東京教区東京2組
いのちのふれあいゼミナール
'03年8月23日開催(講師:中川皓三郎先生)のご報告

【'03年9月21日掲載】

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8月23日(土)蓮光寺において、東京2組足立・荒川・葛飾ブロック「いのちのふれあいゼミナール」が開催され、約60名の方々が参加されました。講師には大谷大学短期大学部助教授の中川皓三郎先生(60)をお招きし、「いのちのふれあいを求めて ―汝の欲することをなせ―」というテーマでお話しいただきました。そのお話の一部を感想を交えながらお伝えいたします。

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現代は、人が生きるとはどういうことかわからなくなった時代です。では、人が生きるとはどういうことなのか、親鸞聖人の教えから学んでいきましょう、という問いかけからお話がはじまりました。

生きるということが、ひたすら自分の欲望を満たすということになってしまったのが、現代の人間模様です。欲望を満たすことに喜びがある。だからお金が必要だと、力が必要だと、そのためには要するに“できるもの”にならなければならない、こういうようなものさしのなかで、私たちは生きているということがあるのではないでしょうか。現代人はむさぼりの心に酔ってしまって、本心を見失っているのではないでしょうか。そして、そのことがわからなくなってしまったのが現代の時代状況です。

浄土からはじまる

テーマから思うことは、「生きるとは、したいことをせよ」ということになりますが、「したいこと」とは単に何をしてもいいというわけではないと思います。そこには生きている実感の問題、意欲の問題が語られているように思います。それでは、本当に私たちが「したいこと」とは何なのでしょうか。

中川先生は、そういう問題を応える言葉として「浄土」ということが言われてきているのだと話されました。真宗門徒だから浄土を求めるということではなく、キリスト教の人たちも、イスラム教の人たちも、無宗教の人たちでも、人間である限りみな浄土を求めているのだと先生は言われます。「浄土真宗」とは宗派名ではなく、浄土こそ真の立脚地だという意味です。真宗とはこれがなかったら生きていけないという意味です。

中川先生は信国淳先生の言葉を引用されて、「浄土真宗の信仰においては、浄土とはあってもなくてもよいのというあいまいなものではない、浄土がなければ浄土真宗は成り立ちません。しかし浄土が地球のどこかにあると考えるなら、その考えはもとより浄土真宗でもなんでもありません。また、浄土の生活が死後においてはじめてはじまるという考えも浄土真宗ではありません。浄土は我々の人生行路の終帰ではなく、はじまりであり、浄土にふれてはじめて我々の人生が光と意味を持ちはじめるのです」と語られました。

浄土は死後の世界ではなく、「生死を超えた」世界です。要するに浄土からはじまるのです。浄土という世界が今こうして生きている私たちの生のただなかに明らかになることによって、人生に豊かな意味をもってくるのです。どんな人生を生きようとも生まれてきてよかったと言える人生は、浄土を明らかにするということと深くつながっているようです。浄土が明らかになることによって本心をとりもどすことができる。そして本心にしたがって生きていくことができるという教えが浄土として語られているのです。誰でも浄土を求めているのであり、それに関わって「念仏」があるのだということをまず先生が力説されたところです。

浄土の世界とは

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中川先生のお話は浄土とはどういう世界かについて展開されていきました。以下、先生のご法話を要約して掲載いたします。

近代は人間が欲することをしてきた時代であり、快適さ・便利さを享受してきました。しかし、本当にそれが欲していることではないということがなかなかわからないのです。

地獄の世界は、帰するところがなく孤独であると言われています。少年事件などを見ると、親から愛されていない少年が多いと言われています。この問題を押さえていかないかぎり、刑事責任を問う年齢を下げていっても問題の解決にはなりません。人間が生きるということにおいて、本当に愛され受け入れられるということがなかったら、生きていく居場所がなくなってしまう、そういう立脚地を失ってしまうことになるのです。これは少年にかぎった問題ではなく、現代人がみなどこかで感じている問題ではないでしょうか。

マザー・テレサも「人間にとって一番つらいことは見捨てられることだ」と言われるように、人間にとって一番つらいことは、自分が受け入れてもらえないということなのです。これを地獄の世界というのでしょう。お金がないとか、病気をしているとか、確かに大変なことですが、もっと大変なこと、つらいことは、その自分を受け入れてくれない、関係が開けないということなのです。

