あなかしこ 第72号

余命を越えて

谷口裕  52歳)

大変困ったことになった。実は、私の余命が尽きてしまった。

4年前の夏、当時49歳だった私は〈余命3年〉の身であると『あなかしこ』に書いた。その20年前(すなわち今から24年前)に母が52歳で還浄したので、自分もあと3年でその年齢になることを踏まえて、そう書いた。

そう、今や私はその52歳なのである。やけにかっこつけて〈余命3年〉などと書いてみせたものだが、恥ずかしながらと言うべきか予想通りと言うべきか、一日一日をなんとも無駄にしながら3年の〈余命〉を食いつぶして今日に至ってしまっている。

昨年をもって私の〈余命〉が尽きた。そして今年の誕生日を迎えると53歳となる。これ以降は、いつの時代の母を思い出すにしても、その姿は今の私より年下になるのかと思うと、何とも言いようのない不思議な気持ちにとらわれる。

もはや私は母から「まだ○○歳のくせに知ったふうな口をきくんじゃないよ、この青二才」などと言われる筋合いではなくなるのである。何せ、これよりのち母はどんどん私より年下になってゆくのだ。親が自分より年下になるなんて、デロリアンのタイムマシンにでも乗らなければあり得ないはずだったのに。

まだ私が10代の頃だったか、母が高校の同窓会から帰ってきて、やけに嬉しそうに会の様子を語ったことがある。いわく、母たちが高校3年生だった時にはやっていたのが舟木一夫の「高校三年生」という歌だそうで、会の最後にみんなでカラオケで「高校三年生」を歌ってきたとか。そんな、私が生まれる前の流行歌の話などされてもピンとこなかったのだけれど、今思うに、私の世代が高校3年生だった頃にはやっていたレベッカの「フレンズ」やチューブの「シーズン・イン・ザ・サン」で盛り上がるような感覚なのだな、と何となく甘酸っぱい思いを重ね合わせて理解することはできなくもない。

さて、母が亡くなってから今に至るまで、現在の自分の年齢だった頃の母と、その頃の私自身のことを、折々に思い返したりする。そのたびに、ああ、母はあの頃、この歳であんな状況にあったのか、あんなふうだった私と向き合っていたのか、などと思うにつけて、つくづく実感させられるのは、生きることのしんどさを分かっていなかった自分の子供っぽさと、時には何だかんだと愚痴をこぼしたりもしながらひたすら生き続ける姿を見せた母の強さだ。

人生は仏さまに成るための修行だ、と母が言ったことがある。母の実家の宗旨は浄土真宗ではないし、どういう機会にどこで聞いてきたことなのか知らないが、一度だけ母がそんなことを口にするのを聞いた。オウム真理教騒ぎの頃、テレビで信者が仏教について話していた時に、母が「この人たちの言うことはおかしい。人生は仏さまに成るための修行だ」と言ったのである。

当時20代だった私は、その言葉の意味を深く考えずに聞き流してしまった。けれども今思い返してみれば、これまでお寺で聞かせていただいてきた、どんな生きざまであろうと南無阿弥陀仏の中であるという教えと、完全に一致はしないにせよ成仏道ということにおいて通じるものがあるような気がしている。「修行」という言葉を使うと何やら自力っぽく感じてしまうが、要は、他力の中にしっかりと足の踏み場を得てこそ、人生は修行という意味を持つのではあるまいか。〈仏さまに成る〉という果が先にあっての〈修行〉なのだろう。

これからは〈現在の自分の年齢だった頃の母〉というものがなくなってしまう。これからは〈もし母が現在の私の年齢になっていたら〉になる。母に言わせれば、きっと私なんぞは〈仏さまに成るための修行〉が未熟の身ということになるだろう。母の〈修行〉の年数ではとうてい足りていないらしく、私はこれからもこのしんどい人生を生きてゆくよりほかなさそうだ。

母の行年を超えれば、母の見聞きしなかった時空へこの身が歩んでゆくことになる。母から旅へ送り出されるような気分がしなくもない。だが一方で、母が私より一つ年下になろうと二つ年下になろうといくつ年下になろうと、やはり後に生まれん者は前を訪う。そうして年を経るごとに、母との距離はむしろ近づいてゆくのだ。

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