東京教区東京2組
寺族学習会一泊研修 亀井鑛先生の法話より

【'03年10月23日掲載】

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去る10月6日(月)、近代のすぐれた仏教者である清沢満之ゆかりの寺、西方寺(愛知県碧南市)で亀井鑛先生(元『同朋新聞』編集委員)を講師にお招きし、「清沢先生の恩賜」というテーマのもとで、研修会が開かれました。西方寺の住職ご夫婦も加わって、充実した研修会が開かれました。ここでは、亀井先生のご法話の聞書きを掲載いたします。


清沢満之先生の2つのお仕事

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清沢満之先生については、「本師源空、世に出でて」という和讃になぞらえて、「本師清沢」という思いが私にはあるのです。清沢満之先生がこの世においでにならなかったら、私は真宗の教えにふれることがなかったと思うのです。

真実のよりどころとしての真宗の系譜は、親鸞聖人から蓮如上人へ、そして清沢先生が近代においての中興の祖ということが言えるのではないでしょうか。その先端に私が存在するのです。そこに「私」というものが加わることによって立体的になるのです。「私」なくして真宗は成り立たないのです。

私にとっての清沢先生の出世本懐は、意義として2つあるのではないかと思います。1つは、近代以前の真宗の教えを真のいのちが通うものとしてよみがえらせたことです。だから私に届けられ、私を私たらしめたのです。2つ目は、粟散辺州の日本に伝わっていた真宗の教えが、世界に向けて、未来に向けて、開かれていった。全人類のグローバルなものとして、真宗の仏道を見出だしたことです。これからの時代、全世界に向けて、ここに道ありという仏道を明らかにされたのではないかと思います。

通俗的説教の問題点

清沢先生がいらっしゃらなかったら、今の真宗寺院はどうなっていたでしょうか。おそらく、病気治し、商売繁盛といった外道、鬼神信仰に陥っていたのではないでしょうか。明治より真宗は愚夫愚婦の教えとして、世間から蔑まされていたが、その兆候はすでにあったのです。その俗信化をみごとに翻したのが清沢先生でした。先生の母である徳永タキさんは、熱心な念仏者だったが、「薄紙一枚のところでわからない」と言われたことが伝えられています。このようなまじめな聞法者が通俗的な教えはわからないに相違ないのです。先生も同じであったのではないでしょうか。

私自身は同朋会運動に育てられました。その運動のなかで出遇った人々は、清沢先生の母タキさんと同じことを言われていたのです。当時の宗門状況も、信心といいますが、恩寵的な救済を強調していたのです。現代的に言えばカルト化していたと言っていいでしょう。

昔の説教をそれなりに聞き、検証してみましたが、要するに、近代以前の通俗的説教は、信心・慈悲など教学的言葉はそろっていましたが、形骸化していたのです。ただ、ひたすらに弥陀のお助け・慈悲をありがたがらせるような説教であったのです。そこに恩寵のカルト化があるのです。我々在家の者は、通俗的説教を聞いて、自己暗示にかけ、自己陶酔していく、バーチャルな心理操作があるのです。「喜ばなきゃいかん、ありがたがらにゃいかん」といった自己暗示がなされていたのです。

そういう説教のあり方は、マインドコントロールといっていいわけです。これは、同朋会運動前まで続いていたのではないでしょうか。節談説教などを聞くと、江戸時代から昭和にかけての、先生以前の説教形態を続けているということを感じるわけです。節談説教は、話としては人情美談でおもしろいし、節まわしも日本人の感情をそそります。しかし、そのあとの説教部分については、人情美談をむりやり仏恩報謝にこじつけるという展開なのです。私が福井でお話をさせていただいたときに、「節談説教がいう救いですが、何が救いなのか、何がお助けなのか、わかりますか?」と聴聞している方々にたずねると、2、3人のおじいさんが、「何もわからん」と言われました。この方々はタキさんと同じ人々だったのです。お慈悲やお助けといっても抽象的、観念的であり、それを自分に言い聞かせるといった観念論のお助けにするかえていくのです。これが節談説教であり、明治のお説教でした。

清沢先生以前の通俗説教のあり方は、論理のすりかえと押し付けで、お寺にお金をすいあげるといった、教財一如になっていました。助かるという具体性と実証性がなく、ご恩とかお慈悲といった偶像化、絶対他者に手を合わせるということになっていたのです。

高光大船先生は「阿弥陀如来を神にしていないか?」こういうことをはっきり言われました。真宗の本尊は、南無阿弥陀仏であるというところに帰らなければならないと思います。木像より絵像、絵像より名号と言われるのは、500年前にも、そういうことがあったということではないでしょうか。

親鸞聖人のお手紙の中の自然法爾章でも言われていることです。虚像を通してマインドコントロールしている、そこに陥っているのではないでしょうか。

自然の道理が南無阿弥陀仏です。清沢先生は妙用とか絶対無限という言葉を使われています。阿弥陀を実体化し、神にしてはならないということからです。

暗愚無能の自分を自覚する

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清沢先生は、母タキさんがわからないと悶えていることを自分の問題として検証していかれました。晩年、精神主義・精神講話の記録のなかに出ていますが、明治という時代になって、文明開化の恩恵を受けて、教育が普及し、仏教の本を読む人が増えました。しかし、読まれてもわからない人が多いのはなぜでしょうか?

