あなかしこ 第62号

門徒随想

10年前、蓮光寺の門をくぐりました。叔母が三大新聞のひとつに掲載された蓮光寺の記事を私に渡したのがきっかけでした。私自身、生きることに深く悩み、出口のない状態にありました。うつ的表情をもった人が蓮光寺で聞法をすることによって、自分自身を見つめ直して、苦悩の現実を生きようとしている記事が目に留まり、関心を持ちました。教えを聞けば、自分が変われるのではないかと勝手に思い込んでいた不遜な私を、住職や門徒倶楽部の方々に大変ご迷惑をかけたことを今とても申し訳なく思っていると同時にとても感謝しています。

新聞記事というのは、どうしても宗教が人間のこまったことを解決してくれるかのような書き方をしますし、私自身もそう考えていました。うつ的状況であった橋口さんが救われたのはうつが完治したのではなく、うつになるような生き方をしていたことに気付かされたからです。うつのままに生きていこうという勇気を念仏の教えからいただいたのでした。うつであろうとなかろうと、自我を抱えている人間は迷わざる得ない存在です。そのことをいただくまで私はずいぶんえらそうなことを言いまくっていたなと反省しきりです。

最近、蓮光寺で聞法されている女性が「伊達さんはずいぶん変わられましたね」とおっしゃいました。別に性格が変わったとかそういうことではなく、蓮光寺に来た当初は、自分の考えていることとはちがうので仏教に対する警戒心もあったようです。しかし、今は聞法するたびに新しい自分と出遇うのです。何か飛躍的にどうかなるということではなく、ゆっくりだけど確実に自分が照らされていることを感じるのです。そして気が付かなかった自分というものが見えてくるのです。それは橋口さんと同じで、きっとこのことをその女性がおっしゃっているのだと思います。状況などそう変わるものではなくても、聞法するとにこにこしている自分がいるのです。これは「不可思議」としか言いようがありません。

ただはっきり言えることがあります。蓮光寺に通う以前は、「死にたい」という気持ちが時々おこりました。ところが蓮光寺に通い出したら、阿弥陀さんは、死にたいと苦悩している私そのものがお目当てであり、「尊いそのままのあなたを生きよ」と励ましてくれるのです。

私は昨年、本山の報恩講に参詣をして来ました。私のイメージとはすこしちがっているところもありましたが、ここで多くの苦悩した人たちが集ってきた本願の歴史を感じることができました。

新聞を見せてくれた叔母は「お寺に行って金をぼられたら逃げてくるんだよ」と言っていたことは今や笑い話であり、なつかしさすら覚えます。逃げるどころか、帰敬式を受け法名をいただき、蓮光寺の世話人までしております。人生は出遇いですね。そして本当に「不可思議」です。

5月に実家の京都に戻りますが、毎月蓮光寺の聞法会で上京しますので、今後ともよろしくお願いいたします。

伊達進(釋進千) 59歳
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