東京教区東京2組
寺族研修22 近田昭夫先生の法話より

【'03年9月22日掲載】

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9月8日(月)常福寺(足立区)において、東京2組寺族研修(vol.22)が開催され、「お寺で暮らしてよかったですか」というテーマで、顕真寺(豊島区)住職の近田昭夫先生にお話しいただいきました。

お寺に生まれ育った人であろうと、お寺にお嫁にきてお寺で生活する人であろうと、お寺で暮らしてよかったということはどこで言えるのでしょうか。お寺の次男坊に生まれ、様々な経験を積み重ねながら本願念仏の教えに出遇っていかれた先生に熱く語っていただきました。その一部をご紹介いたします。

近田先生の法話ダイジェスト

父親に対する恩とは何よりも得度させていただいたことです。得度して僧侶になったから苦労したのですけれども、僧侶にならなかったら、自分から浄土真宗を求めて聞かなかっただろう、おそらく一生涯浄土真宗の教えを聞かなかっただろうと思います。ですから「お寺に暮らして(生まれて)よかったですか?」というのは、仏法に遇えるか遇えないのかなのです。この一点なのです。しかし、仏法に遇うということはストレートにはいかないのです。本当に紆余曲折、七転び八起きなのです。そういうことを経て、やっと仏法のにおいを嗅がせていただけるのです。

蓮如上人の時代に本願寺教団が民衆のなかに驚異的に広がったのは、信心談合(「談合」とは語り合いという意味)ということがあったからです。信心談合とは仏法や信心を話題にするのではありません。その場その場が仏法ですから何を語ってもいいのです。人と人とが語れる場が大切だと思います。ただ、仏法とは真実とは何かということなのです。語り合っていても、真実より損か得かといった“保身”が先にあったら仏法にはならないのです。

この保身が先行する在家生活において、いかに仏道が成り立つかというところに浄土真宗の一番大事なところがあるのです。「浄土真宗は大乗の至極なり」(『末燈鈔』)という言葉がございます。ここで言う浄土真宗というのは宗派の名前ではございません。南無阿弥陀仏のはたらきによって明らかになっている世界というのは、そのまま大乗の大乗たる所以を明らかにしていることなのだと、確信をもって親鸞聖人がお書きになっているのです。在家において仏道が成り立つのは、浄土の真宗をおいてないということを言われているのです。

お釈迦様(釈尊)のことを「世尊」と申し上げます。世間において最も御尊き御方という意味でしょうが、ある時、私は、「世」と「尊」はちがう言葉だとはっと気がついたのです。「世」とは世間ですから比較相対です。人と比べて自分が上だとまんざらでもない、下だとだめだと、そういうコンプレックスの世界です。それに対して「尊」という言葉は、「とうとい」「たっとい」と読むのです。現代では「とうとい」とか「たっとい」という言葉は使われなくなってしまった、現代にはそういう世界がなくなってしまいました。それで漢和辞典を引いて見ますと、「尊」は「立っているものが、すっくと、しかも静かにおちついているさま」をあらわす文字なのです。

『教行信証』行巻に「我、無上両足尊を帰命し礼したてまつる」という言葉がございます。「無上」とは他とくらべてということではありません。それをのり超えたということです。オンリーワンということです。相対的価値観のいいとか悪いとか、上とか下とかを一歩超えた世界を「尊」というのです。ですから「世尊」というのは、世間において最も御尊き御方と読んでまちがいはないのですけれども、もうひとつ言うと、お釈迦様(釈尊)ご自身が世尊になられたということなのです。そして、世尊の教えは、万人をして世尊たらしめるというところにあるのです。「世」は在家です。「尊」は在家に仏道が成り立ったということです。「世尊」ということからそのようなことを感じさせていただいていることです。比較相対を超えて、今自分がここにあるというそのことに頷けている姿を「無上両足尊」という言葉で表されているのだと思います。

ある研修でテーマを出してほしいので、「自分でなければやれない仕事」をテーマとし、サブタイトルを「後生の一大事」とつけました。人生における一番大事なことと言ったほうがわかりやすいのに、なぜあえて死に関わる「後生」という言葉をつけて人生の一大事を表しているかというと、自分でなければやれない仕事が誰にでもあるからです。それは日々色々なことをしながら生きていますが、ひとりの人間として、このこと一つが欠けたら私の一生は意味がないというほどの問題なのです。だから万人共通の人生にとっての大仕事です。それが果たせなければ死ぬにも死ねないということなのです。だから「後生」という言葉がつくのです。

どんなにいっしょうけんめい自分のポジションとしての役割を果たしたとしても、人間として自分が果たし遂げなければならぬ仕事を果たし遂げなかったならば、百年生きたとしても恨むべき時間であり、わが生涯は悲しむべき形骸にすぎない(道元禅師の言葉)のです。一番根本的なところで、自分でなければできない大仕事が、生きている一人一人の存在に宿っているのです。宿っているから宿題というのです。東京教区の法語ポスターに「人間は幸せぐらいでは満足できるものではない」(和田稠師)とありましたが、まさしくそのことなのです。

さきほど、信心談合ということを申し上げましたが、信心がどう確立したとか、真宗をどう理解したとかは二の次三の次だと思います。その場の問題がものすごく大事なことなのです。私自身、これだけ仏法を求めてきたのは、菩提心、求道心だと思っていたのです。ところがある時、自分は自分に自信がないから自信を持ちたかった、気が楽になりたかっただけの話ではないかと気づいたのです。これだけ仏法を求めているのに、求めている心は仏法ではなかったのです。真実を求めているけれど、真実を求めている心は真実ではなかったのです。いやをなしに静かに納得させられました。その時は、肩の力が抜けたと言いますか、「ありゃ〜」という感じでした。後から思うと、これが大きな転機になったのです。それからどうなったかといいますと、何も変わりませんけれども、御聖教の言葉が仏教の専門用語ではなくて、私への“よびかけ”であるというふうに、聞こえてくるようになってまいりました。

仏法で「であう」の「あう」というときに、親鸞聖人は「遇」とか「値」という字を使われます。「値遇ちぐう」という言葉があります。特に「値」は「もうあう」という、「思ってもみないのにであう」ということです。正信偈の最後に「一生造悪値遇誓 至安養界証妙果」(一生悪を造れども、弘誓にもうあいぬれば、安養界に至りて妙果を証せしむ)とあります。文脈通り読むというより、弘誓に「もうあ」うから、自分が一生造悪であるということがわかるのです。「値」は値段の値です。つまり表札通りということなのです。表札通りの自分に出遇うということ、それは一生造悪、さきほどの言葉で言えば「保身」です。信心を求めるといっても保身なのです。そういうことで求めていますから、真実を求めているけれども、求めている心は徹底して真実ではないということなのです。御聖教の言葉のなかで非常に大切だと思うことは、「不真実」という言葉です。あなたは真実を求めているけれども、あなたの真実というのは末通らない(終始一貫しない)ということを仏が悲しんでおっしゃっているのです。これが如来大悲の言葉なのです。

自分の意識を超えて場があたえられているのです。そういうことを大切にしながら、「お寺に暮らしてよかったですか?」という問いかけを聞き続けていただければと願うことです。