あなかしこ 第64号

法話

テーマ 何を大切に生きていますか 
第1回 本願
講師 藤原正寿先生 大谷大学准教授、石川県・浄秀寺住職、54歳

真宗入門講座 
2017年10月7日(土) 於:宗念寺

テーマについて

  • 藤原正寿先生

こんにちは。ただいまご紹介いただきました藤原正寿と申します。私は石川県金沢市のお寺の生まれで、京都の大谷大学で勉強した後、3年間東京の親鸞仏教センターで、現代社会に親鸞聖人の教えはどのようにはたらくのかを勉強させていただきました。現在は、大谷大学に務めながら、秋葉原と横浜の親鸞講座を担当させていただいて、月に何度か東京にお邪魔させていただいております。

最初に蓮光寺本多雅人ご住職からお話がありました田口弘さんは、いつも秋葉原親鸞講座で、一番前で聞いてくださいました。田口さんが一番前に座っていないと何だか話しづらい感じがします。私はたまたま田口さんの葬儀がある日に、栃木の那須ご住職と横浜駅でばったり出遇い、田口さんが亡くなられたことを耳にしました。

私たち誰もが自分のいのちは自分の思い通りにならなくて、いつ終わるかわからないものです。そういったいのちを今ここにいただいて生きているということを一応頭では理解しているのですが、それを自分のこととして考えるのは難しいことなのです。身近な人の死・病気などを通して、自分が頭で思っているということを超えて、自分の思いが間に合わないところに私たちのいのちの事実はあるのだということを、あらためて知らせていただいた出来事でもあります。本日のこの会にも田口さんは出席すると言ってくださっていて、終わったらいっしょに飲み、食べ、そして語ろうという話までしていたのですが、残念ながらそういうご縁も叶わないことになってしまいました。

さて、今日は聞法会のテーマは「何を大切に生きていますか」であります。4回にわたってサブテーマとして「本願」「念仏」「信心」「浄土」としてお話をさせていただくことです。私たちに問いかけてくるもの、それが「本願」「念仏」「信心」「浄土」という浄土真宗という親鸞聖人の仏教において一番基本になる用語であり、今回の聞法会に共通している内容です。「本願を信じ、念仏をもうさば仏になる」(『歎異抄』第12章)これが親鸞聖人の基本の教えですから、これらは全部別のことではなくて、一連のこととして私たちにとって大切なことを語り告げているものなのです。「本願・念仏・信心・浄土を私自身の生活の上にいただけてきたことが、この親鸞にとって幸せでありました。私にとって最も大切なかけがえのないことが、この四つの言葉で表現されるものです」とおっしゃった方が親鸞聖人なのです。翻って考えますと「私たちは何を大切にして生きていますか?」という問いかけにもなってまいります。

自分のあり方が問われる

誰もが幸福になることを求めています。幸せになりたくない人は誰一人おりません。ただ、私たちは何が本当の幸せなのかということは、実ははっきりとしていないのではないでしょうか。現実は、いつもまわりの人と比べて自分が幸せかどうか、そういう比較心でしかないのです。本当に幸せとは何か、何を求めているのかを自分で自分に問うということはとても難しいことです。人生の中で自分にとって思いがけない出来事、悲しみや苦しみに遭遇した時、私たちはこんなはずではなかったと思い、またどうしていいのかわからなくなります。しかし、そういった時に、自分の思いを超えたところから、起こったことから逆に問いかけられるということがあるのです。

