あなかしこ 第63号

法話

テーマ 合掌、人として生きる ─お互いが認め合う世界の発見─
講師 堀田護先生 岡崎教区第七組本宗寺住職・全国准堂衆会事務局長

2016年9月14日(水) 於:常福寺

手を合わせるということが忘れ去られている時代

  • 堀田護先生

恵まれて生きる命の尊さよ
名もなき草に光こぼるる
なまんだぶつ、なまんだぶつ

ただいま紹介を頂きました堀田と申します。今年の6月22日に蓮光寺さんでの寺族研修会にお邪魔させていただきましたが、法話の最後に少しばかり「合掌」ということについてお話をさせていただきました。その「合掌」のお話をした時に、参加なさった方々の顔を見ていましたら、とても反応なさっておられたというようなことがあったものですから、その事についてもう少し自分なりに話がしてみたいなということで「合掌、人として生きる ―お互いが認め合う世界の発見―」という講題を付けさせていただいたことです。

お互いが認め合う世界の発見ということを念頭に置きながら「人として生きる」ということ皆さんといっしょに頂いていければと思います。

さて、数年前の話になります。地元の小学校の5年生の児童35名が私のお寺に来ました。お寺にはどんな仏さまが安置されておるのかということを一度調べたいということでした。なかなかお寺の中に子供さんが座ってくださるということが少ないものですから、大変ありがたいことだと喜んでお迎え致しました。

その時に、子供さんたちに向かって、せっかく皆さんがこうして仏さんの前に座ってくださったんですから、仏さまのことを随時お話しする前に、皆さんで一緒に今から仏さまに合掌しましょうと、私が大きな声で号令をかけたんです。それまで神妙な顔をして座っておった子供たちが急に騒ぎ始めたんです。何を騒いでいるのかと思って見たら「おい、今あのお寺の坊さんが、仏さまに向かってみんなで合唱しましょうと言ったけれど、どんな歌を歌うのかな」と言うんです(笑)。子供さんたちは「ガッショウ」というとですね、みんなで歌を歌うことというふうに思うんですね。

「いや、そうじゃないんです」と、「今日は仏さまの前で合掌と言ったらね、お互いの手を合わせる、みんなでいっしょに仏さまに向かって手を合わせることを合掌というんですよ。みなさん方、知らないですか?」と聞いたんです。そしたら子供の方から元気に返事が返ってきました。「知らん」て言うんです。元気に知らないって言うんです。「仏さまの前で手を合わせるということは、知らないかもしれないけど、手を合わせるという姿、お家でお父さんお母さん、お爺ちゃんお婆ちゃんが食事をしたりする時に、いただきます、ごちそうさま、手を合わせるんじゃないんですか?」と子供さんたちにこう問いかけましたら、子供さんたちが隣の子に「お前さんのところはどうだ、お前さんのところは?」とお互いに聞き合って、ざわついてきたものですから「ちょっと静かにしてください、ならば私の方から皆さんにお聞きします、聞いたことで手を上げてください。あなたたちの家のお父さんお母さん、お爺ちゃんお婆ちゃん、食事をなさるときに、食事の終わった後、手を合わせるという姿見たことのない、お父さんお母さん、お爺ちゃんお婆ちゃんが手を合わせるということをしたことがないお家の子供さん、手を上げてください」と、聞いたんです。そしたら、35名の子が満場一致で「ハイ」って手を上げるんです。ということは、今、子供さんたちは、子供さんたちを取り巻いている環境は、手を合わせるということも知らないんです。あるいは自分の周りの人たちが手を合わせるという姿を今の子供さんたちは見たことがないんです。そういう子供さんが非常に増えてきているんです。

こう考えてみると、街の食堂で食事をしていても、食事の前後に手を合わせるという、そういう姿というものをほとんど見かけないようになってきました。ということになってくると、私たちを取り巻いておる環境は、手を合わせるという、そういう姿がだんだん失ってきているんです。それが今の子供さんたちの姿。その手を合わせるということを知らない子供たち、教えられない子供たち。また自分の身近なところで手を合わせておるという姿を見たことのない子供たちが、やがて大人となり、親となっていくのです。それによって生まれてきた社会をむごい社会というんです。

いのちの尊さが見えない社会

むごい社会というのは、いのちを粗末に扱う社会。今、私たちの取り巻いている環境は、まさしくいのちを粗末に扱っていく社会。いのちを粗末に扱うということは、言葉を裏返しで言うと、いのちの尊さが見えてこないということです。本来、人間はいのちの尊さに目覚めるはたらきを持っているんです。犬や猫は、いのちの尊さに目覚めるはたらきはないんです。その代わり、犬や猫、人間以外の生きものは、己れの死に対する感覚は鋭いんです。己れの死に対する感覚は、人間以外の生きものは非常に鋭いんです。どちらかというと、人間が自分の死に対する感覚は一番鈍感だと、こう言っても差し支えないと思います。

いかに動物が己の死に鋭いかというときに話題に出るのが象という生きものですね。あのアフリカに生息するあの象は、普段は集団で生活しておる。群れで生活しているんです。群れで生活しておる象は、自分のいのちがもう終わりに近づいていると感ずると、気が付かれないように、すっと群れから離れるのだそうです。離れてどうするかといったら、その象は自分の前に亡くなった象の墓場まで歩いて行って、そこで息絶えるんだそうです。それが象の習性なんだそうです。だから、象というのは自分のいのちがもうそんな長くないと思ったら、他の象に気付かれないようにすっと離れるんだそうです。自分の前に亡くなった象のところまでたどり着いて、息絶えるんだそうです。

私たちの身近で飼っている猫でも、そうでしょ。今の猫は私たちが飼いやすいようにしちゃったのですが、本来、猫はですね、自分の死が近づいてくると、他の者に自分の死という姿を決して見せないところでこと絶えるんだそうです。これが猫なんだそうです。猫というのは自分の死が感じられてくると、自分の死という姿を他の者に見せない、気が付かないところで静かに息を引き取っていくんだそうです。かように他の生きものは、そういう感覚は非常に鋭いんです。

