あなかしこ 第62号

法話

開催日 2017年2月11日(土)
会場 光明寺(荒川区町屋)
テーマ 自力の自分だと如来に気づかされた時
講師 釋智暁先生 茨城一組・西念寺住職、スクールカウンセラー、47歳

スクールカウンセラーに携わるまで

  • 釋智暁先生

こんにちは。ただいま紹介いただきました釋智暁でございます。私は利根川沿いにある茨城県坂東市にあります西念寺の住職を務めながら、現在まで15年程スクールカウンセラーという仕事をさせて頂いております。

私は子どもの頃からずっと自分の不器用さを意識しながら生きて来ました。そして身体に力が入りやすいのです。いつの間にか、固まって傾いた姿勢のまま喋っていたり、運転の時も過剰にハンドルを握り締めていることがあります。自分は何でこんな力を込めているだろうと力を抜いたのに、気が付くとまた力を込めている。私たちは自分のことを上手く制御出来ない、そういった存在です。スクールカウンセラーのように一対一で話すのはいいのですが、皆さんの前で話すのがあまり得意ではありません。私はそういう人間なんだと思って、話を聞いて頂ければと思います。

高校までは普通に元気だったのですが、高校の時に腎臓の病気で何カ月も入院をしました。なかなか病気が治らず、体育は3年間ずっと見学をしていました。そうすると、なぜか自分は生きていてもしょうがないと思うようになっていました。薬の影響で顔がムーンフェイス(顔が満月のような真ん丸になってしまう状態)になり、血圧が上がったような感じになってしまうのです。自分は何でこんな苦しい思いをしているのだろうと常に落ち込んでいました。丁度心理学のブームでしたので心理学をやってみたいと思いました。私が大学院を卒業する時に、先生が警察の相談所に推薦してくれました。そこで、非行少年と言われる子どもとその親を面接しているうちに、スクールカウンセラーもやってみたいと思うようになりました。思い返すと、流されるままにここまでやって来たという感じがしています。

私たちは、いつの間にか、いろいろな価値観を身に付けています。例えば、講義中は静かに聞かなくてはならない。そして、それを破る人が出てくると、その人に対してイライラしたり、怒ったりする。何でイライラするのかというと、自分がそういう価値観にとらわれているからなのです。

私たちの中にいつの間にか状況に応じた様々な価値観が出来上がっていて、それに基づいて、ほぼ自動的に判断している訳です。例えば、ある男性が好きな女の人にふられたとします。すると、大抵の人はもうこんな素晴らしい人は絶対現れないだろうとか思います。悶々と落ち込んでいってしまいます。それを聞いて、私は新たに素晴らしい人に会えるか、会えないかということは、決まっているわけではないと感じます。失敗してはならないという思いが強いと、新しいことになかなか挑戦出来ない人間になってしまいますし、人に嫌われてはならないという思いが強いと、八方美人になってしまい、個性のない人格になりがちです。実際みんなから愛されるというのは無理な話ですね。アイドルでさえアンチの人がいますから。また、人を傷つけてはならないという価値観があっても、どんなに気をつけていても、知らぬ間に人を傷つけてしまうこともあるし、平気で人を傷つけている人に怒りが湧いてしまったりします。カウンセリングでは、苦しみの元になってしまっている価値観、信念を、現実的なものに修正しようと進めていきます。ですが、同時にカウンセリングの限界がその辺にあると私は感じています。