それは自己を省察すると一点、内観反省ということが等閑になっているからです。「自己とは何ぞや」という一点が抜け落ちているところに仏教の形骸化があるのです。自己を省察することが説教で抜け落ちていました。

省察すれば何が見えてくるかといえば、暗愚無能の自分が見えてくるのです。真宗の教えは二種深信、機法一体の南無阿弥陀仏です。機の自覚の問題です。暗愚無能の自分が見えてくると、明るい世界が開けてくるのです。

清沢先生は二件家の喩え話をされました。けんかばかりしている家の主人が、となりの仲良く暮らす家に行き、仲良く暮らせる秘訣をたずねました。そこの主人は「悪人の愚か者がそろっているからだ」と言われましたが、どうも意味がわからなかったのです。数日後、仲のいい家族の母屋に馬がつっこんできました。主人は「私が昨夜遅くまで仕事をしていて、馬に餌をやるのを忘れた。私が悪い」と。続いておばあさんが「年寄りの私がいながら、馬の餌に気づかず、私が悪い」と。さらに続けて子供が「私たちがいたのに、遊んでばかりで、私が悪がった」と。家族がそれぞれ「私が愚かだった」と言い合っている、自らの責任を背負っているのです。けんかばかりしている家の主人は「なるほど。悪人ばかりがいるから仲良く暮らせるということはこういうことか」と合点がいったのでした。

清沢先生は四日市の仏教青年大会で、こんな話をされたのでした。罪悪の私を引き受けるところに、恭順和楽の本当の関係が開かれるのでしょう。このたとえ話は先生の六字釈だと思っています。暗愚無能が南無、恭順和楽が阿弥陀仏ではないでしょうか。

これを私のこととして受け取ると、私はタバコ屋をやっております。自動販売機を800台持って販売し、従業員を使っております。現役の社長だったとき、別院へ行ったりで、仕事に穴をあけたことがよくあり、従業員から批判を受けました。社長の私に向かってという思いがあり、不機嫌になりました。しかし、仏法の声なき声が聞こえてきました。自分を高い所に据えて相手を見下す姿勢はまちがっている。「よう言ってくれた」というのが社長の姿ではないかといただくと、肩から力が抜けていくのです。社員も話せばわかる社長として受け入れるのです。こうして、連帯感をともなった恭順和楽が成り立つのでしょう。そこの根底に暗愚無能の自覚があり、ここにお念仏があるのです。

先生の譬喩は、生活の中に生きていて、まさしく南無阿弥陀仏を語っているのではないでしょうか。

真宗の本尊は、阿弥陀如来ではなく(といっては語弊があるが)、南無阿弥陀仏なのです。親鸞聖人ご自身もそう押さえられているし、六字名号は法然以前の浅いいただきを避ける意味(呪文)でも、帰命尽十方無碍光如来と表現されたし、それと清沢満之先生の言葉と通じるものがあります。南無阿弥陀仏を本尊とし、「自己とは何ぞや」という自己省察・内観なくして仏法はありえないのです。機の深信の徹底です。機の自覚とは「自己とは何ぞや」ということであり、徹底的な自己否定を通して、すべてのものは私の恩賜であったといただけるのです。

同朋会運動は、機の自覚ということを提唱し、そのことが本当の自分に帰ることなのだと教えられました。「自己とは何ぞや」という一点をふまえることによって、真宗仏法が確立、というより復興したのです。

明治以降の世界的規模のなかから、西洋の伝統文化のなかにも、仏教の課題をもっていたのです。ソクラテス、エピクテタス‥‥みな仏教の課題と同様の課題を持っていました。だから仏法は世界的であり、ソクラテスも仏者であった、と言えるのではないでしょうか。

「小公子」は明治のとき、若松静子訳も引用し、「小公子」の話は至誠心を証明していると言われています。仏道を仏典のなかだけではなく、世界のいたる書物にも仏道があるということを先生は証明されたのです。仏道を伝統の細道で考えるのでなく、人類の遺産のなかから見出していくことが大切ではないでしょうか。そういう道を開いてくださったのが、清沢満之先生だといただいております。

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佐々木月照先生も同じ視点をもっていたので、鈴木大拙先生やその妻を大学に迎えているのです。清沢満之によって、間口が広がったのです。

清沢精神が同朋会運動として展開している。私自身が運動に出遇い、歩みの中で、何を聞いたのかといえば、「罪」ということを教わりました。それは親鸞聖人から教わったといってもいいし、清沢満之先生から教わったといってもいいのです。「自己とは何ぞや」という問いに対して、罪なる私といただきました。罪なる私が南無ということであり、暗愚無能ということがある。そこに明るくなる世界がひとりでに開かれてくることを生活のなかで、実感させていただいております。ここにも、先生の教えが証明されており、遇法の喜びがあります。

生活の上で、どう教学を実証していくか。生活の事実にかさねあわせていくことが大切ではないでしょうか。