それに対して人間というのは、なかなかそうはいかん。私のいのちは、あとどれくらいだなんてばかり考えているんです。どちらかというと、一番鈍感なんです。しかし、その代わり人間はいのちの尊さに目覚めるはたらきを持っているんです。どうして持っているのか。それは人間には智慧と慈悲があるからです。犬や猫には智慧と慈悲のはたらきがないんです。人間は智慧と慈悲のはたらきを持っているんです。だから、智慧と慈悲のはたらきが、いのちの尊さを目覚めさせるはたらきなんです。人間はみんな持っておるんです。しかし、問題は一体何かといったら、この智慧と慈悲というはたらきは、自分が自分で育てたり、自分がそれを引き出すことは出来ないんです。人間誰もが、そういうはたらきを持っていながら、自分が自分にその持っておる智慧と慈悲のはたらきを自らが育て上げることはできないんです。では、どうするのか。智慧と慈悲のはたらきを持っておる人に自分自身の持ち合わせている智慧と慈悲のはたらきを育ててもらうんです。それしかないのです。

智慧と慈悲の光がはたらくとき

ちょっと話は変わりますが、内陣のお飾りを見てほしいのですが、前卓の上に鶴亀の燭台が置いてあって、真ん中に透かしの土香炉が、左側に花が置いてあります。これは「正信偈」を読んでいくと「清浄歓喜智慧光」という言葉が出てくるんです。「清浄」というのが香炉、「歓喜」というのがお花、「智慧光」というのは蝋燭の明かりということです。蝋燭の明かりも、今はお勤めしてないものですから、木の蝋燭、木蝋が立っているんです。お勤めが始まると、蝋燭が点火されます。だけど、お勤めが始まる時に鶴亀の燭台の上に蝋燭があがると、蝋燭の光とは言わないのです。智慧光と言うんです。ですから、仏さまのところにですね、お勤めが始まる時に蝋燭が全部点火されると智慧光って言うのです。それは、教えに出遇うということです。私たちはその前に座るということは、仏さまから何かを私たちは育ててもらうんです。引き出してもらうんです。これを智慧光というのです。だから、智慧の光に私たちは照らされて、智慧の光に私たちが、私たちの中で持ち合わせているいろんなものが引き出されてくるんです。私たちはみんな智慧と慈悲の心を、私たちは智慧と慈悲のはたらきを持っているんです。持っているけど、私たちはそれを育てることはできないんです。どうしたらいいのか。先ほど言ったように、智慧と慈悲のはたらきを持ち備えた方に点火してもらうしかないんです。

「お婆ちゃん、きのうまで元気だったあの金魚鉢の金魚が亡くなったよ」とお孫さんがお婆ちゃんにこう告げたときに、それを聞いたお婆ちゃんが、そうか、きのうまで元気だった金魚さん亡くなったのか、あの金魚さんにはずいぶん楽しませてもらったね。その金魚さんが亡くなったのか、かわいそうだったな。楽しませてもらったから、あの金魚さんにお礼を言おうよ。金魚さん今までありがとうね。その死んだ金魚さんを穴を掘っていっしょにに埋めてやろう」とお孫さんにこう言って、亡くなった水槽の金魚を自分の家の庭に穴を掘って埋めて「金魚さん、今まで楽しませてくれてありがとうね、お世話になりました」と手を合わせてナンマンダブツ。そのお婆ちゃんの何気ない仕草、そのお婆ちゃんの行動が、お孫さんの心の中の智慧と慈悲の心が点火されてくるんです。何気ないそのお婆ちゃんのひと言、そのお婆ちゃんの仕草が子供さんの中に持ち合わせている智慧と慈悲の光がはたらいてくるんです。はたらきかけてくるんです。

「お母ちゃん、きのうまで元気だった金魚が死んじゃったよ」「ああ、金魚、死んだか、ちょうどいい、今から生ゴミ放し行くで、こん中ついでに入れておきや」─そういうお母さんに育てられたお子さんの心の中には、智慧と慈悲の心は点火されないのです。今、そういう人が増えてきているのです。だから、子供さんの心の中に智慧と慈悲の光を点火してくださる、役割を担ってくださる方々が私たちの周りから、だんだんいなくなってきているんです。だから、むごい社会になってきているのです。智慧と慈悲の光を私たちのところに点火させていく。「ありがとうね、お世話になったね」そういうときに自然に手が合わさってくるんです。そういう手を合わせるという姿を通して、そこに添える言葉を通して、智慧と慈悲の心が点火されてくるんです。その点火してくださる、その役割が社会からだんだん失われてきているんです。合掌を知らない子供さんたち、周りの者が合掌する姿を見たことのない子供さんたちが増えているのです。私たちが手を合わせるということに対して共通しておることは、私たちは仏さまに向かって手を合わせるのです。仏さまに向かって手を合わせるということは、合わされた仏さまの願いが私たちの手を合わせる姿の中に含まれておるんです。

「今、あなたたちは仏の私に手を合わせてくださったけれども、その合わせてくださった、その姿を仏以外のものにも手を合わしてくれるような、そういう生き方を身に付けてください、お願いします」と。「あなたは仏以外のものにも手が合わさっていくような、そういう生き方があなたの中にちゃんと備わっていますか」─それが仏さまの願いとして手を合わせるという姿の中に示されているんです。

真宗の教えに適った合掌の仕方

手の合わせ方はひとつではなく、お経さんの中には12通り示されているんです。

日本仏教は十三宗旨と言って、13の宗旨があるのです。浄土真宗のほかに、天台宗、真言宗、曹洞宗、臨済宗、日蓮宗、浄土宗、こういう宗旨が13あるのです。その13の宗旨の中に、それぞれの枝葉があるのです。真宗系でいうと、真宗には十派あるです。大谷派から独立して東京に東本願寺派というのが認証されていますから、真宗連合としてはお付き合いはしていませんが、親鸞聖人の教えをいただいた派としては一応登録されているのです。

昔は十三宗旨七十五派と言ったのです。七十五派あったのです。現在は東本願寺派というのが含まれていますから十三宗旨七十六派というのです。だから派が76あるということです。それぞれの宗旨宗派は、12通りある合掌の仕方の中からそれぞれの宗旨の教えに基づいた合掌の仕方を選び取り、それぞれの宗旨の合掌として定めているのです。これは前回の蓮光寺さんで、少しお話し申し上げたのです。

私たちの宗派はご承知のように、阿弥陀の本願を信じ念仏申して浄土へ往生する。これが私たちの宗派の教えの要。念仏申して浄土へ往生するという合掌の仕方がですね、12通りある中の1番目の「堅実心合掌」という合掌の仕方が、念仏申して浄土へ往生するという教えに敵った合掌の仕方だということから、私たちの宗派は「堅実心合掌」という合掌の仕方を、私たちは現在行っているのです。