真宗の教えとの出遇い  ―業縁存在―

人間は割り切ったようにはいきません。私も遠回りをしながら、真宗の教えを聞かせて頂くようになった中で、すごく自分にとって衝撃的だったことが、人間は業縁の存在であるということでした。私は、目の前のことを毎日悩みつつ、そしてなんて自分ってダメなんだろうと思いながら生きています。自分の感覚を頼って毎日生きていく中で、業縁の教えというものが、法話の中から、こういう世界もあったんだなぁということを思わせて頂いたことがあったのです。業縁の存在ということを聞いた時に、大学時代に学んだあるラットの研究を思い起こしました。情動はそもそも遺伝するのかどうか、という研究です。ラットをいつもとは異なる新しい場所に置いたときに、一方で全体の中でも最も活発に動きまわるなラット同士を、もう一方で最も動かないラット同士を、同じ実験を繰り返しながら何世代も交配を続けていくのです。すると、動かない方同士を5世代もかけ合せると、ほぼ活動性の低いラットが誕生します。他方で、活動的な方は非常に動きまわるラットが誕生するのです。ですから、心理学的には、この種の情動は遺伝するだろうということです。私自身、不安が強く、引っ込み思案なところがあるのは、この動かないラットのような因子を持って生まれたと、あまり変わらないのではないかという気がして来たのです。この動かないラットが生まれてきたということに関して、ラット自体には何の責任もないわけです。生まれたらそうだったという事実があるだけです。

ある女性の知人妻のお母さんは、その彼女妻が高校生の頃から、20年以上透析をし続けています。その中で、数年に一度、著しく体調が悪化したり、心臓の中の血栓を取り除くといった手術も続けて、結果として乗り越えるといったことを繰り返しています。体調が悪化したとき、お義母さんは、私はもうすぐ死ぬのではと、心が不安定になるようです。高校生だった娘の自分も動揺した。しかし、手術をして、上手くいったという経験を繰り返して、今に至っているのです。そうしますと、最近は彼女も慣れてしまって、「自分は、お母さんから死ぬ死ぬ詐欺を受けているというように感じてしまう時もある」と言うのです。振り回されているような思いがしてつらいのです。しかし、お母様が毎回体調が悪いときに「私はもうすぐ死ぬかもしれない」という気持ちになるのはご本人の立場でしたら自然なことですし、毎回乗り越えてきているお義母さんを見ていると、知人がそういうふうに感じるのも無理はないかもしれない。そう思う妻彼女が良いとか悪いといかいう訳ではありません。ある状況になっていて、それがいろんな事を引き起こしているのです。知人が、私たちは業縁の存在であるということを改めて教えてくれた気がしています。

人間は孤独な存在

大学に入りたての頃、心理学概論の授業である先生が「人間だからって、何だっていうんですか」と言われました。初めはよく分かりませんでしたが、後になって先生がおっしゃっている意味がわかって来たのです。人間は高尚であると思っているけれど、実は動物と同じようなところもたくさんあるのだということが分かって来ました。心理学には、動物実験を行い、その行動を研究する分野があります。その成果を応用して「どのようにして不登校の子供を学校に来させたらよいのか?」という問題につなげていきます。

私たち人間はよく考えて行動している気になっているけれど、実際はどうでしょうか。小さな子供でさえ部屋のスイッチをつけられるようになるのは、部屋の中が暗くてよく見えない状態があって、そこからスイッチを入れると明るくなって見やすくなるのを喜びとともに学習するからです。でも大人でもトイレの電気は消し忘れがちですよね。用が済んだらトイレから出てしまうので、消さなくてもすぐには良いことも悪いことも起こらないからです。つまり、人間の行動も動物の行動も何かをやった後に何が起こるかで形づけられるところが大きいのです。例えば、水族館のイルカたちも芸をやった後に必ずエサをもらっています。エサにつられていて、何だか憐れだなあと私は思ってしまうのですけれども、人間も似たようなものではないでしょうか。自分にメリットがあるとその行動は強化されますし、メリットがなくなるとその行動は止みます。人間はもっと考えられて行動しているような気がするけれども、実はそういう気がしているだけなのだ。人間は一見高尚のようだけれども、そうとも言えないのかもしれません。

現在、子どもは褒めて育てようという子育ての風潮がありますが、それはこの行動分析学がもとになっていると考えています。行動分析学の第一人者だったスキナーは、動物は罰だけ与えても決してその行動をできるようにはならないのだから、教育から罰というものをなくすことができるのではないか、と考えたのです。アメとムチの教育ではなくて、アメをあげるか、アメなしかだけでできるのでは、と考えた訳です。しかし現在の社会状況を見てみますと、家庭の中から虐待はなくなりません。子どもが言うことをきかないと大人はイライラします。罰なしで育てようとすると我慢が必要になり大人の側がスッキリしないのです。怒りをぶつけることで大人は子供より優位な立場に立てますし、言いたい事を一方的に言えるのです。ですから、家族という小さな枠の中では、親が本当に子どもを尊重しない限り、実現は難しいと考えます。

