっかけとなって、その後お寺に聞法会を立ち上げました。はじめは正信偈・同朋奉讃の練習と仏事に関するちょっとしたお話をしていましたが、皆さんが正信偈になれてくると、和讃のお話などもしました。そのあとは伝道ブックスなどを読んで座談を行いましたが、座談が盛り上がりませんでした。このときも私の義務的な姿勢が問われました。その後は結局、聞法会はしぼんでしまったのです。しかし、せっかく立ち上げた会をなくしてしまうのは残念なことだということで、海法龍先生に毎回ご法話をいただき、現在も続いております。そのなかで本当の意味での真宗門徒が私のお寺にもいらっしゃることを感じうれしく思いました。ただ、先生におんぶにだっこになるのではよくないことも気づき始めました。だからと言って義務感に陥るのではなく、まず一番大切なことは門徒さんとともに聞いていくことだと思います。海先生のように何でも答えられなくても、私自身が教えの前に座って聞き、等身大の私で門徒さんと接していけばいいのだと思うようにもなってきました。そのなかで、私がお話させていただく会もできていくのかも知れません。

長時間にわたり、色々語らせていただきましたが、「寺を、自分を引き受ける」というテーマに対する私なりの歩みを話させていただきました。ありがとうございました。