あなかしこ 第61号

法話

開催日 2016年6月22日(水)
会場 蓮光寺
講題 大谷派の法式作法 ─声明作法を中心として─
講師 堀田護先生 岡崎教区第七組本宗寺住職・全国准堂衆会事務局長

体で覚える

  • 堀田護先生

僧俗共に大谷派の法式作法についてご研鑚いただけるという、たいへん心強くありがたいことだと感謝いたします。私自身が大谷派の声明(しょうみょう)に携わってきて、このことだけは何としてでも大事にしていかなくてはならないことを私に指導してくださった先生が、三重県松坂本宗寺の井澤ご住職です。

私は9歳の時に京都の本山で得度式を受け、井澤ご住職の所に報告に伺いました。そのご縁で小学校4年生から中学2年生まで指導を受けました。先生の練習方法は声明集を前に置くだけで、開くということはしないのです。どういうことかというと、「正信偈」の練習を例にあげますと、「帰命無量寿如来…、はい、やってご覧なさい」という形で先生が声を出されてそれを聞き、そのまま実践していく。その反復練習なのです。

あるとき先生に「なぜ声明集を使わないのですか」とお聞きしました。先生は「声明は作法です。声明は、声明作法というのです。作法ということは頭で覚えるのではなくして、体で覚えるのです。体で覚えるということは身につけることなのです」と、お話しくださいました。

いわば大谷派の声明は、親鸞聖人の教えを暗唱口伝(くでん)することです。口伝というのは先生の声を聞いて、それを体で覚えていくものです。言葉をかえて言うならば、教えを教えのまま教え伝えていく。これを暗唱口伝とこう言われたのです。耳から聞こえた先生の声を体で覚えていく、身につけていく、そういうことをあなた自身に覚えてもらいたいということを先生はおっしゃていたのです。

野心に汚染された声明はするな

高校を卒業して、京都の大谷大学へ入学することになり、井澤ご住職は式務局長をなさっていて、挨拶に出かけました。その時に先生が「お前さんの声明をまた久しぶりにみてやろう」とおっしゃいました。私は、中学3年から高校3年まで地元の大変声明の長けておられる先生について指導を受けたものですから、ある意味においては自信を少しながら持っていたのです。

その成果を示そうと思い、先生の前でお勤めを始めました。そうしましたら途中で先生が大きな声で「だめだ」と言うのです。その時に先生がおっしゃった言葉が「野心に汚染された声明はするな。それは菩薩の死だぞ」でした。どういうことかと申しますと、大谷派の声明は自分を飾る道具ではない。場数をふんでいくと自分なりにある程度読めるようになります。読めるようになってくると、ややもすると人と比較していくようになる。そういう気持ちが出てきます。そうなってくると、私たちは知らず知らずのうちに恰好のいい声明、他の方が感心するような声明、そういう野心が出てきます。先生は私の声明を聞いてそれを感じ取られたと思います。

ご門徒の皆さん、「今日の法事の住職さんの声はすばらしかったですね」と、これだけは絶対言わないで下さい。坊さんをいい気にさせるだけです。法事の場は、教えに出遇う場です。坊さんのいい声を聞く場所ではないのです。それでは法事が坊さんを飾るための独演会になってしまいます。そういうお勤めを、野心に汚染された声明といいます。

ご住職方、覚えておいて下さい。大谷派の僧侶の役割は宗祖親鸞聖人の生活、言葉を、声明、儀式、荘厳の作法を通して伝道していくのです。それが住職の役割だと思います。それが失われてくると私たちの声明は野心に汚染された声明になります。どこまでいっても教えに出遇う場所、そのことを忘れたら駄目です。

聞き合う声明 かしずき声明

それと大谷派の声明は「調和の声明」。聞かせる声明ではなく「聞き合う声明」です。報恩講に拝読される『報恩講式文』に「恒(つね)に門徒に語りて」とあります。これは親鸞聖人の精神です。これを僧俗共にといいます。

今回、係の方から二組のお待ち受け大会の時のお言葉をまとめたものを頂きました。ここに門徒会長さんの挨拶の言葉の中に「共同教化、僧俗共に」と出てきます。これは「恒に門徒に語りて」ということです。大谷派の声明はお坊さんが声を出してそれをみんなが聞くのではなく、みんなで一緒に親鸞聖人の言葉を声に出していくのです。それが大谷派のお勤めの大事なことです。ですから大谷派の声明は「聞き合う声明」です。