実は、葬儀の大切な意義もそこにあるのではないでしょうか。世間では、葬儀はこちら側が亡くなった人を送るための行事となっていますが、本来は、その場に集った人たちが、亡くなった人を縁として私たちもまた死を免れることができない存在であることを思い知らされる場なのです。あんなに元気だった人が今、目の前に亡くなった姿でおられる。そういう事実を前にして、人間の思いというのは本当に間に合わないもので、眼前にはいのちの事実というものがあるのだということを知らされる場が葬儀です。むしろ、亡くなった方が私たちに「あなたは何を求めて生きているのか、何をよりどころとして生きているのか、そのよりどころが人生を貫いてあなたを支えてくださるものなのか」を問いかけてくださっている。その問いを仏教の教えに訪ねていくのですから、お坊さんがいるわけです。そういう場に出遇うというのが葬儀の大切な意味合いなのです。お通夜や葬儀の場は、目の前に死という事実が突き付けられている場ですから、あの場で何を語るのか、僧侶としての勝負であり、大事な瞬間であると思っています。葬儀の法話は10分程度でありますが、その場で何を語るのか、いつも緊張して臨んでいます。

私たちは「何を大切に生きているのか」ということを、実は私たちに問いかけるのが親鸞聖人からのメッセージなのです。浄土真宗という宗派があって、そこに親鸞聖人の思想があって、それを勉強して今より少しはマシな人間になるというのは、私たちにとっての学びということの意味にはなりますけれども、そうではないのだと思います。学ぶということになるとどうしても私たちは知識を身に着けて、身に着けていない時よりはマシな自分になる。そのように勉強して浄土真宗に詳しくなることと、浄土真宗の教えをいただくということは必ずしも一致しません。聞いて学んだことを積み重ねればお浄土に往ける、あるいは信心が得られるという保証は一切ないのです。逆に、自分自身の学び方、物事に対する関わり方が、こういう関わり方をしていたのでは本当に大切なものがいただけない、自分は本当に当てにならないものをよりどころにしていたということに気づく瞬間があれば、実はそこに大事な親鸞聖人の教えが輝いているのです。それが聞法するということだと思います。

ですから、話す私も、聞かれる皆さんも、実は同じです。共に聞法し、身を通して聞いていくことが大切です。聞けば聞くほど聞いていかねばならないのです。けっしてわかったとは言わせない厳しさが真宗の教えにはあります。そこに今日のテーマであります「本願」ということが関わっているのです。

「いのちの事実」に目覚める

皆さんは、何が大事ですか? 健康ですか? 「私は健康になれるなら死んでもいい」と言っている人がいました(笑)。本来、健康になるとは元気で長生きということが目標なのですが、健康の方に偏りすぎると、もう健康でなければダメなのだと言わんばかりの勢いです。いくらアンチエイジングと頑張っても、年月とともに体は弱ってきます。そういうことを少しでも延ばしていくことよりも、実は今の自分のいのちがどこから来たいのちで、どこに帰っていくのか。そこがはっきりしなければ、今の自分を本当に受け入れて喜びをもって生きていくということは難しいのではないかと思います。

親鸞という字は、「正信偈」の「天親菩薩造論説」(てんじんぼさぞうろんせ)と出てきた天親菩薩と、「本師曇鸞梁天子」(ほんじどんらんりょうてんし)と出てくるあの曇鸞大師から1文字ずついただいて親鸞と名告られた方であります。曇鸞大師は、大変優秀な仏教の研究者でしたが、体が弱く、長いこと集中して勉強することができないので、まず健康な体を手に入れ長生きできる体になってから、仏教の教えについての解説書をたくさん書こうと思われたのです。そこで仙人の元を訪ね、健康長寿の仙経(せんぎょう)を手に入れて、意気揚々と帰ってきた。そこで菩提流支(ぼだいるし)と出遇ったのです。私は健康長寿の仙経を手に入れたのだと菩提流支に自慢したところ、菩提流支は地面に唾を吐いて「あなたは間違っている」と言ったのです。自分が健康になって長生きできるようになっても、それは仏教ではないのです。