自分が感じていることと、他者が感じていることには隔たりがあって、どんどんと孤独になっていくことがあるように思われます。自分が感じているこの不安と、他人が感じている不安とは同じではありません。つまり、自分は他の人を生きられないのだから、これが孤独に結びついていくのです。学校に行けない自分はダメな人間だ、あの時あの人に心ないことを言ってしまった自分は最低だ、自分のことを嫌だと思ってしまう自分が嫌だ、どうして私はこうなのだろうかと思いに沈んでいく。こういった姿が人間なのではないでしょうか。自己嫌悪する一方で自分は有能だという思いにしがみつこうとして、結局それが破られる。自分に安らぐことができない、不完全だなあと思うのが人間なのです。人間が孤独だということが普遍的なのです。人はどうして自分だけがこうなのだろうという思いに沈みながらも、そこを越えて立ち上がって生きたいと求めていますし、それだけ孤独を感じている存在だとも言えます。私たち人間は自分の思いに埋没してしまうものである、そう自分が考えられるようになったのは、真宗の教えと出遇えたからだと思います。

生徒の中にはニコニコしたり笑ったりすることはできるのだけれども、怒ったり、悲しんだりすることが出来ない子供たちが多いのです。怒ったり悲しんだりする顔をすることは周りの人を不快にさせる可能性があります。集団内の特定の立場に適応し続けるために、自分のマイナスに受け取られるかもしれない気持ちを抑圧して、自分が怒っていることすら気づかないようになってしまうのです。怒らないというのは心が寛大だからではなく、自分は怒りを感じないようになってしまったということに気づかされました。基本的な感情は、ほ乳類の中ではほぼ同じです。ライオンの前に肉を置いて、食べようとした瞬間にサッと肉を取り上げたらライオンは怒ります。怒らないライオンというものを想像すると、そのライオンは不自然ですよね。人間にはそういう不自然な人が普通にいます。人間は高度なところもあり、考える能力もある。しかし、幼少期からの外的環境によって怒れなくなってしまうことすらもあるのです。元気だったはずの子がお腹が痛くなったり身体に変調が出て急に不登校になる時があります。本人もどうしてそうなったのかさっぱり分からないこともあります。これは自分を守ろうとして身体が調子を崩してくれているのかもしれません。人間はきちっと自分のことを意識的に把握出来ているような気がするけれども、そうでもありません。人間はそういう意味であやふやな存在です。

スクールカウンセラーをしていますと、在校生が自殺をするケースがあります。自殺した生徒さんの名前を知らされた時に、一番先に私がすることは、自分が以前会ったことがある生徒なのかどうか調べることです。それそのものは、仕事上当然のこととして、私と面接をしたことのない生徒だと分かるとホッと安心している自分がいるのです。何て自分は汚いのだろうと思います。自分の受け持ちの生徒でなかったから、周囲への影響などを考えながら、使命感を持ってカウンセリングできてしまう自分なのです。こんな自分がこの仕事をやっていて本当によいものなのかと自問するばかりです。

実際に、私が通っている学校で自殺者が出てしまった時のことです。その子のグループはみな仲がよく一緒に過ごす時間も長かったので、私はそのグループの多くの生徒から話を聞くことになりました。その中で一人の男の生徒が、友だちが自殺をして仲間はみな不安定になって身体に変化が出ていた。自分もショックを受けてとても悲しいはずなのに、身体に何ら変化が現れない。実は自分は他の仲間のように悲しさを感じられていないのではないか、そんな自分は人としてダメな存在なのではないかと真剣に悩んでいると話してくれました。私が「ショックを受けたのにあなたの身体に変化が現れないのは、あなたの感じ方が不十分なのではなくて、そういう特性だからだよね」というメッセージ伝えると、その子も何かに気がついたように落ち着いて帰って行かれたことがありました。本当に人というのは孤独なものだと感じました。こういった出来事を通じて、いろいろ感じたり勉強させてもらったりすることがあります。