「浄土和讃」に「清風宝樹をふくときは/いつつの音声いだしつつ/宮商和(きゅうしょう、わ)して自然(じねん)なり」と出てきます。ここに「宮商和して自然なり」。宮という音と商という音は一緒に聞くと非常に不協和音に聞こえてきます。嫌な音に聞こえてくる。しかし、それを和して自然なり。僧俗共に、みんなで一緒に声を出し合っていくことが大事なことです。ですから、大谷派の声明は調和の声明です。これを外したら大谷派の声明ではなくなります。

昔から調和の声明について私たちが気をつけなければならないもの3つあります。1つ目は能音者は声が良すぎてはいけません。声が良すぎると自分の声を人より飛びぬかせようと調和を乱していくからです。2つ目は早合点する者はいけません。これはリズムが良すぎても駄目ということです。リズムが良すぎれば人より先へ先へと進もうとして目立ちたがるから調和を乱します。3つ目は拍子の良すぎる者は駄目です。これは物覚えが良すぎては駄目ということです。声が先走ってみんなと合わせようという気がなくなって調和を乱します。ですから、大谷派の声明の心得として最も問題なのは、声が良すぎ、リズムが良くて、物覚えが良い者ということです。そういう者がいつのまにか、私たちの調和、他の者と合わせようとする気持ちを失っていってしまうのです。

『改邪鈔』(がいじゃしょう)に「それ五音七声(ごいんしちせい)は、人々生得(にんにんしょうとく)のひびきなり」とあります。人々生得のひびきというのは、人にはそれぞれ生まれつき、人それぞれのひびきがあるということです。つまり、声が同じということはあり得ないということです。それぞれの声を大切にしあっていく声明を「同朋唱和」というのです。私に声明を教えてくださった井澤先生は、大谷派の声明を「かしずき声明」と言われていました。『御文』第1帖に「聖人は御同朋・御同行とこそかしずきておおせられけり」とあります。「かしずき」ということです。それは何かというと相手を大切にする声明ということです。

東京二組お待ち受け大会の教化テーマの2つめ「『愚かな凡夫』であるという共通の大地に立って、御同朋御同行として、あらゆる人々と共に生きていきます」という宣言をなさっています。「あらゆる人々と共に生きていきます」を、言葉を変えて言うと「かしずき声明」です。相手を大切にする生き方です。あらゆる人々と共に生きることは、相手を大切にする生き方ということです。これを「かしずき」と言っているのです。相手を大切にしていくのが大谷派の声明です。

皆さんの頭の中から捨ててもらいたいことは、声明に決して上手下手はないのです。それぞれがそれぞれ皆素晴らしい声明をなさっているのです。達者な人が達者でない人の声を聞き、達者でない人は達者な人の声を聞き合っていくのです。それによって、達者でない人は達者な人によって、声が引き出されていくのです。それは「みんなで声を出し合って、喜びを大切にする」声明です。これが大谷派声明です。これを「同朋唱和」というのです。みんなで声を出し合って「あなたも一生懸命お勤めしたね。」「私も一生懸命お勤めさせていただきました」そのことをお互いが喜び合う声明、これが大切なことです。

今から40年前にお亡くなりになった山本市松という方は、日本でも雅楽をなされる方々から見たら、大変名の通った方でした。私が居ました三河別院では、現在でも報恩講等はこの方が作った楽器を使ってお勤めをいたしております。山本市松先生は「全体の演奏の中に、私が吹く音色が溶け込んでしまい、私の音色が吹きながら聞こえなくなっている時こそ、最も良い演奏がされている時なのです。他の楽器の音色の中に溶け込んで、一つになった時、吹く者も聞く者も一体となった素晴らしい演奏になったものだと思います。ここに笙を吹いている私がありますよと特別な音を出したならば、一人だけ目立ちますがこの演奏は全く聞くに堪えないものになります」と言われておりますが、とても大切なご指摘をされていると思います。