仏教が教えているのは、自分の思い通りにはならない「いのちの事実」があるのだということに目覚めることなのです。我々がそれをきちんと受け入れて、有限ないのちを与えられたいのちとして満足して生きていくことができる、そういった力をいただくのが仏教なのです。自分の思い通りにならないいのちの事実を受け止める「よりどころ」をいただいて生きていくことができるのが仏教なのです。健康長寿の仙経を手に入れて、いくらいのちを延ばしても、本当の満足は手に入りません。思い通りにいかない身の事実を生きる、ここを生きるとはどういうことなのかを頷くこと以外に本当の幸せはないのではないでしょうか。「あなたの考えは逆さまだ」と菩提流支に言われ、曇鸞はその仙経を燃やし尽くしてしまいました。「正信偈」には「常向鸞處菩薩禮(じょうこうらいしょぼさらい) 三蔵流支授浄教(さんぞうるしじゅじょうきょう) 焚焼仙経帰楽邦(ほんしょうせんぎょうきらくほう)」と語られています。そして、本当の教え・仏教に出遇っていかれたのです。

現代を生きる私たちが何を求めているのか、仏教はそれについてどういったことを問いかけているのかを、顕かにしてくださったのが親鸞聖人なのです。仏教はかなり昔の話と考えられがちですが、実は本当に大切なことをどこでいただけるのか、それは今、生きている私たちの根本問題なのです。私たちは本当に大切なことを忘れて、敢えて見ようとしないで自分の眼先の幸せばかりを追い求めているのではないでしょうか。

現代は幼稚園の頃から、ずっと競争です。最近、大学では生徒個人の名前を呼ばずに、生徒たちを数値レベルで呼ぶようになりつつあるのです。私たち大学の先生でも、数値レベルで測られて、他と比較され続けています。数値による評価、比較の中にいのちを見るけれども、本来ここに私たちのいのちの事実はありません。ごはんを食べた分だけ私たちは長生きしていると思いがちですが、いのちの事実から見たら、ごはんを食べた分だけ実は自分の死に向かって足を進めていたということでしょう。自分の死が一体いつなのかは誰にもわかりません。3歳の女の子の葬儀もあれば、107歳のおじいちゃんの葬儀もあるのです。仏教というのは、私たちの思っている思いと違う形で私たちにいのちの事実を呼びかけているものなのです。

思い通りにならないのが人生

私たちは、自分の思い通りにいきたいと思い、それが自由な生き方であり、幸せな人生であると思っています。しかし、実際のところ、どのように生きていくことが本当に幸せで、自由な生き方であるかをわかってはいないのではないでしょうか。

先日ある医療関係者が書かれた本におもしろいことが書いてありました。その方は「辞世の句」を書いてみようということを提案されています。「露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにはのことも 夢のまた夢」(豊臣秀吉)、「旅に病んで 夢は枯野を かけ回る」(松尾芭蕉)など、有名な辞世の句はあります。これを今のうちに書いてみようというのです。それは、どうやって健康に長生きするのか、その方法ばかりがもてはやされる現代社会に疑問を呈しておられるのです。いろいろな健康法が次々と紹介され、豆腐がいいとテレビで報道されると、みんなが豆腐に殺到し、食品売り場から豆腐が消えてしまうとか、バナナがいいと言えばバナナが店頭から姿を消す。ありとあらゆる健康に良いとされる健康食品の宣伝が繰り返される。どこかおかしくないかと、この方は言います。

死を遠ざけ、より生を延ばすことの前に、きちんと死を見つめようではないか。私たちは全員が間違いなく死を迎えるのであるから、自分の生き方を見つめ、どのように生きていくかを考え、その上で健康や、自由や、幸せを見つけていこうではないかと言われます。そのための一つの手段として、辞世の句を書いてみよう。私の人生とは何か、何のために生まれてきたのか。そのことと向き合ってみようという一つの提言をこの人は言っているのだと感じました。

私たちは、周りの状況に振り回されて、自分だけ出遅れたり、取り残されたりしてはたまらないという、強迫観念に取りつかれて、いつも戦々恐々としています。そのような不安と恐れから、私たちを開放しようというのが、「一切の恐懼(くく)に、ために大安を作さん」(『大無量寿経』)という法蔵菩薩の誓いの内容です。目先の楽しみではなく、不安を取り除き安らぎを与えたい。そのためには、私たち一人ひとりの不安の原因が何であるかを知らせることが大切であるというのが、法蔵菩薩の願いです。