たてまえを生きている人間

私たち人間は複雑であると感じるところは、「私はこう考えている」ということが、実は単なる「たてまえ」であること。それをなかなか自分で気づけないということです。先日、1月の末に、何年も意識が無かったある門徒さんが亡くなり、枕経へ行きました。その時、高校の制服を着た女の子がいました。故人のお孫さんです。1週間後のお通夜の時、驚くくらい茶髪がキラキラ輝いている女の子がいました。変わりようにびっくりしましたが、同一人物でした。私は、2月1日になると茨城県では高校3年生は自由登校になって、今まで学校の規則に耐えていた子供たちが一度に自由奔放な格好に切り替わることを思い出しました。その子もずっとその日を待っていたのでしょう。そうしたら祖父が亡くなってしまった。お斎の席でその子と話すと、家族には、お葬式があるのだから、あと数日待ちさないと言われていたそうです。でも、ずっと我慢してこの日を待ちわびて来たから染めちゃった、と話してくれました。彼女にとって髪を染めることは、一つの儀式だったのでしょう。私はその子に同調した発言をしながら、寺に戻ったのですが、実は自分もその子の家族と同じことを内心感じていたことに気づいたのでした。そして、私の中での「たてまえ」と「実際」が全く違うのだと知らされて私は愕然としました。私にとっては、髪の毛を染めたその子こそが、都合良くたてまえで生きている我が身の真実に気づかせたのでした。

なぜイジメは悪いとわかっていながら、人間はイジメをするのでしょう。おそらく学校のような限られた空間の中で、自分が持っている規範意識とは違うものが、その集団の中に生じて来て、イジメというものが出て来るのだと思われます。クラスの中はもの凄いほどの階層社会だと感じます。今の時代はコミュニケーション能力の優れた子、ノリの良い子が上部に行きます。それこそ努力することが難しい部分です。新学期が始まってあまりたたないうちに、クラスの中でそれぞれの立ち位置が決まります。教室の中では、誰もがその中で立場に応じた役を演じているのです。つっこまれる役回りの人はずっとその役を演じ続け、まわりの子たちも頻繁にその子につっこみを入れます。少人数のグループ内や個人間では気ままな振る舞いができることもありますが、全体の構造をかき乱すような言動は許されないと感じているようです。空気を読むのが重視されます。適応しきれなくなって相談に来る生徒もいます。外部から見ると、嫌だったら別の振る舞いをしたら良いのに、と思うのですが、自分からそれを試みようとする子は少なく、無力感や周囲に変に思われるからできないと変えようとしません。偶然に立ち位置が変わることはあっても、ほとんどの子は、次のクラス替えや進学のときには頑張ろうと、その時まで耐え続けているのです。私たちは、自分の中では一貫した考え方や振る舞いをしていると考えがちです。しかし、実際は周囲の環境によってころころと変わっているのが現実のようです。

共感とは

死んでしまいたいと言っていた友だちに、こうやったら死ねるよとサイトで調べて教えてあげたりと、自殺を手助けするような行為をした女子生徒が面接に来たことがあります。友達は自殺することはなかったものの、学校を続ける気持ちを失い退学していきました。先生方は、その生徒に指導した際に、自分たちが期待していたような反省の態度が見られないことに戸惑ったものの、それ以降、不思議な生徒だと感じながら接していたそうです。ある時、その子がカウンセラーに質問したいことと記したメモを教室に忘れ、そこには自分は死にたいと受け取れるような内容が書いてあった。それをたまたま担任の先生が見つけて、あわてて私のところにその子を連れて来たのです。その子は、面接が始まると「先生、人とのつきあい方を教えてください」と聞いてきました。「今、友達とかはどん感じなの?」と私が尋ねると、その子は「私、断れないんです。カレシもいるんですけど、好きな訳じゃないんです。好きってどういうことか分からないんです。クラスで一緒にいる女の子も話をする人という感じで友達なのかは分からないけど、いつ裏切られるかも分かりません」と話すのです。共感するという感覚や、人を信用したり、信用されているという感覚がも十分に育まれていない印象でした。ただ、彼女なりに目の前にいる人の意にいつも必死に沿おうとしていることがうかがえました。話を聞いていく中で、その子は幼少の頃から、親とほとんど交流してないということが分かりました。私が些細なことをほめると、その子の顔がゆがんで困った顔になりました。自分に価値がないという思いはとても強固でした。「死にたいっていうか、消えたいって感じです」と懸命に自分を言い表そうとしていました。