この合掌の仕方をしましょうと一番最初におっしゃったのは、本願寺の8代目の蓮如上人です。蓮如上人までは天台系の一つの宗旨に過ぎなかったということです。それではっきりと親鸞聖人の教えというものを表に出してくださったお方が蓮如上人でした。蓮如上人さんは自分の子供、身近な方々に、浄土真宗の合掌の仕方は「堅実心合掌」という合掌の仕方を選び取りますよ、これからはそういう合掌の仕方をしてくださいと決められたのです。その蓮如上人が示された合掌の仕方、それを6月22日に、参加してくださった方と一緒に実技をやったのです。前回不参加の方もおるかと思うのでもう一遍やってみましょう。

蓮如上人がおっしゃったのは、親指以外の指はみんなくっつけなさいというのです。くっつけたら右の手と左の手を合わせなさいと書いておられます。合わせる時はピタッとくっつけちゃあかんですよ。ピタッとくっつけると人間、安心しちゃうのです。離れておると気持ちが散漫になっちゃうのです。どうするかと言うたら、和紙が一枚通るか通らないか程度に空けなさいと書いてあるのです。そんなことわからんもんですから、両方の皮膚が触れているという感じですかね。ピタッとじゃなくて両方の皮膚が触れとるなぁと思うぐらいで両方の手を合わせてるんです。そのあと大事なのは一体何かといったら、合わせた両方の手に数珠をかけている。『御文』さんの中にもですね、蓮如上人は数珠という言葉を使ってますから、私は正確に言うと念珠というより数珠と言うのが正確な言い方でしょうね。

この数珠を手にかけて、その次が大事なんです。念仏申す時は、この離れておった親指が数珠を触りなさいと書いてある。親指を離したままは駄目なんです。念仏申す時に親指と数珠が離れたまま南無阿弥陀仏と念仏称えてはいけないということです。念仏申す時は必ず親指が数珠を触るのです。これを蓮如さんは「仏凡(仏さまと凡夫)一体の南無阿弥陀仏」─私と仏さんが一つになった姿。私と仏さんが一つになった姿をそこで表現するのです。それと同時に、南無阿弥陀仏というお念仏を手の合掌の姿で表現するのです。だから南無の私と阿弥陀の仏、阿弥陀は数珠、その阿弥陀が離れたら、南無と阿弥陀がバラバラということです。仏凡一体、一つということです。だから南無阿弥陀仏は、仏と凡が離れちゃ駄目ですよということです。一つということです。これを仏凡一体の南無阿弥陀仏という。だから南無阿弥陀仏ということを私の手の上で表現するのです。合掌の姿で表現するのです。

円融至徳(えんゆうしとく)の嘉号(かごう)

全部合わせるとどうなるかというと、全部くっつくということです。円を描く。親鸞聖人のお言葉をいただくと「円融至徳の嘉号」です。嘉号というのは南無阿弥陀仏、念仏。至徳と言ったらこの上ない。お念仏はこの上ないということです。なぜかといったら円融だからです。円融と言ったら円満融合。どんな者とでも円満解決できる。外で、色々な所でね、人と人との関係がギクシャクするというのは、お互いが拝み合わないからです。拝み合わないからギクシャクするのです。どんな者とでもお互いが拝み合っていくと、これ円満。融合とは溶け合うということです。だからどんな者とでも円満に溶け合ってる、それが南無阿弥陀仏。どんな者とでも円満に溶け合っていける、それを浄土というのです。

全ての者が溶けあっていく世界、これを浄土という。それが手を合わせている姿です。その姿が「拝む手が尖(とが)る世間の角をとる」ということ。言わば、尖るということはお互いがぶつかる。その角がとれていく。どんな者とでも円満融合していけるんです。南無阿弥陀仏とはね。念仏申して浄土へ往生するということです。

今年はたいへん暑い日が続きましたね。私、ご門徒の家へお参りに行ったりすると、必ず挨拶の言葉で「お婆ちゃん、今日も暑くなったね」って言いながら入っていくんです。そうすると迎えてくださったお婆ちゃんも「ほんとに暑くなりましたね」と言うんですね。暑いと言ったら暑いと返ってくるのが挨拶なんです。だけれども必ずですね「暑くなりましたね」と言うと、向こうも「暑くなりました」というけれど、必ず余分な言葉が付いてくるんです。「お婆ちゃん暑くなったね」「ほんとだね、ご縁さん(住職さん)何で朝からこんなくそ暑いだらか」と言うんです。聞いているとたいがい文句や愚痴ばっかりです。誰か一人ぐらい「今日暑くなりましたね」「ほんとだね、朝から汗かいて有り難いね。気温見てみたら35度だげな有難いね」なんて言うかと思ったら誰も言わないのです。みんな愚痴を言うんです。「何でこんな暑い日が続くだらか」というんです。なぜ暑さに向かって私たちは文句や愚痴が出るのですか。暑さを拝まないからです。暑さに手が合わさっていかないからです。暑さに手が合わさっていくなら円満融合。お念仏が出てくるならば、暑さに向かってお念仏が出るならば円満融合、円満に溶け合っていけるんです。だから私たちはお念仏がでないものですから、手が合わさんないものですから、暑さに向かって文句や愚痴をこぼしているんです。

地元のあるお寺にお参りに行きました時にですね、そのお寺の本堂を借りてお葬式を勤めたのです。8月のお盆ちょっと過ぎでした。たいへん暑い日でした。お葬式を勤めている最中に汗びっしょりかいて、たまらんなあと思いながらお葬式をして、「何で死んだ人をドライアイスで冷やしといて、わしらこんな暑い思いして葬式を勤めなきゃならんのか」とつい思ってしまったわけです。そしたらそこのご住職が最大の皮肉を掲示板に書いておられて、その掲示板見て頭を叩かれたのです。「暑くとも暑い我が身を喜べよ、冷たくなりし人を思えば」と書いてあった。

