あなかしこ 第66号

門徒随想

11月末から12月頭にかけての1週間、時間の経過がとても早かった。日曜の夜名古屋に入り、月曜、火曜と鉄道事業を行う企業で技術課題を解決するプロジェクトを行った。夜には尼崎に移動し、水曜日は電機メーカーで組織課題を解決するプロジェクトを行った。そして、その日のうちに名古屋に戻り、次の日の早朝バス便で長野へ。機器メーカーで新規事業開発の支援プロジェクトを行い、その後滋賀に移動して、金曜、土曜は別の機器メーカーでマーケティング戦略立案のプロジェクトを行った。

なんとも目まぐるしい毎日であるが、仕事のやりがいは高い。共通していることは、“お客様企業のさまざまな課題を明らかにして、解決の方向性を示したり、助言をする”ということである。

医師は人間の心や体に生じた問題を治すことを生業とする職業であるが、我々経営コンサルタントは企業に生じた問題を治すことを生業とする職業である。つまり“問題解決の専門家”である。

医師がそうであるように、我々もお客様企業で不安な素振りは見せない。蓄積された知見と収集した情報、そして自らの思考を頼りに精一杯解決に向けて努力をする。

しかし当然のことながら、簡単な問題ばかりではない。さてどうしたものか、と途方に暮れてしまうような問題も実は多い。そうした問題にあたるたびに、自分の無力さを感じる。「あぁ、今日はお客様の役に立つことができるのであろうか.」、不安が自分を覆うこともある。

我々の日常生活では、物事を考えるのに“役に立つのか”、という物差しが当たり前のように使われる。就職に役立つなら大学で勉強するが、役に立たないのなら勉強などしたくない。自分が認められるような仕事なら喜んでやるが、縁の下の力持ちになるだけの仕事には魅力を感じない.

そんなことをつらつらと考えていると『歎異抄』の第八章が思い出された。

『一、念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと云々』

念仏の教えをたずねて行くことは、決して善いことを積み重ねているのでないということなのだろう。どんなにお寺参りしても、毎日お経を読んでも、それは何にも役にたちませんよと。どれだけ一生懸命にやっても偉い人になるのではないですよと。

念仏の生活とは、“役に立たなければならない”といった“〇〇でなければならない”という世界から解放されるということなのであろう。自分自身のありのままを認められるということである。“そのままでよい”という場所に帰るということである。

コンサルタントとしてこれからも精一杯お客様企業の役に立ちたい。しかし、どんなに経験を積んでも、知見を蓄積しても、依然として不安は払拭できないだろう。しかしそんな生活のなかに“不安を抱えたままでよい、そのままでよい”という世界が開かれてくる。

櫻橋淳 (釋淳心 蓮光寺衆徒 48歳)
Copyright © Renkoji Monto Club.