自分が勝ち続けていかなくてはいけないとか、負けてしまうなど、我々は外から苦しみがやって来る、苦しみや不安の原因は外にあるのだ、あの人のせいだとか、世間の価値観が悪いから私が苦しいのだと考えがちですが、実は自分自身がもっている他と比べて幸せになりたい、他の人に勝っていきたいという自分の思いが自分自身を苦しめているのです。ですから、苦しみや悲しみの原因は外にあるのではなく、自分自身の考え方、自分の物差しが自分自身を苦しめているのです。苦しみの根源は、外ではなく、自分にあるということを知らせてくださるのが、阿弥陀如来の本願なのです。私たちは、年がら年中、勝手な願いを起こしています。しかしその願いは、状況の中で起こす願いです。病気の時は病気さえ治ればと願い、受験の時は、合格さえすればと願う。その願いが叶えば、満足するのかというと、ちゃんと次の願いを起こしている。どこまで行っても終わりがないのです。ですから、自分の欲が満たされた先に自分の幸せがあるという思いで生きていると、それには終わりがありません。私も3年前、肋骨を折ってしまったのですが、その時はあまりの苦しさにこの苦しみさえなくなれば私は充分だと思いましたが、治ってしまった今となってはあれが欲しい、これが欲しいと平気で言っています。欲望にきりはないのです。こんな調子ですから、自分の体が間に合わなくなってくると「こんなはずではなかったのだ」と不満のままで、いのち終わっていかなくてはならなくなります。

外に向かって何かを求め、手に入れた先に幸せがあるのではなくて、自分のものの考え方や価値観を破ってくださる、我々の思いから解き放ってくださる願い、それが阿弥陀如来(仏)の「本願」なのです。真宗の教えを聞くことは、少しはマシな人間になるということではなくて、自分自身が何に縛られているのかを私たちに教えてくださる、その思いの呪縛から私たちを解き放ってくださるものとの出遇いなのです。本願は目に見えないものです。どこでわかるのかというと、自分が自分の思いによって自分を苦しめられていたのだと気がつけた時に、そのはたらきを親鸞聖人は阿弥陀如来の「本願」と呼んだのです。自分自身のいのちの意味に出遇えた時に、そのはたらきを感じていくことが阿弥陀如来と出遇うということなのです。

すでに救われているところから始まる仏教

さきほど申しましたように、「本願」とは、阿弥陀如来の願いのことをいいます。親鸞聖人は因と果ということで阿弥陀如来のことを表現されています。阿弥陀如来とは、仏となられた時の名前です。阿弥陀如来(仏)になる前、つまり、仏さまになるために修行していた時は法蔵菩薩という名前でした。法蔵菩薩は「正信偈」に「法蔵菩薩因位時 覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪」とあるように、法蔵菩薩が因の位にあられた時に、いったい人間は何のために苦しみ、何に縛られているのかということをまず徹底して見られたのです。そして、何とか人間の苦しみや縛りから解放させたいという願いを起こし、すべての人間がその願いによって解放された時に阿弥陀仏となられたのです。

「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」という和讃を現代語にしますと、「弥陀が成仏されてから、すでに十劫という長い時間が経っています。弥陀仏の光は暗き世を照らし、それによってすでに人々は救われているのです」と語られています。私たちはこれから仏教の教えを学んで救われていきたいと思っているけれども、実は親鸞聖人が私たちに教えてくださっている浄土真宗の教えは、もう私たちは救われているのだというところから始まっている仏教なのです。つまり、阿弥陀如来の救いの手の中に私たちはいるのだと。そこから親鸞聖人はスタートしているのです。

ほとんどの宗教は、こうすれば苦しみから解放されます、こうすると痛みがなくなります、こうすると奇跡が起きますというようにこれからのこと、これから自分がどうなるかという結果を求める仏教であります。私たちがある一定の結果を得るための手段として宗教があるのだと考えています。私たちの中に努力して結果を求めていくという、そういった思考方法で親鸞聖人の教えを聞くとわからないものなのです。浄土真宗は難しいと言われる所以です。私たちは、自分の思い通りに生きていくことが幸せだということを信じて疑っていないので、現に仏さまのいのちをいただいて今、生きているのだということになかなか気づけないのです。