今日はご門徒の方々もおられますから、たとえ話で申し上げるなら、アフリカのある種族の方々が1年に一遍種族の運動会というのが開くそうです。運動会ですからいろいろな行事が行われるわけです。その中で種族の方々が特に楽しみにしている種目があって、その種目は綱引きなのです。皆さんも運動会の時にやられたと思いますけれども、だいたい綱引きというのは人数を半分ずつに分けて、それぞれが綱を持って「ヨーイドン」と綱をお互いが引っ張り合って、審判が「ヤメ」といって「〇〇が勝ち!」と言って、勝った方が「バンザイ」と喜ぶのです。だいたい日本の綱引きというのは、そのような綱引きです。それに対してアフリカの種族の綱引きというのは、ちょっと異なっているのです。どういうことかと言いますと、人数を半分に分けて赤組白組に分けて「ヨーイドン」とする。赤の方へ引っ張られていくと審判が「ヤメ!」と言って綱を戻してきて、赤の方の綱を引っ張っていた人を白の方へ動かして再開するのです。今度、綱が白の方へ引っ張られていくと「ヤメ!」と言って真ん中に持って来て、白の方から赤の方へ人を動かしてまた「ヨーイドン」と始めるのだそうです。綱が動いている内は審判員が適当に人を配置換えして、またやり直すのだそうです。何回も何回もやっていくと、配置換えをして始めなさいと綱をお互いが真剣に引っ張り合って、その真剣に引っ張り合った綱が30秒なら30秒一点に止まって動かなくなったら審判が「ヤメ!」というそうです。そうすると赤組と白組の人々が、みんな揃って「バンザイ」と言って喜ぶのだそうです。これが調和ということです。お互いが義を大切にして、それが終わると種族の人たちは声をかけあったり、お互いのことをいたわっていくという精神が身につくのだそうです。私たちの生活の所を見ていますと、勝ち負けばかりが目につきますから、一回学校でそういった綱引きをさせてもよいかもしれないですね。玉入れだったら、両方の玉が一緒になるまでやったらよいのです。そういうことが大切なのではないかと思います。一人だけ目立つということもある意味素晴らしいことかもしれないですけれども、調和ということを考えていくと、そういったことも大事なのではないでしょうか。

大谷派の声明というのは、どこまでいっても「かしずき声明」です。お互いに声を出し合い、お互いを大切にし合っていく声明です。そのことが親鸞聖人の門徒に常に語られている、その親鸞聖人の心に帰っていくのが、大谷派の声明にとって大事なことです。そのことを私は井澤先生から学ばさせてもらいました。

念仏の出る声明

そして、「念仏の出る声明」ということです。大谷派の声明は親鸞聖人が本願念仏の教えに出遇い得た感動に同感するということです。親鸞聖人が本願念仏の教えに遇い得た感動に同感していくこと、これが大谷派の声明の大切なところです。

親鸞聖人が本願念仏の教えに遇い得た感動が示されているのは「正信偈」です。皆さんが常日頃お読みになっている「正信偈」は、親鸞聖人がまさしく本願念仏の教えに遇い得た感動が言葉になったものです。「しかれば大聖の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠なるを信知して、正信念仏偈を作りて曰わく」と『教行信証』行巻に書いておられます。お釈迦さまの真(まこと)の教えに従い、また浄土教の祖師の方がた(七高僧)に書かれたものを拝読して、仏の恩の深いことを信じ、よろこんで「正信偈」をつくると、親鸞聖人はこうおっしゃっています。釈尊あるいは七高僧の方々の本願念仏の教えに出遇った、そのことを親鸞聖人は喜ばれ、それによって「正信偈」をお書きになったのです。

私たちが「正信偈」を読むということは親鸞聖人が本願念仏の教えに出遇った感動に同感していくことです。親鸞聖人の本願念仏の教えに出遇った感動が「正信偈」となって制作されている、その「正信偈」を宗祖親鸞聖人の教えに出遇った人々が、宗祖の御前にて感動をもって宗祖の教えを声に出して伝えてきたことです。それが大谷派の声明の原点です。ですから、宗祖親鸞聖人の御前で「正信偈」「和讃」を声に出して親鸞聖人の教えを私たちが聴聞する。このことが大切なのです。

『蓮如上人御一代記聞書』に「十月二十八日の太夜に、のたまわく、「『正信偈』『和讃』をよみて、仏にも聖人にもまいらせんとおもうか、あさましや。他宗には、つとめをして回向するなり。御流には、他力信心をよくしれとおぼしめして、聖人の『和讃』にそのこころをあそばされたり。ことに、七高僧の御ねんごろなる御釈のこころを、『和讃』にききつくるようにあそばされて、その恩をよくよく存知して、『あらとうとや』と、念仏するは、仏恩の御ことを、聖人の御前にてよろこびもうすこころなり」と、くれぐれ、仰せそうらいき」とあります。現代語訳にしてみますと、「十月二十八日の逮夜を勤められて後に、蓮如上人がご法話をなさいました。「『正信偈』『和讃』をお勤めして、その功徳を仏にも親鸞聖人にもさし向けようと思っているのか、まったく嘆かわしいことである。他宗では、お勤めをして、その功徳を振り向けるということもあるが、わが浄土真宗には、そのようなことはない。如来の本願力回向による信心をいただくようにと思われて、親鸞聖人が『和讃』にそのおこころを表されたのである。とりわけ三国の七高僧の手厚い御解釈のおこころを、誰もが聞き分けるようにと『和讃』になされた。その御恩のほどをよくよくうなずかれて、ああ尊いことよと念仏するのは、仏恩の尊いことを、親鸞聖人の御影前でよろこばせていただく報謝のこころなのである」と、くりかえし仰せられました」という内容です。

