東京教区東京2組
いのちのふれあいゼミナール
'03年12月7日開催(講師:中川皓三郎先生)のご報告

【'03年12月28日掲載】

12月7日(日)、蓮光寺において、東京2組足立・荒川・葛飾ブロック聞法会「いのちのふれあいゼミナール」が約60名の参加者をもって開催されました。講師には8月に引き続き、大谷大学短期大学部助教授、中川皓三郎先生(60)をお招きし、「いのちのふれあいを求めて ―汝の欲することをなせ―」という同様のテーマでお話しいただきました。そのお話の一部をお伝えいたします。

根源的意欲の喪失

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自分自身がどういう問題を抱えて、親鸞聖人の教えに学んできたかと言いますと、やはり私自身、青春時代と言いますか、10代後半から20代にかけて強烈に感じていたことは、“生きていることのむなしさ”ということでした。生きている実感がないという問題です。いつも焦燥感と言いますか、不安のなかに生きてきたように思います。ですから、「本当に生きる」ということを親鸞聖人に学んできたのではないかと思うのです。

前回今回を通して、ミヒャエル・エンデの「汝の欲することをなせ」という言葉を出させていただきましたが、人間が生きるということは「汝の欲することをなせ」ということなのです。もちろん何をしてもいいということではありません。まことの意志を持てということです。ところが、問題なのは、私たちが本当は何がしたいのかよくわからなくなってしまったということなのです。

根源的意欲が喪失してしまったのが現代という時代ではないでしょうか。健康であっても、病気であっても、なくなることのない意欲というものが現代を生きる私たちにはわからなくなってしまったのです。

国王になりたい私

生涯を貫いて、したいこととは何でしょうか。

お釈迦様は、国王になっていく方でありましたが29歳のときに出家されます。老病死の事実を知って、世の非常を覚られたのです。

私たちは、死ということがなかなか見えません。私は研究室の机の前に「おまえも死ぬぞ!」[毎田周一]という言葉を掲げています。学生が私の部屋に入ってくると、それを見てぎょっとするのです。私たちは死ぬということを知っていても、日々の生活のなかでは、それを横において、明日も大丈夫だろうと思って生きているということがあるのではないでしょうか。

私たちは生きていることと死ぬことをきっちり2つに分けて、死ぬということに蓋をして、この生を何よりも確かなものとして生きているのです。ですから、私たちのしたいこととは、この生きているということが前提になっているのです。ですから、死を見てしまったら、生そのものが成り立たなくなってしまうわけです。しかし、明日あるという保証は絶対ないのです。

法蔵菩薩は元国王ですが、世自在王仏の教化を受け、国王であることを捨てて、一切衆生を救いたいと、阿弥陀仏になっていかれたということが経典に書かれています。要するに、ここに国王という問題があるのです。

実は私たちが成りたがっているものは国王ということではないでしょうか。自分のことが自分の思った通りに実現するような生き方が、幸せということなのだ、お金がある、力がある、能力があるのだ、と。そして、そういう幸せを獲得した人を国王と呼ぶのです。

なぜ、お釈迦様は国王にならなかったのか、なぜ法蔵菩薩は国王の座を捨てたのでしょうか? そこには、たとえ国王になっても満たされない欲求があるということなのです。

私たちは国王になれないむなしさは知っていますが、国王になってもむなしいということはなかなかわかりません。龍樹は「今あることをよしと思わなければ、たとえ全世界のものが自分のものになってもなお、私たちは満足できないのだ」と言われています。こういう欲求があるのです。このことを安田理深先生は「人間はないことによって不幸であるが、あることによっても不幸である」と述べられておられます。だいたい欲望は満たされるということが甘さだと言うわけです。

例えば、はじめは牡丹餅があれば死んでもいいと思っていたところが、牡丹餅を手にした途端、今度は牡丹餅を食べるだけでは満足できない煩悩が出てくるのです。満たされることが一層煩悩を刺激すると言うわけです。ですから、私たちの欲求は、この世にあるものでは満たされないのです。その欲求とは、「本当にしたいこと」とか「本心」という言葉で語られているのです。

私たちは、この自分を確かなものとして生きています。ですから、自分の思うとおりになる、実現するということが喜びなのです。裏から言えば、思うとおりにならないことが苦しみなわけです。

思うとおりになっている人を見ると、うらやましいのです。だから、力がほしい、お金がほしい、能力がほしいと、できるものになりたいということなのです。しかし、自分の思うとおりになっても、けっして満足できないような深い欲求があるのです。そのことを明らかにしなければ、この世に生まれてきたことを本当に喜ぶことはできないのです。

劣等感と孤独感

深い欲求とは何かを明らかにするうえで、人間にとって何が一番つらいか、そういう形から考えていきましょう。

一番つらいこととは劣等感と孤独感という問題ではないでしょうか。真継伸彦氏が「人間というものは、自己存在であると同時に、関係存在である」と言われるように、人間は自分というものを生きていると同時に、人と人とのまじわりのなかで生きているのです。劣等感とは自分と自分との間係に裂け目ができることで、孤独感は自分とまわりの人との関係に裂け目ができる問題です。このことが人間にとってつらいことなのです。