共感するとはどういうことなのだろうかと、改めて考えさせられる面接でした。よく共感することが大事だといわれますが、よく考えてみると、その人の気持ちになれたのではなくて、その人との関わりが自分の中の何かを刺激したのです。自分のもっている世界の中の何かが、発火しただけなのです。どんな感情が引き起こされるかさえ縁次第なのです。その子が改めてそれを教えてくれたのだと思います。

私は話を聞かせて頂いてはいますが、共感した気になって相手が分かったと思ったとしたら、それは嘘ものになります。どこまでわかろうとしてもわからないところがあります。それこそがそれぞれが生きていると言うことだと思います。人はわかりあえなくても、理解し合おうと思うところに大切な何かがあるのではないかと思っています。

阿弥陀に照らされて生きる

子どもの完全な安全基地になるような、パーフェクトなお母さんお父さんはどこにもいません。みんな自分の都合で動いているのです。ですから、完璧な安心感をもって生きている人など、どこにもいないでしょう。人はみな自信のない自分を抱えながら生きているのです。自信が持てない私たちが、何を求めているかと言ったら、ほっとするとか、ストレスがなくなるとか、堂々と生きていくとかです。悩みがなくなって、すごくハッピーな状態が何時までも続くことを願っても、それは無理な話でしょう。

仏教の教えを聞かせていただいたおかげで、そうではないと思えるようになってきたのだと思います。事実は「ああこうだったんだな」ということ。だから、「ああ、私はこういう存在だったのだ」「自分はこんなことを頼りにして生きてきたのだな」と目が覚めること。

親の愛情は、親の都合もあるから限界が無理あります。けれども、阿弥陀さんのいつでもどこでも見守ってくれている大きなはたらきに気づくと、誰もが落ち着いて生きていけるようになるかもしれないと、完全な母の愛のようなものようとして阿弥陀さんをとらえていたことが、私にはありました。

しかしながら、如来のはたらきというのは、そんな甘っちょろいものじゃないのです。いつも如来に照らされている。それは、自分にとっては照らして欲しくないことも照らし出されているということです。自分がどういう存在かを嫌が応にも知らされる。しかも、知らされたと思った瞬間に、また元の自分に戻っていくことを繰り返しているのがこの私です。それこそがとても大事なことです。

真実に照らされるというのは、決してこの生活がパラダイスになることではありません。自分の都合で日々思い沈んでいるという愚かさを自覚しつつも、堂々と生きていけという所に立てる道が開かれるということです。自分を責める一方で、常に相手のせいにして自分は犠牲者であると正当化している自分であると気づかされていくことが大切なのだと思います。つまり、如来に照らされて、自力の自分であったと気づき続けていく歩みこそ大切なのでしょう。

これまでを思い返してみますと、会いに来てくれる子どもとかお母さんを何かをしてあげているというより、私自身が勉強させてもらっていた感じです。それが縁となって、逆に自分の愚かさ、至らなさが見えてくるのです。

できないことをできるようにしていくのが教育であり、マイナスの状態になったものを元に戻そうとするのが医学であると聞いたことがあります。では、仏教とは、どういったものなのでしょうか。決して今の状況をプラスにしていくことでもないし、元に治すことでもない。人間は業縁存在です。日常の日々の中で、自分の愚かさに気づかされながら、堂々生きていけるのだということを明らかにしていく。どういう立場であっても、どういう状況であっても、自分がどんな人間であっても、そこで堂々と生きていけるところに立つのが真宗の教えなのでしょう。教えを大切に聞き続けていきたいと思っています。(了)

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