あなかしこ 第61号

人間の尊厳と生きる悲しみ

篠﨑一朗 (釋一道 57歳)

今年2016年の真夏の法話会には、我が恩師である帯津良一先生に来ていただき「人間の尊厳と戦略的直感」というテーマでお話をいただいた。

先生は言わずとも知れた日本のホリスティック医学を啓蒙普及された第一人者であり、先生が34年前に故郷の川越に病院を開設されたのも、当時勤務されていた大病院では時代の先端を行き過ぎて、既存の組織の壁に拒まれその考えを実践できず限界を感じられたからであった。今でこそいろいろな考えで医療に取り組んでおられる医療者が増え患者側の理解も進んできたが、当時はなかなかその考えは理解されず大病院だけでなく末端の病院までも閉鎖的な『白い巨塔』の世界であったに違いない。

さて、ホリスティックな医療とは何か? 先生のお話を聞いて一人ひとり受け止めは違うかもしれないが、私がこれまでお聞きしてきたことと今回お聞きしたことで思ったことは、「医療とは、人間が本来持っている“自然治癒力”を最大限に活かして病を治癒していくもの。その自然治癒力とは“場”に備わった能力だが、その場とは患者さんを中心にご家族とか友人とかあるいはいろいろな医療者が集まって場を営み、いのちのエネルギーを高めていく、それが本来の医療である。」と、また先生からは『人間としての尊厳』について、人によって皆、違うだろうが、基本的な共通項は「生きる悲しみを慈しむ、あるいは敬う」ということではないかなどのお話をされた。

とても内容が深くてこの巻頭言限りでは紹介し切れないが、その中でも特筆すべきことは、先生は真宗の教えにもふれられており、阿弥陀様の本願が満ち満ちている場が浄土である、ならば“自然治癒力とは実は阿弥陀様の本願のこと”ではないのか、と自分自身頷けたとおっしゃった。

がんのような体まるごとが関係している病の場合は、分析的・部分を見ていく医学だけでは足りず、人間まるごとを包み込んで、場の力を借りていのちのエネルギーを高めていくことが必要で、その場とは私たち真宗門徒であれば、今生きているこの場こそが、阿弥陀様の本願が満ちている浄土の功徳をいただく場であるとうなずかされて日々生活していけば、自分の悲しみも人の悲しみもお互いに敬い合え“人間の尊厳と生きる悲しみ”も分かりあえる。自然治癒力とは人の抱く悲しみであった。そうすると本願と悲しみが自然治癒力ということになる、医療を進めていくうえで常に忘れてはならないことだとおっしゃったのであった。

そして、個々の医療の戦術にはエビデンスのある科学が必要だが、戦略となる医療の現場では直感が大事であるというお話も、なんとなく分かる気がする。多くの代替療法もエビデンスがないとされ、医療の現場では否定されることが多いが、現実にはそれで助かっている人も少ないがいらっしゃる。それを患者さんが自ら選択するなら、それをしてくださる医療者がいても良いと私は最近とみに思っている。ただ、それは標準治療にはなりにくいのもわかる。お金も多く掛かる場合が多い。経済的に余裕のある人しか受けられない。でも受けられる人がそれを選択して満足できるならそれも有りではないかと。

しかし、そんな高額な治療をあえて受けなくても自然治癒力とは本来的に場に備わった能力である。その一番高い場の自然治癒力は阿弥陀の本願なのだ。本願が南無阿弥陀仏と言葉になって、この私に呼びかけられると生きる意欲があたえられる。それが浄土の功徳をいただくことなのだ。そういうふうにまるごと包まれることによって、良くなる人もいる(私もその一人かも)。

忘れてはならないことは、“人間の尊厳と生きる悲しみを慈しみ、敬って攻めの養生を果たしていくこと”、これを実践していくことが大事なことだと、今回の先生の話をお聞きして、一生涯、聞法生活を続けていこうと再確認させていただいた。

合掌

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