墓標を思う
広島の大学に縁をいただき、この4月からそのキャンパスのある庄原という町に暮らしている。
庄原市は広島県の北東部に位置し、東を岡山県、北を島根・鳥取の両県に接している。現在の市域は、いわゆる「平成の大合併」で周囲の6町とともに成立したもので、その面積は西日本最大となっているが、もともとの庄原は、中国山地のほぼ中央に位置する盆地に開けた小さな町であった。
しかし、その歴史は古く、「たたら」と呼ばれる製鉄が盛んになったことから、古代よりその流通の拠点として栄えたという。古いばかりでなく、明治期には農業や畜産業の改良が進められ、また良質の木材と木炭とを商うことによって大きく発展した。
さらにこの町において特徴的なことは、地元の篤志家によって早くから学校や病院が開かれたことである。中でも、明治17年に「英学校」が開かれたことは特筆される。
ただ、現在のこの町に往時の賑わいはまったくない。娯楽のない町に暮らす者は、時間があれば歩くことになる。私もその一人となった。
歩いてみてまず気づいたのは、墓の目立つことであった。寺院の管理下にないと思われる集落単位の墓所があちこちに見受けられる。民家と民家の間、稲田の中、鉄道の踏切の脇と、さまざまの場所にそれはある。高速バスで移動する折り、車道からしかおまいりに行かれないような場所にまであるのを見つけ、ひどく驚いたりもした。
ご承知の通り、広島は真宗の盛んな土地である。墓標には「南無阿弥陀仏」とか「倶会一処」と刻まれているのが普通のようだ。ただ、その中に一つ、「廣大會處(以下、広大会処)」という見慣れない文字を見つけたのは、この町に住み始めて間もない頃のことだった。
寡聞にして知らないというのはいささか陳腐な言い方ではあるが、私の知らないこの4文字がずっと頭を離れずにいた。ここで与えられた最初の宿題とも思っていたのだが、あれこれ考えるうちにようやくひとつのことに思い当たった。
最初、私は「広大会処」を「広大」と「会処」の2つに分けて考えていた。「広大な会処」とか、「会処は広大である」という考え方だ。しかし、それではなかなかお聖教のことばにたずね当たらない。そこで、分け方そのものを変えてみることにした。つまり「広大会」と「処」とに分けるのである。
親鸞聖人の『浄土和讃』には次のようにある(『真宗聖典』480頁)。
一四
弥陀初会の聖衆は
算数のおよぶことぞなき
浄土をねがわんひとはみな
広大会を帰命せよ
その意とするところをなぞれば、「弥陀の初めての説法の座に集まった聖者たちは、とても数えつくすことができない。浄土に生まれることを願う人はみな、『広大会』に帰命すべきだ」ということになろうか。
では「広大会」とは何だろう。『真宗聖典』を数ページ遡ると、曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』がある(『真宗聖典』478頁)。曇鸞大師はこの中でさまざまのことばを用いて阿弥陀仏を讃えているが、そのひとつが「広大会」である。つまり「広大会」とは、無数の聖者が集う弥陀の法座を意味し、同時に、聖者たちがその許に集わずにはいられない弥陀の存在そのものをも意味することばなのである。
とすれば、「広大会処」とは「阿弥陀さまのおわすところ」ということになるのであろう。弥陀の懐に眠る名も知らぬ先達のことが、急に親しく思われてきたことだった。