「私」とは、他と区別した私です。ですから「私」といったら、自分と自分ではないものを区別、つまり他人としています。そしてこの「私」を何よりも一番大切なものとして生きています。そして好きなものと嫌いなもの、喜べるものと喜べないものをもって生きています。つまり、喜べるものを手に入れることが生きることなのだと思っています。逆に言えば、喜べないものを排除して生きています。

喜びを得るとは、能力をもちお金をもっていくことだとどこかで誰もが思っていることです。だから親は子どもに「勉強ができるようになりなさい」と言います。けっして「あなたは、あなたのままでいいですよ」とは言いません。

しかし、これは本当に欲することではないと教えられるのです。この「私」が前提になっていますから、この「私」を問うことがないのです。

受験生の息子さんに夜食をもっていって「がんばってね」と声をかけたお母さんが、息子さんに夜食をぶつけられたという事件がありました。それは裏を返せば「私が喜べる、自慢できる息子になってほしい」という親の暴力であり、夜食をぶつけたということは、息子さんが本当の意味で自分が受け入れられていないと知ったからでしょう。ここになかなか気づかないのです。その母親は息子さんのことを思っていないわけではありません。大切だと思っていますが、そう思う心のなかに、息子さんの存在そのものを殺してしまうものがあるのです。

そのことは、教えを聞くということを通してはじめて見えてくるのです。そういうことに関わって、親鸞聖人が教えてくださることは、人間にとって一番つらいことは関係がこわれてしまうことなのだということなのです。ここに浄土の問題があるのです。

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浄土の世界は「ともに」ということがあります。『阿弥陀経』に「倶会一処」という言葉があります。「ともにひとつの場所で会う」という、ひとつの場所で会うことのできる世界、つまり見捨てられることのない世界、それが「浄土」なのだと教えられます。だから誰でも浄土を求めているということは、どんなことがあっても見捨てられることのない世界を求めているということなのでしょう。

そのことが私たちのところになかなか実現できずに苦しんで生きています。そういう私たちのために、本願の教えとして、浄土の世界にめざめよと念仏の声となって私たちに呼びかけられているのです。

人間は関係存在です。しかし、この「私」を前提として生きるかぎり、その関係は悲しいかな条件つきなのです。「私」の思いがかなうかぎり、あなたとともにということなのです。「私」を前提にしているところでは「ともに」ということが成り立たないのです。だから私たちはどこかで人を見捨て、そしてどこかで見捨てられているかも知れないのです。そういう恐れというものをみな感じているのです。なかなか確かな自分の居場所を見出すことはできません。煩悩具足の私たちには受け入れられないものが必ずあります。そういう有り様を離れることができません。どこまでいってもわが身ひとつがかわいいのです。だから親子であっても、夫婦であってもなかなかひとつにはなれないのです。そして、そのことがつらいことなのです。

そういうなかに「浄土」ということが言われるのです。浄土ということを離れて「ともに」ということは成り立ちません。そういう私たちのために本願の教えは私たちに「南無阿弥陀仏」と念仏申せと呼びかけるのです。つまり、「いかなるものも見捨てない」という如来の心にめざめてはじめて「ともに」という世界が成り立つのです。親鸞聖人の教えに縁をもって生きる私たちは、身近な生活のなかで、こういう自分であるということを教えられながら、本当に助け合っていけるような生活を作り上げていくということが非常に大切なこととして求められていると思います。

中川先生のご法話を聞いて、現代は浄土を見失ってしまったのだと痛感しました。それは現代に生きる私自身への大きな問いかけです。人間にとって一番つらいことは関係がこわれることだとお聞きしました。そして関係がこわれるという問題は、他との関係がこわれるという問題だけでなく、自分自身との関係がこわれるという大問題があることに気づかされました。「私」を前提としている限り、他との関係はもちろん、自分との関係をこわしていくのだと感じました。そういう私たちですが、心の奥底には、やはり浄土を求めているのでしょう。そのことに気づけと、本願念仏の教えは呼びかけ続けるのです。

中川先生は、12月7日(日)にも蓮光寺でご法話をしてくださいます。また後日、ご案内いたします。