あなかしこ 第62号

正しい私たちの暴走

谷口裕 (釋裕遊 48歳)

いきなり私ごとから切り出して恐縮だが、禁煙している。1月18日からたばこを断っているので、本誌発行の時点では禁煙を2カ月余り継続しているはずである。

恐らく世の喫煙者の多くがそうであるように、私も今まで何度も禁煙に挑戦してきた。そして、恐らく同志の多くがそうであるように、結果はいつも三日坊主だった。かくして人生の半分以上どころか3分の2近くを紫煙とともに生きてきたのである。

ところが、今回の禁煙は成功するという予感があった。これは自分でも本当に不思議なのだが、なぜか今回はすんなりとたばこをやめられるという予感があった。機縁が熟すとはこういうことなのかもしれない。実際、頭痛とめまいの離脱症状に苦しんだ日はあったものの、割とすんなり禁煙できている。

そして、再び喫煙者に戻りそうな予感はしない。

厚労省が飲食店を原則全面禁煙にしようとしている。本稿を打ち込んでいる間にも同省による法修正案が公表され、違反喫煙者に30万円以下、施設管理者には50万円以下の科料の罰則とする考えだという。もっとも、飲食店業界や自民党議員の中に反発があるとのことで、最終的には骨抜きにされる可能性もある。

たばこは、覚醒剤や麻薬ほど害が顕著ではないというだけで、基本的にそれらと同じような性質のものといえるし、さらに受動喫煙の問題があるから、公共性のある場での禁止という方向は正しいと評価し得よう。厚労省の案を私は支持するし、もっと厳しくてもいいのではとさえ思う。

しかし、何年も前から気になっているのは、禁煙志向が〈正しい〉ゆえに、思考が暴走気味になってきていることだ。「禁煙ファシズム」とはよくいったものである。

ごくごくわずかな量のたばこの煙を吸い込んだだけで死ぬかのように大騒ぎする人がいる。毎日大量に吸いまくっている車の排ガスや、これからの時期に大陸から渡ってきて降りそそぐPM2.5には無頓着なのに。

喫煙者たちがきちんと屋外の指定の喫煙所に収まって喫煙しているにもかかわらず、そのそばを通りかかる時(せいぜい2、3秒)にたばこ臭くて迷惑だから喫煙所を撤去しろ、と文句を言うような嫌煙者もいる。例えば、ホテルに泊まる際にたばこ臭のする部屋が嫌だという話なら分かる。だが、室外で、ほんの2、3秒も、自分の好まない臭気を嗅がずに済む生活など、果たして成り立つのだろうか。私に近寄るあなたの悪趣味な香水とか。

禁煙志向自体は正しくとも、仮にそんなヒステリックな運動で全国民の完全禁煙が達成されたのなら、その時、たばこの煙がなくなったという以外の点で果たして暮らしやすい国・社会になっているのだろうか。きっとその頃には何か別の〈社会の敵〉が作り出されていそうな気がする。ほかならぬ私たちの心によって。

例えば、酒。古来「酒は百薬の長」などと言われ、また適量のアルコールは体に良いなどということがあたかも科学的根拠があるかのように数十年来言われてきた。しかし最近では、アルコールは少量ならただちに健康に影響はないというだけのことで、少量でも少量なりに有害であることに変わりはなく、飲酒に〈適量〉などない、という説が有力になりつつある。そして、副流煙こそないものの、酔った者が周りに迷惑をかける点や、アルコールの臭気が苦手な人にはほんの2、3秒でも不快だという点は、たばことどう違うのかという話にもなろう。

禁煙志向が正しいからといって、禁煙の旗をいたずらに振り回して騒ぐ自分が正しいわけではない。自分は間違っているかもしれない、という部分は常に自分の内にとどめておきたい。

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