暑さに向かって文句を言っとるけど、いのちをいただいたお陰で出遇えた今日の暑さじゃないかと。死んじゃったら暑いことにも文句言えんのだぞと。今日ここにいのちあるお陰で、出遇わさせてもらった暑さじゃないか。死んでしまったら、今日の暑さにも口も文句言えんし、汗もかけんかったんだぞ。そのことがお前のところには頷けられないのかと。南無阿弥陀仏に出遇わせていただいてみれば、そうだったな、いのちをいただいているお陰で出遇わさせていただいた暑さだな。暑さに向かってお念仏が出てくると、暑さの中に与えられたいのち、そのことが発見されてくるのです。「暑くとも暑い我が身を喜べよ、冷たくなりし人を思えば」と。だから暑さでも何でも円満融合していけるのです。手が合わさってくるのです。これを浄土の生活というのです。

互いに拝み合う世界を浄土という

金子先生の言葉を思い出しました。「浄土とは、どんなご縁の中を生きていても、善意に解釈する生活が発見される」のです。金子先生は、五十数年前ですね、京都の大谷大学で講義の時にこう教えてくださいました。「浄土とは、どんなご縁の中を生きていても、善意に解釈する」─。このご縁の中を生きてきて良かったなと。今日の暑さの中で生きとって良かったなと。それが私たちのところにいただけますよ。それが、手を合わせるという姿を通して、私たちが受け止めていけるのです。それを私たちが手を合わせお念仏申す、その姿のところにです。だから南無阿弥陀仏とお念仏申すときには、数珠に親指が触れて全部円を描くということです。「拝む手に尖る世間の角」がとれてくるのです。そういう言い方ができるのです。

しかも今度は、その合わせた両方の手の位置はどこへ持ってったらいいかと。蓮如さんは自分の子供さんたちに、袈裟の結び目とおっしゃっていますから、皆さんでいったら鳩尾(みぞおち)あたりということです。鳩尾あたりに合わせた手を持ってきてですね、くっつけると窮屈、肩に力が入るし、これ離すとぎこちないものですから、拳骨(げんこつ)一つ入るぐらいの空間を空けなさいと書いてある。拳骨一つ入る空間をつくり、合わせた両方の手の角度は、今の言葉でいうと45度ぐらいにしなさいと。そうすると、その方が拝んでおるその姿を見ると、肩の力が非常に抜けた姿。体の上の表面にゴツゴツした姿がそこに自然に抜けてきますよということです。それが柔、体の柔、柔らかさが表現されるのです。人間の最も体の柔らかさが表現する姿がその姿ですよと示されているのです。

そのあと、お念仏申すときは、しとしとと柔らかく坂道をゆっくり歩くがごとしと書いてあります。しとしとと、というのは雨がポツーンポツーンと落ちるがごとく。坂道をゆっくりゆっくり歩いて行くがごとく。そういうお念仏を申しなさい。南無阿弥陀仏─。こういうふうに無理な力を入れずに自然にゆっくりと念仏しなさいと。ゆっくりと坂道を歩くがごとく。そうすると、私たちの口からゆっくりとお念仏が出るということは、心の安定が表現される。これを柔軟というのです。身も心も柔らかさが表現されるのです。四十八願の三十三願を「触光柔軟の願」といいます。柔軟、だから私たちは身も心も柔らかさがあたえられます。

拝むというのは当て字で当てると「己我無(おがむ)」です。己の我が和らいでいくということです。身も心も柔らかさがそこで表現されてくると、自分の我も和らいでいきます。相田みつをさんの作った「瀬戸物と瀬戸物がぶつかりっこするとすぐ壊れちゃう、どちらかが柔らかければ大丈夫、柔らかい心を持ちましょう」というのが柔軟です。それが拝むということを通して自分たちの上に表現されてきます。だからこの拝むということは、またの言い方を「ハイ!」というのです。拝んでいくとどんなものでも「ハイ!」と素直な気持ちが自分の中で育てられるのです。だから己の我が和らいでいき全てのものにハイと素直な心で私たちは立ち向かうことができるのです。相手と自分が素直な気持ちで向かっていけるのです。

金子先生は「互いに拝み合う世界を浄土という」とおっしゃいました。柔らかい心が互いに向かい合っていきますから、お浄土。どんな者とも溶け合っていくのです。それを私は拝まないのですから、いつの間にか互いにいがみ合いになってきます。「互いにいがみ合う世界を地獄という」のだということですね。地獄はいのちを粗末にする世界ということです。ということは、私たちの合掌の仕方はですね、蓮如上人が堅実心合掌という姿を通してですね、親鸞聖人が明らかにされた、念仏申して浄土へ往生するというその願い、教えというものが合掌の上に示されておるのです。そのことを、私たちが自分の生活の中で、合掌の仕方を大事にしていくならば、浄土へ往生する生活が私たちのところに開かれるのです。

手を合わせるということは、私たちが人間であることを確認し表現すること

  • 略念珠
  • 二輪念珠

数珠というのはご承知のように、108の珠でできとるんです。またそれを半分にした54、それを更に半分にした27を略念珠というのです。27の珠によって構成されておる数珠を略念珠。これは一輪念珠とも言うんです。私が持っているのが一輪念珠。珠が27あるんです。白い親珠と子珠を除くと27、これ一応基本です。だけどこれにこだわることはありません。珠の材質の大きさによって25の場合もあれば、球が小さくなれば数が増えることがあるわけです。一応基本としては27と。

二輪の数珠の場合、男の方はあまりお坊さんでない限りは二輪の数珠を持つ方はあまりいないんです。女性の場合で二輪の数珠をよく使われる方があるじゃないですか。みなさんは二輪の数珠、使われますか?

男性と違って女性の場合、二輪を使われますね。二輪の数珠の場合は、私たちの宗派の数珠の場合は表と裏があるのです。お分かりですか?