私のお寺は石川県金沢市ですが、隣の福井県には永平寺という禅宗のお寺があります。朝早くトイレ掃除からはじめて夕方まで全部修行して、質素なものだけ食べて生活しています。頭の毛はきちんと剃ってあって、滝に打たれたり、座禅を組んだり、自分がもっているさまざまな煩悩・欲望をどうやって離れることができるかということが仏教の目的だと一般的に思われています。自分にはできないけど偉いお坊さんたちはそのために修行をしているんだと、その結果としてさとりが得られるのだというふうな枠組みで考えていくと、浄土真宗という宗派はその枠組みに入らないのです。浄土真宗のお寺の僧侶は、頭の毛は伸ばし、肉食をし、皆さんと同じように在家生活をしています。浄土真宗は、念仏一つで救われるわけですから、一般的イメージや枠組みには入らないのです。

親鸞聖人は「今はじめて仏教の教えを聞いた人が何の意味もわからずに称えたお念仏も、私親鸞が称えている念仏も、念仏に何も違いはありません」と言われます。私たちはどうしても親鸞聖人の念仏は本物の念仏で、私たちが称える念仏は偽物の念仏だと思いがちですが、親鸞聖人は念仏は平等なのだ、同じなのだというのです。一番単純で修行しないでいいと言われるけれども、念仏一つということの方が遥かにわかりにくいのです。まだ、いっぱい修行していけばやがてさとりにたどり着けるという方が我々とはしては理解しやすいのです。それを子供の時に言われたので、うちのお寺がいったい何のためにあるのかという問題をずっと抱えながら、私は大谷大学に入学しました。入学してすぐに私が来るべき大学ではないと思い、親に内緒で退学届を書いて旅に出ました。何故か北を目指して行って、駅で寝泊まりしながら青森までたどり着き、青函連絡船に乗る手前のところで、補導され親元へ強制送還されました。実はその中でいろんな方々に出遇いました。ホームレスの人にもたくさん出遇いました。その中にはキリスト者の方がいらっしゃって、話し合っているうちに「せっかくお寺に生まれたのだから、本当にどういうことが仏教とか真宗と言われているのかをちゃんと学んで、それでもやはり自分には意味がなかったと思ったら辞めればいい。けれども、せっかくお寺に生まれて、はじめから食わず嫌いで辞めるのはもったいないと思うよ」と言ってくださいました。現在はどういったご縁なのか、大谷大学に勤務しながら、このように親鸞聖人のお話をしています。

親鸞聖人の教えは救われているというところから始まっていることが難しい。これから救われるのではなくて、すでに救われているところからスタートする教えだというのが、他の宗教と大きな違いです。救いの中に私たちはいるのだけれども、そのことに気づかずに自分の思いを立てて仏教を聞いているから仏教がわからないのです。むしろ救われているというところから始まって、本当にどんな状況になってもいつでも問いかけてくださっている願いがあるということに気づき、そこに目覚めていくという教えが浄土真宗です。

「いのちの事実」に気づかされる時

今から20年ほど前ですが、毎日新聞に「言わせてもらおう」というコーナーがあって、自分自身が思ったり、生活の中で感じたりしたことを読者の方が投稿する欄があって、その中に「舅も姑も今日も元気」というおもしろい記事がありました。「私が嫁いだ家では、お舅さんとお姑さんが二人元気でいつも仲よく遊びに出かけます。その日も、今日も二人仲よく出かけていったのですが、今日に限っていつもより早く帰ってきたのです。いつもはにこやかに帰ってくるのに、その日はしょんぼりした顔で帰ってきたので「何かあったのですか」と聞いたら、どうやらお二人は葬式の時に使う遺影を撮影しに行ったらしいのです。「そこで何かあったのですか」と聞いたら、「いや特に何かあったわけではないのだけれども、写真を撮り終わった時に写真屋さんが『この写真はお急ぎですかって』と私たちに言ったんだ」