高齢化が問題になっていますが、年を取るということは、できなくなっていく自分と出遇っていくということです。しかし、私たちは悲しいかな、できなくなっていく自分を喜んで受け入れることができないのです。このしんどさが年を重ねるという問題にあります。そのうち呆けて寝たきりになっていくかも知れません。やはり正直、そうなりたくないと思うのですね。そして、もしそういうふうにならない薬があると言われると飛びつくわけです。だけど、どれだけ配慮してもならないという保証はないのです。

あるお年寄りの話ですが、毎朝お勤めをし、お寺にも通っていたお年寄りがおられました。そのお寺は、真宗ではないのでお札がありました。病気にならない、呆けないという立派なお札をつくってくれて、正月にそのお年寄りに渡すそうです。お年寄りは、そのお札を大切に仏壇に安置してお参りをしていました。

ところが、そのかいもなく病気になり呆けもはじまりました。最初はがんばってリハビリもしたようですが、そのうちにもう直らないと気づいたのです。その途端にぴたっと意欲を失い、「こんな目に遭わせやがって」と、お参りもしなくなったのです。つまり、なってしまった自分自身を受け入れることができなくなったのです。そうすると、生きていても生きているという実感がなくなるのです。

ですから、年を取るということは何も出来ないものになっていくということなのです。そういう私を受け入れる私というものがないのです。

私たちは本当に何を求めて生きているのでしょうか。この自分を中心とした、自分の思うとおりになりないという、国王になることを目指している人生観では、満足できない欲求があるのだということをお釈迦様や法蔵菩薩は教えてくださっているのです。劣等感や孤独感をどう超えていくのか、つまり、どんな自分でも見捨てない、その自分とともに生きるような生き方、まわりの人とともに生きる生き方を実現したいという深い欲求があるのではないでしょうか。その欲求が本当に満たされていく生き方ができたとき、私たちは「ありがとう」という言葉をもって生涯を終えていくことができるのではないでしょうか。

老いは何も出来ない自分になっていくことです。さきほどのお年寄りの話は、「あなたはそうなっても自分を受け入れられますか?」と問われているということなのです。どんな自分になっても、その自分に絶望しないで生きていける、まわりの人とともに生きていける、そういう生き方を私たちは深く求めているのではないでしょうか。そのことを仏教は私たちに語りかけているのです。

浄土こそ真の立脚地として生きる

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劣等感や孤独感に陥いるということは、自分と自分の関係、自分と周りの関係が崩れるということですから、見捨てられるということでしょう。見捨てられることほどつらいことはありません。その自分をどう受け入れていけるでしょうか?

それは愛されているということを知ることにおいてではないでしょうか。つまり、どんな状況でも自分を見捨てない、自分が無条件に愛されているということにおいて、自分が自分になっていけるのです。そういう居場所、立脚地を持っているかどうかです。そのままの自分でいいという、浄土を立脚地として生きるということにおいて、はじめて自分を受け入れていくのではないでしょうか。そのことを明らかにしていくことが浄土真宗の要なのです。

私たちがどうであっても、私たちを生かすいのちに目覚める言葉が南無阿弥陀仏なのです。そのいのちの目覚めることを通して、受け入れることのできない自分自身をはじめて受け入れることのできる私が生まれてくるのではないでしょうか。その私にともに生きていこうという意欲が回復されるのです。それが浄土にともにうまれて生きるということなのです。南無阿弥陀仏という言葉は、阿弥陀(無量寿)という、どんな自分も生きることのできるいのちを今ここにあたえられているという事実に目覚めて生きるものになってほしいという、私たちに対するよびかけなのです。そこに親鸞聖人が「浄土真宗」という言葉で教えてくださった、私たちの新しい人生があるのではないでしょうか。

私たちは思うとおりになることが幸せだと思って生きています。しかし、思うとおりにならないということが生きるということだったのです。だとしたら、思うとおりになっている自分よりも、むしろ思うとおりにならない自分を常に愛し、受け入れられる立脚地をもっていなければ、本当に生きたことにならないのでしょう。しかし、悲しいかな、私たちは、言いか悪いか、損か得か、役に立つか立たないか、儲かるか儲からないかという価値基準でしか生きられません。だから思うとおりにならない自分をとても愛することはできません。そういう私たちの思いを破って、どんな自分も自分であると落ち着ける大地を浄土と言われるのでしょう。

「私」を前提としている限り、思うとおりにならないと、他との関係はもちろん、自分との関係をこわしていきます。そういう私たちですが、「本当の自分に会いたい」という深い宗教的欲求を持っているのでしょう。「仏法は人間そのものを救うのであって、人間の状態を救うのではない」[金子大栄]と教えられています。なかなか簡単にはわからない、うなずけません。でもね、やはり「自分でありたい」と何かを求めていることも確かだと思います。そういう狭間を徘徊しましょう。むなしさをごまかさず、そこに腰をおちつけていくことだと思います。その自分を仏教がどう見ているのか、聞法という道が用意されていることを信頼し、念仏の声に耳を傾けて歩んでいきたいと思います。