表と裏とは何かといったら、房の上に珠が付いたのと、もう片っぽの方は、房の上に球が付いていないのです。その数珠が私たちの宗派の数珠です。今度新しく買われる時にはですね、気をつけて選んでください。

二輪の数珠を手にかけるときに、房の上に珠の付いている方を上にするんです。上にして左側に垂らすんです。付いてない方を下にして、付いとる方を上にして房を左側に垂らすんです。合掌する時は右手を二輪のなかに入れるんです。左手は親指で球を押さえてますから動かないのです。そういう使い方をするということです。

数珠そのものの材質については、私たちの宗派はあまり細かく言わないことになっております。心配しなくていいですよってことです。拘らなくてもいいです。ただお参りするときには、お念仏申すときには、手に数珠を持ってお参りしてください。仏凡一体の南無阿弥陀仏。それを私たちはしっかりと受けとめていくだけ、ということが示されておるんです。そのことを大事にしてください。かように、私たちは手に数珠をかけ、或いはお参りするということが、私たちにとって大事なことになっておるんです。

また、手を合わせるということを仏さまの前で示すということは、私たちが人間であるということをまた確認し表現する場所ということです。なぜかといったら、この世の中で、生きとし生ける生き物の中で、手を合わせるという行為のできるのは人間だけです。手を合わせるということのできるのは、人間だけの行為なんです。いくら利口なサルでもチンパンジーでもですね、仏さまに向かって手を合わせることはできないんです。人間だけが為し得る姿が手を合わせるという姿なんです。ということは、手を合わせるということは、人が人である証しということです。

最近私たちの生活の中では、だんだん合掌するということがなくなってきとるんです。合掌する姿を見たことのない社会です。こういう私たちの生活の姿を、皆さん方のお配りした資料の中に、金子先生がおっしゃったお言葉ですが「人多き人の中にも人ぞなき、人と成る人、人と成せ人」とあります。いわば人と成る人がいなくなってきてしまったということです。人のような人は世間に行けばいくらでもおるんです。世間に行けば人のような人はいくらでもおるけれども、人に成る人がいなくなっちゃったということです。手を合わせる人がいなくなってきたんですからね。人と成る人がいなくなってきたんです。

人であることを前提とするのではなく、人であることを問うことを出発とする

昔、大谷大学に木越隆という先生がおられたんです。この先生が「子供はやがて大人になるんです。大人はやがて何になるのか」と。こういうことを教えてくださったことがあるのです。あんまり考えないですね、子供さんの間に。子供はやがて大人になるんです。これは大体わかるんです。だけど間違えちゃいかんですよ。何を間違えちゃいかんかというと、大人ということです。私たちの頭の概念はですね、年齢を以て大人とだいたい決めておるんです。今だったら二十歳ですか。子供が二十歳になると大人というんです。仏教ではどこを探しても経典の中には、二十歳になったのを大人という言葉は出てこないんです。大人って何かといったら、お経さんの中では、ものの分別をつけるはたらきを持ち備えた者を大人というと書いてあるのです。これは良いこと、これは悪いこと、これは聞かにゃいかん、これは聞かんでもいい、そういうことをきちんと分別が自分のとこに素養が具わった者を大人というんです。

私たちの顔でもそうでしょう。この目ん玉は何のためについとるか、見るべきものを見ていくということです。この耳は何だといったら聞くべきものを聞いていく耳、この口は何だといったら言うべきことを言っていく口ということです。それを私たちは分別がつかないと。この目は見んでもいいものばっかり見とるんです。この耳は聞かんでいいことばっかり聞いとるんです。この口は言わんでもいいことばっかり言うとる。そのことにいつの間にか惑わされちゃっとるんです。この分別のつかない者、70歳になっても80歳になっても、これは分別がつかなかったら、70歳の子供ということです。だから仏教では、ものの分別をつけるはたらきを兼ね備えた者、これを大人というんだと。

私は孫がおりますけど、年齢に即応して他所へ行ったときに、時々お土産を買ってくるのです。やっぱり、年齢に即応したお土産を買っていくんです。兄ちゃんにはこの玩具がいいな、弟にはこれがいいなと買ってくるのです。家へ帰って来て、孫に渡すと、最初は喜ぶのです。しばらくするとね、下の孫が自分で買った玩具をほっぽり出して「お兄ちゃんの玩具をよこせ」と言うんです。それで喧嘩になるんです。それを娘が「これはお兄ちゃんのものだよ」と言ってもわからないです。お兄ちゃんの玩具が欲しくてしょうがなくなってくるのです。分別がつかないんです。それで喧嘩になるんです。最後に女房に叱られるんです。「お父さん、同じものを買ってきたら」と言うんです。そんなもの3つも買っていってもしょうがないんじゃないかと思って、別々に買っていくのですが、子供はわからないんです。女房の言った通りです。分別がつかないのです。だから親って一体何かといったらですね、分別のつくような大人になる子供を育てないかんということです。それしないんです。このことはちゃんと聞いとかないかんぞ、このことはちゃんと守らないかんぞと。僕らが子供の頃はそうでしたよ。お寺に生まれたと言えどもですね、お爺ちゃんが本堂でお参りしたらですね、家族の者はみんな後ろで参らんかったら、朝ごはんを食わしてくれんかったもんです。お参りしないと、朝飯抜きだったのです。だからちゃんとお参りせにゃいかんということを言われたら、そのことちゃんとやりなさい。それを育ててください。それが親の役割です。このことはこの子供にとって、どうしても大事なことだから身に付けさせにゃいかんということを、ちゃんと育て上げてください。それを親というのです。子供を産んだら親になるのではないのです。昔、どっかの大臣が言っていましたね。子供を産んだだけだったら子製造機と言われてたね。ひどい言い方ですが、あの大臣が言ったことは間違いじゃないのです。ただ言った場所が悪かったですね。子供を産んだだけだったら親になるのではないのです。この子供を、どう分別のつくような大人に育てあげるのか。それを親の役割ということです。

子供はやがて大人に成るのです。大人はやがて何に成るのか。人に成るんです。これを成人というのです。人に成るというこです。大人はやがて何になっていくのかといったら人に成るんのです。人に成るということは、どういうことかということです。『無量寿経』というお経さまの中に「如自当知」(にょじとうち)というのがあります。汝、自らを当に知るべし。人としての生き方を問うていくことです。皆さんの組の教化実践の中に出てくる言葉ね。「何を願い何を願われているのか」を聞くことは我が身が問われていることですよと書いてあるでしょう。我が身が問われておるんです。これを「如自当知」というんです。人としての生き方が問われておるんです。素晴らしい皆さん方の組の実践テーマがあるじゃないですか。これは大したことだと思います。人であるということを仏さまの方から問われておるんです。汝、自らを知るべし。資料の中に書いときました。「人であることを前提とするのではなく、人であることを問うことを出発とする」、問われておるとはどういうことかというたら、人であることを前提とするのではなく、人であることを問うことを出発とする。最初から私は人であると、自分自身が思い込むのではなく、私は人であると自分自身が決めつけるんじゃなくして、果たして私は人として生きとるかと。人として生きるとはどういう生き方をすることかということが自らの問題にならないと、自分の人としての生き方が自分のところに頷けませんよということです。これを仏教的自覚というのです。人間として自分が生きとるか、人として生きるとはどういうことかということを、自分自身のところに自分が問うていかなければ。聞くことは我が身を問われていることである。そのことが大事なことではないでしょうか。そのことが自分の問題になってくると、その次に出てくる言葉にあるように「人は姿、形を以って人と云うのではなく、何を考え何を行うかによって人に成るか、人でないかの分かれ道になる」ということです。人として自分は果たして生きとるかということが自分に問題になってくると、ならば人として自分が生きるということはどういう生き方をしたら人として生きることができるのか。それを経典の中にはですね、何を行う、何を考えるかによって、人に成るのか人でないのかの分かれ道になりますよと書かれてます。いわば自分がどう生きていったらいいのか。そのことを問題にするということです。