別に写真屋さんはそろそろお葬式が近いのですかという意味で言ったのではなく、通常仕上げでいいのか、それとも急いで仕上げなくてはいけないのか、どちらの仕様でやりますかということを聞いただけなのですが、写真屋さんの一言で、私たちも死ぬんだということが目の前に迫って来たのです。それで、何となくその後遊びに行く元気がなくなって今日は家に戻って来てしまったのです。

つまり、私たちは死ということがいつか自分の身の上に訪れるということが当然頭では判っているけれども、実際にそのことを遠くに置いてものを見るようにしています。自分の死を遠くに見ることにおいて私たちは自分の幸せを健康に見たり、自分自身のいのちであると見たりしています。それは私たちが自分のいのちを私有化していることなのです。

自分の思いの間に合わないところにいのちの事実があるということは、さんざん周りの人が死んで見せてくださっていて、お前もこうなるのだぞと教えてくださっているのにもかかわらず、自分だけはそうはなりたくない、そうならないのだというようにタカをくくって私たちは生きています。私たちの中に、自分を立ててものを見ている私たちがいて、その見方をすることが当たり前になっています。その見方でしかものを見ませんから、良いとか悪いとか、損したとか得したとか、全部自分の見方で決めているのです。そういった見方でもって仏教をいくら聞いてもちっともわからないものです。実は、そういう見方は何を基準にしているのかということを仏教は問いかけているのです。

私たち人間は、生まれた時にはみなオギャーと生まれて来ます。その後しばらくすると言葉を覚えて最初にマンマ(食べ物)の名を覚えるのだそうです。自分が生きていく上には食べ物をいただかないと生きていけないということを本能的に知っているので、泣いてみせて、お乳をねだるのでしょう。そのうち、自分がお腹空いているということを伝えないといけないので、その食べ物を与えてくださる人の名前ママという名前を覚えていくわけです。その次には、自分を大事にしてくださっている周りのおじいちゃん、おばあちゃん、お父さんの名前を覚えていくのです。そして最後に自分の名前を覚えるのだそうです。だから、私という存在に気づいたのは、ずいぶん後のことなのです。にもかかわらず、ここにいる全員が「私は」でしかないのではありませんか。自分はこう思う、私はこうしていると、いつの間にか自分が自分の人生の主役のようなつもりになっているけれども、そもそも与えられたいのち自身は、私の思いの中にあったものではなくて、たまたま奇跡に近いような確率で、ここに今、私たちのいのちがあるのです。ところが、私のいのちだというようにだんだん思い始めてみると、その私の思い通りに行けば良い人生だし、思い通りに行かなければ、こんなつまらん人生というようになるわけです。仏さまの本願というのは私のいのちだというふうに自分でいのち自身を私有化したり、自分のものだというふうに囚われたりしている、その思いに破れるところから、私たちは自分のいのちの事実に気づいていくのです。その大きな出遇いのチャンスが、自分にとって思い通りにいかない出来事が起こった時です。自分の体が自分の思い通りにいかないところに自分のいのちの事実があるのだということに気づけるチャンスなのです。

死がいずれ訪れるということを私たちは知っているので、そのための準備はたくさんしますが、一番肝心要の、私たちは死んだらどこへ行くのか、どこから来てどこへ帰って行くのか、それがはっきりしないから、今自分がどういういのちを生きているのかということがわらないのです。

親鸞聖人は「人間は、この肉体のいのちが終わったらお浄土に還ってゆくのです」と、はっきりとおっしゃいました。「師である法然上人は、私親鸞に阿弥陀如来の教えを説くために、私の前に現れてくださった」とも言われています。この娑婆に肉体としてのいのちをもって生まれて来た以上、いつか必ず死は訪れます。そして今、まさに法然上人に死が訪れ法然上人はお浄土に還っていかれましたという和讃を親鸞聖人は作っておられます。そういう和讃を作ったということは、自分自身が帰るべき先も浄土であるということがはっきりいただいていたということでしょう。