生活 人のいのちを生かし、物のいのちを生かすこと

どう自分が生きるのか。人が生きていく、人が暮らすことをですね、お経さんの中では人が暮らすことを生活、この生活ということはね、今は犬や猫だとか他のものにもみんな使われておるんです。あそこで猫が生活しとる、犬が生活しとるって。本来は生活って犬や猫ではないんです。犬や猫は生存というのです。生存。だから人が暮らすことを生活というのです。だから人以外のものは、正確にいうと生活という言葉は相応しくないんです。なぜ人が暮らすことを生活というのかと言ったら、ご承知のように、生活の生は人のいのちを生かし、ということです。生活の活は物のいのちを活かす。いわば人というのはですね、どうしたら自分以外の方のいのちを生かすことができるのか。どうしたら物のいのちを活かすことができるのか。そのことを私たちが考えながら暮らしていくと。これを人というのです。だから人が暮らすことを生活というのは、どうしたら人のいのちを生かすことができるのか、どうしたら物のいのちを活かすことができるのか。人とは、何を行い何を考えて生きるのか。それによって人に成るか人でないかの分かれ道になりますよっていうことです。ということになってくると、この私たちは自分の周りの人たちのいのちをどう生かしていくことができるのか。物のいのちをどう生かすことができるのか。そのことを考える。それが私たちの生活。それが人としての証ですよと。そうでなかったら生存になっちゃうんです。お婆さんがあそこにおるわ、というだけなんです。これは生存というのです。生きることに活気をもたらす。だから歳をとってくるとね、だんだんだんだんやりたくなくなってくるんです。よく言われるじゃないですか、歳をとってくるとあれも嫌これも嫌、食うもんもこれも嫌あれも嫌だと。生きることに活気がなくなってくるんです。だけど本来、人間は生きることに活気を持ちながら生きていけるんです。どういう生き方をしたらいいかというと、どうしたらこの自分自身の生き方が家族の者にとって喜んでもらえるような生き方ができるのか、そのこと一つを考えるだけでも自分の人生に活気が出てくるんです。人のいのちをどうしたら生かすことができるのか。そのことを考えながら暮らしていく、それを人というのです。「お婆ちゃん、達者で結構ですね」「ありがとうございます、孫や嫁や息子が大事にしてくれるお陰でね」というのです。ということはお婆ちゃんの口からですね、息子や嫁や孫が私を大事にしてくれるお陰でね、ありがたいことですわ、もったいないことですわと。お婆ちゃんの口からお陰ですという言葉が出てきて、ありがたいことですという言葉が、お婆ちゃんから言わせると、お婆ちゃんのうちの息子や嫁さんや孫のいのちを生かしながら生きていくということです。そういう生き方をする人を人というのです。「お婆ちゃん、達者で結構ですね」「達者で悪かったかい」なんて言わないでしょう。こうして元気で暮らさせてもらっとる。家族の者のお陰ですよ。そういう生き方が自分の生活のところに出てくるんです。そうすると自然に、ありがとう、すいません、お世話になりますねと。ありがとう、すいません、ごめんなさいということは智慧と慈悲です。そういうはたらきが自分の中に出てくるんです。智慧と慈悲と、言葉が言葉となって自分のところに表現される。それを聞いた人たちの心の中にそれが浸透していくんです。そういう生き方をする人を人というのです。

物のいのちもそうでしょ。どうしたら物のいのちを生かすことができるのか。最近、お年寄りから聞かれなくなった言葉は「もったいない」という言葉です。曽我量深という先生が、「もったいないとは、うげにしているものを頭の上に飾ることである」とおっしゃった。「もったいないという気持ちは、うげにしているもの。足で踏みつけたような、足で踏みつけているものを頭の上に、頭の上にというのは拝むということですよ。頭の上にいただくということは、拝むということ。ものに手が合わさってくると、もったいないという気持ちが自分の中に湧いてきますよとおっしゃったのです。この物のいのちを生かしきることができなくなったときに、物に対して「ああ、すまんな」─もったいないという気持ちが湧いてきます。もったいないとは、うげにしているものを頭の上に立ててやる。

私はきょうだいが5人、1番目の兄貴は、大谷大学四年の時に卒業間近で亡くなっています。ですから、今は私の1つ上の兄さんと姉さんと妹がいて、女2人、男2人なんですよ。子供の頃は上に2人のお兄さんがおったのです。私は3番目。三男坊は惨めなもの、忘れもしないのは「母ちゃん、頭が痛い」と言うと薬を飲まされるんです。上2人の兄さんが病院でもらってきた名前の書いてある薬をもらったんです。私は子供の頃お医者さんに行ったことがない。上の兄さんはお医者さんに連れて行ってもらえるんです。兄さんが腹が痛いと言って医者に行って薬をもらってくると、それがいつもらってきたか知らないけど、私が腹が痛くなったとき、これ飲んどけとなる。私の名前の薬袋を見たことがない。上の兄さんのお古、それもいつの薬かわからない。不思議なもので、飲まされると治ってしまう。暗示にかかったみたいで治ってしまう。着たものでもそうでしたよ、上2人の兄さんの着たものしか着せてもらえなかった。3番目の私が2番目の兄さんの体格になるまでとってあったんです。2人の兄さんが着た服を全部私が着ていたんです。

9歳の時に京都の本山に行ってお坊さんの仲間入りをしたんです。帰ってきたらお婆さんがお前もお坊さんになったんだから一応一人前になった。今日から一丁前の生き方を教えてやると、上2人の兄さんにも教えてあげたから、お前にも教えてあげると言われた。何を教えてくれるかなと思ったら、鼻のかみ方です。今の子供だったら鼻が出ていたら鼻紙で鼻をかんでいます。そのころ鼻紙なんて見たことがない。新聞紙をもんで鼻をかんでいた。上の兄さんも教えてもらったのでしょうね、お婆さんから。鼻が出てきそうだなと思ったら、片方押さえて、チーンとやる。手でのかみ方を教えられていたんです。お婆さんが得意になって言っていました。「上の2人の兄さんは私が教えてあげた。お前も一人前に覚えよ」と言うんですよ。上のお兄ちゃんも教えてもらったんでしょうけど、上手に飛ばないで顔についてしまうんですよ。どうするかというと服でぬぐっていたんですよ。3番目の私はその古着を着ているから、ゴアゴアです。拭くところがない。母に言いました。「上の兄さんはおそらく服で拭いたと思うけど、僕はゴアゴアで拭くところがない」─。そしたら母は「手でぬぐって、どこかでぬぐっておきなさい」と。今だったら大問題、手で拭いてどこかでぬぐっときなさい。手の方はそのうち乾いてくると。ひどいのはズボンだった。ぞうきんではないかと思っていた。破れると縫ったんです。上の服よりもズボンの方が重たいです。はいても重たくてしょうがなかった。そうすると重みでズボンに穴が空いてくるんです。私は母のことを何か思い出しますかと言われるとすぐこのことを思い出します。ズボンに穴が空いて母のところへ行き「母ちゃん、ズボンに穴が空いた」と言ったときの母の言葉は今でも忘れません。「そうか、ズボンに穴が空いたか、ちょうどいい、そこからションベンしなさい」─。私、その言葉を今でも忘れません。「男に生まれてよかったな」と言われてね、今でも忘れません。ズボンがこれ以上はけなくなったときに母がはじめて言いました、「母ちゃん、穴が空いてもうはけない」と言ったとき、はじめて母が言いました。「もったいないな」と。

もののいのちを、生かして、生かして、生かし続けて、そのもののいのちを生かし続けることができなくなったときに、ものに対して「すまん」と言ったのです。もののいのちに対して「すまん」と言ったですよ。「あー、もうだめか、もったいないな」と言いました。そのズボンが本堂の玄関を拭くぞうきんになっていました。昔はそうやって使ったいたのです。

食べ物でもそうですね、夏になるといつも思い出します。お檀家からもらったスイカを食べていると赤いところをちょっと残しとけと言われて、学校から帰ると、塩もみしておかずとして出されたんです。サンマなんかも私は食い方がうまいですよ。母親かお婆さんが隣で見とって上手に骨を残さなかったら叱られた。「骨はしゃぶり」と言うわけです。きれいに骨が残るとどうするか。明くる日、焼いて食わされたのです。骨が丈夫になるからと。だからサンマは残すことがなかった。すべて食べました。猫がうらやましそうな顔をして見とった。与える所がなかったです。昔なんか今みたいに賞味期限なんてなかったですから、夏場は食べているときに「なんかお母ちゃん、へんなにおいがする」「ちょっと持ってこい。大丈夫だ」と。母がいいって言うから食べにゃしょうがない、食べちゃう。食べた後ね、それでも少し変なにおいがする。「大丈夫、腐りかけがうまい」と。言われた通り食べちゃう。腹が痛くなって便所に行ってみんな出ちゃった。「ちょうどよかったじゃないか。たまには掃除せにゃいかんからちょうどいい。正露丸飲んどきゃいい」と言われました。母はそういう人でした。

夏場は冷や麦を食べますね。私のうちは味噌で食べるんです。三河は八丁味噌が有名ですから、つゆでつける食べ方をしないんです。私のうちは今でもそうなんです。冷や麦の上に味噌をかけてまぶして食べるんです。味噌は腐らないんです、いくら暑くても。保存食だから夏でも味噌はちゃんととってあります。そこに冷や麦をまぶして食べる食べ方するんです。口がまずいなあと言うと酢を落として酢味噌にして食べさせるんです。昔の方々は物一つに対するもったいないということを非常に大事にしました。物のいのちをどうしたら生かすことができるのか。昔の方は物のいのちをどうしたら生かすことができるのかということを生活の知恵と呼ばれたんですよ。人のいのちを生かし、物のいのちを生かすことは、知恵と慈悲のはたらきです。それを昔の方々は大事にしてくださったんです。

人が人として生きるとはこういうことじゃないですか。姿形をもって人と言うんじゃなくて、何を考え何を行うか。それによって人になるか人ではないかの分かれ道になります。人のいのちをどうしたら生かすことができるのか、物のいのちをどうしたら生かすことができるのか。そのことを私たちは常に生活の中で大事にしていく。では物のいのちを生かし、人のいのちを生かしていく私たちのその姿を合掌と。合掌は智慧と慈悲の光が育てられていく。それが私たちの中にあるのではないでしょうか。

人として生きていかれた方と出遇う

先ほどふれたように、智慧と慈悲を育てるということは、智慧と慈悲の心をもった人、もっと言うならば人として生きていかれた方に出遇わないと、智慧と慈悲の心は育たないんです。人になった人に出遇わないと育ててもらわないと、私の心の中の智慧と慈悲の心は育たないんです。

よく出る言葉に蛙の子は蛙。蛙の子は蛙じゃないんです。蛙の子はオタマジャクシなんです。だけど蛙の子は蛙というんです。なぜか、蛙の子は放っといても、誰が育てても蛙になるんです。だけど人間は違うんです。放っておいたら人間になれない、人間のようなものにはなれる。でも人間にはなれないんです。人間が人間になるには、人間として人として生きていかれた方に出遇わなければ、人になれないんです。

京都大学に東昇先生がおられる。名前がいいね、西にしずむといった方がわかりやすいね(笑)。先生は親鸞聖人の教えを非常に大事にしておられた方なんです。親鸞聖人は法然上人を「よき人」とおっしゃったんです。親鸞聖人は法然上人を通して、仏さまの心、智慧と慈悲の心に触れられたということです。だから「よき人」というのです。その親鸞聖人が法然上人をよき人とおっしゃったその生き方を、最も大事にされたお方が東昇先生です。先生は人として生きるという生き方を常に親鸞聖人の教えの上から尋ねていかれた方なんです。人として生きるということをいろんな所で話されましたが、有名な話が残っています。私はいろんなところでよくこの話をするんです。