浄土というとどこかにある、実体的な空間だと思うから、仏法を聞いて、善いことを積み重ねて浄土へ往こうといったように仏法を聞くということを自分自身の手段にしているわけです。浄土真宗は、目的のための手段としてある教えではなくて、すでに私は仏さまのいのちの中にあり、仏さまの国からこのいのちをいただいて、仏さまの国に還るべきいのちを生きているのです。つまり、私たちがここにいるということは、仏さまのお仕事をしているのです。

小林真央さんが先日亡くなりました。ガンという思いがけないことに出遇って、そこから先、真央さんが感じたこと、考えたことがフェイスブックに書かれてありました。最近アメリカの有名な大学の中で、これから保存しておくべき大事な電子遺産として、それは保存されたという記事が新聞に出ていました。小林麻央さんは熱心な仏教徒ではありませんが、自分の死ということと向き合った人の言葉には重さがあると思いました。自分の死を遠くに見て避けるようにして生きている人の言葉ではなくて、死をちゃんと受け止めた人、受け止めざるを得ない状況で、自分の生き方とかいのちを考えた人の言葉にはやはり重みがあります。時々何で私だけがこんな目に合わなくちゃいけないのかという言葉も出てきます。市川海老蔵の妻として梨園に嫁がれて、女の子と男の子、2人の子供を授かって、この子たちの親としてこれからどういうふうに育てていこうかと考えていた。けれども、事実は一切それが間に合わないのです。この子たちが成長していって成人するまで自分がこの場にいることができないということが、はっきりとわかった中で、今、自分にできることは何なのかを考えていました。私たちは、死を避けるというところから始まりますけれども、実は、私たちのいのちの事実は仏さまの願いの中にすでにあって、そういったところから浄土真宗はスタートしているのです。その点を皆さんお一人お一人が考えていただきたいと思います。

「本願」というものがどこかにあって、これから救われていくのだというように考えるのではなく、もうすでに私たちは仏さまの救いの中にいるのだけれども、実はその救いが見い出せないのです。自分に都合のいい救いを探している自分がいる、そこで迷走しているのだということに気づかせてくださるはたらきを「本願」と呼ぶのです。私はラジオや携帯の電波と同じだと思っています。本願も電波も目に見えません。携帯電話が鳴ったということはここに携帯電話の電波があるということです。仏さまの本願があって私たちがすでに救われている。何故そのことが証明されるのかというと、携帯電話が鳴るということにおいて、ここに電波があるということを証明されるように、私たちが自分自身のいのちの事実に目覚めて南無阿弥陀仏と念仏申す、仏さまのいのちをよりどころにするという、そういった時にそこに仏さまの本願がはたらいていたということが証明されるわけです。親鸞聖人にとっては法然上人という直接の先生、そして天親菩薩や曇鸞大師、さらに遡ればお釈迦さまという方がいたから、その人の教えを通して「本願」に出遇えたのです。

尊いいのちであることに私たち自身なかなか気づきません。それは自分のいのちであると思っているからです。そこで、本願によって自分の思いから解き放され、自分のいのちの尊さに気づくことができた。これが本願に出遇えたということなのです。

これから修行して救われていこうと親鸞聖人も20年間も頑張られたのです。頑張った先に救いがあるのではなくて、すでに私のいのちそのものが仏さまの本願によって願われていた、尊いいのちであったということに気づかない自分でいたのです。それは自分のいのちであると思っていたからなのです。その思いから解放され自分のいのちの尊さに気づくことができたのです。本願に出遇えたということと、自分自身が何に縛られていたかということに気づかされることとは、同じことであり、同時に起こることなのです。何だか知らんけど助けていただいた、そういった抽象的な話ではないのです。また次回よろしくお願いいたします。本日は、ご清聴いただきありがとうございました。

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