どういう話かというと、ある日、東昇先生の前にお腹の大きくなったお母さんが来られたんです。そのお母さんに向かって先生は「お母さん、あんた人間ですね」と言いました。皆さんどうですか。全然知らない人から「あんた人間ですか」と聞いたらたらどうですか。たいていの人は最初から人間だと思っているから、まあ失礼な方だなと思うでしょう。先生に言われたお母さんもそうだと思うんですね。何をおっしゃったかわからずに先生の顔を見ていたそうです。先生は「お母さん、あんた人間ですよね」と言ったんだそうです。2回も言われたもんで、お母さんは「はい」と返事した。それを確認した先生は、今度は大きくなったお母さんのお腹を指されて「だけどね、お母さん、あなたのお腹の中の赤ちゃんは人間じゃないですね」と言ったんです。これはえらいことだ。お母さんはびっくりした。「じゃあ、お腹の中の赤ちゃんはなんですか?」─。先生は「お腹の中の赤ちゃんは生き物ですよ。生き物ということは、やがてお母さんのお腹から外へ出たときに人間として育つ可能性もあるけれど、人間として育たない可能性もありますよ」とおっしゃったんです。ですからせっかくお母さんのお腹の中でご縁をいただいた赤ちゃんですから「お母さんのお腹から外へ出たときに人間として育て上げてくださいよ、人間として育て上げるということは、お母さん、あなたが人間として生きることですよ」とこう言ったんです。味わいのある言葉じゃないですか。お母さんが人として生きるならば、あなたの赤ちゃんは必ず人として生きていきますよと言われたということです。おそらくそのお母さんは先生から言われるまで、自分が人として生きるということは、どういう生き方をしたら人として生きることなのかなんていっぺんも考えることがないと思うんです。

先生はせっかく生まれてくる赤ちゃんのために「お母さん自身のために、お母さんが人として生きていくならば、あなたの赤ちゃんは必ず人として生きますよ。そのことを大事にしてくださいよ」とお母さんに向かってこういう言葉をかけているんです。お母さんが人として生きていくならば、必ず赤ちゃんは人として生きるんです。人として生きるということはどういう生き方をしたら自分は人として生きることができるのか。その私たちが人として生きるという生き方の、私たちのところにどうしても身につけなきゃならないのが手を合わせるという姿です。このような場で生きとし生ける生き物の中で、人間だけが唯一手をあわすことができる。人としての証ということです。人として生きた人に出遇わないと、私たちは人になれないのです。人のようなままで一生を終わってしまうということです。手を合わせるという姿を通して全てのものに手を合わせていくような、全てのものに智慧と慈悲の心が自分の中で芽生えさせていただけるような、そういう生活を私たちが身につけるということが私たちにとって何よりも大事なことなんです。

最初に申し上げましたように、今の私たちを取り巻いている環境、社会、手を合わせるという教えが教えられなくなって来てるんです。また私たちの住んでいる世の中に、手を合わせるという姿を見たことのない子供たちが、私たちの生活の中に当たり前のような形でいる時代になってきたということです。人が人の生き方を放棄してしまっているんです。人間喪失の時代になってきているんです。だから組の方々が御遠忌をご縁として「一人に立つ」という教化テーマを生み出されたましたけど、それは、まず自分が手を合わせていけるような、そういう生活を身につけるということです。また、自分の周りの方々との関わり合いの中で智慧と慈悲の心を植え付けさせていけるような、そういう人になるということです。「ありがとうね、ごめんね、お世話になった、恥ずかしかったな」と。こういう言葉が言葉となって自分の周りの者に聞こえていくような、それを聞こえ示させるような、そういう生き方を私たちは心がけ大事にする。そのことが今私たちにとって求められている生き方と言ってよいのではないでしょうか。

ある55歳のご婦人が、55年間の人生を振り返っておっしゃった言葉です。「私の55年間の人生を振り返ってみたら、便所と台所と風呂場と寝室の55年間の往復の人生でした。しかし、私のうちには拝む場所がありました。それによって人が住む家になっておりました。ありがたいことです。もったいないことです。尊いことです」こういう言葉をお述べになった方がおるんです。どれだけ立派な家に住んでおっても、人が住んでなかったら犬や猫と同じということです。ここの家には人が住んどるな、人がおるんだな、人の家だな。でなければ人は育っていかないんです。人は誕生しないんです。ご婦人は自分の人生振り返ってみたら便所と台所と風呂場と寝室の往復の55年間でした。しかし私の家には拝む場所がありました。人が住んどる家になっていました。ありがたいことです。もったいないことです。尊いことです。こういう言葉を書いてくださった方がおられました。

私たちそれぞれが、人が住む家になろうじゃありませんか。拝む場所がある、そういう私たちは家庭を作り上げていく。このことが私たちが人として生きることの大切なことではないでしょうか。

22日の蓮光寺さんの時にも申し上げましたが、私はどちらかというと声明だとか、それぞれの仏具の扱い方だとか、そういう方がいわば私の専門ということで、皆さんの前でこうして話をするっていうことは非常に私は苦手なんです。仏さまの方に向かってやることはいくらでも大きな顔してやるんですけど。皆さんの顔を見て話すというのはものすごく苦手で、来るのが辛くて辛くてしょうがないのですけど、本多住職が「来い」って言うものですから(笑)。本多住職のお父さんが、私と同じ岡崎教区で、豊田市の浄覺寺さんから蓮光寺さんに養子に来られた方ですし、本多住職のいとこ(浄覺寺前住職・2015年11月13日還浄)が私と大学時代から45年間切っても切れない私のいのちみたいな男だったものですから、「来い」と言われると断るわけにいかないものですからね(笑)。私の話もあっち行ったり、こっち行ったりで、伝わったかどうかわかりませんけど、ただ一つだけ熱意をもって、人の進む道を私たちは作っていくってことが大事なことではないでしょうか。そのことだけは皆さんと、それとやっぱり私たちは仏さまからせっかく賜った、手を合わせるということの大切さ。手を合わせるということを通して智慧と慈悲の心が育てられていく、そのことを大事にできるような生活を、私自身も、皆さん自身もそういうことだけ心がけていきたいという私の願いの一端をお話し申し上げて、今日のとりとめのない話になりましたけど、ここら辺で勘弁いただければと思います。ようこそのお参りをありがとうございました。(了)

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