私たちが「帰命無量寿如来…」と「正信偈」を親鸞聖人の御前にて読むというのは、信心をいただくということなのです。つまり、大谷派の声明は、宗祖親鸞聖人の言葉をわが身に受け止め、宗祖の教えを聞くことができたよろこびの表現ということです。親鸞聖人の言葉をわが身に受け止め、宗祖の教えを聞くことができたよろこびの表現、このよろこびの表現が念仏の出る声明ということです。

「宗祖を師と仰ぎ、自分が教えを聞くのではなく、宗祖の言葉に自分を聞いていく、そのことを身につけて生きていく」。それが大谷派の僧侶ということです。だから大谷派の僧侶ということはどこまで行っても宗祖の言葉に出遇っていく、その宗祖の言葉を通して自分を聞いていく、その聞法姿勢が大切だということです。

信心で語ること

御文作法に関して、蓮如上人が私たちに教えてくださること、『蓮如上人御一代記聞書』のところに出てくる言葉ですが「『御文』をよみて人に聴聞させんとも、報謝と存ずべし。一句一言も、信の上より申せば、人の信用もあり、また報謝ともなるなり」とあります。「信の上より申せば」、これは『御文』だけではなくて、「正信偈」「和讃」でも一緒です。信の上で申せばということは、拝読する時に、念仏申して信心をいただくならば、必ず他の方々にもそれが伝わっていきますということです。

金子大栄先生が、特別公開講座で、大学を卒業する私たちに「あなたたちはこれからお寺に帰られてご門徒の方々に親鸞聖人の教えを伝えていく、伝道という仕事があなたたちの上に課せられているのです。そのあなたたちがご門徒の方たちを伝道していくときに大事なことは一体何かといったら信心をいただくことです。ただ、信心を語る人は多いが、信心で語る人は少ないのです」とおっしゃったのです。だから大谷派の僧侶というのは親鸞聖人の教えをご門徒の方々に伝道していく、それを伝えていくというのが僧侶としての大切な仕事ですよ。しかし伝えていくときに、信心で語ることを私たちが失ってしまったら、ご門徒の方々の教化になりませんということです。その言葉が「信心を語る人は多いが、信心で語る人は少ないのです」と。念仏を勧める方は多いけれど、自らが念仏申す人は少ないのですと同じのことです。そのことをきちんと心がけなさいということをですね、金子先生がおっしゃったのです。

これも『蓮如上人御一代記聞書』ですが、「蓮如上人、幼少なる者には、まず、「物をよめ」と仰せられ候う。また、その後は、「いかによむとも、復せずは、詮あるべからざる」由、仰せられ候う。ちとこころもつき候えば、「いかに物をよみ、声をよくよみしりたるとも、義理をわきまえてこそ」と仰せられ候う。その後は、「いかに文釈を覚えたりとも、信がなくはいたずらごとよ」と、仰せられ候う」とあります。「信がなくはいたずらごとよ」とおっしゃっているのです。いくら素晴らしいことを多くの方々に伝えても、「信がなくはいたずらごとよ」と。念仏が出てこなかったらいたずらごとだと、おっしゃっているのです。

『御文』はご承知のように代表が読んで皆さん方にそれを教え伝えていくという、伝道の仕方ですね。井澤先生も、私どもが『御文』等を拝読するときには、その御文さまが皆様方に伝えられるためには、読者として大事な心構えは、まず自分が心の中で南無阿弥陀仏と念仏申してから「末代無智の在家止住の男女たらんともがらは…」とこう読んでいきなさいと。そうしないとせっかくの蓮如上人様の御化道(ごけどう)が皆さんのところに伝わりません。ですから、まず『御文』を拝読する前には必ず自分が南無阿弥陀仏と念仏申してから「末代無智の…」と読んでいくような、そういう読み方を心がけなさいということをおっしゃいました。

お勤めを始めると、どうしても私たちはある程度熟達してくると、自分のお勤めを他のものに聞かせていこう、良い声で良い節でみんなに聞かせてやろうという気持ちが自分の中にどうしても出てきます。その私たちの気持ちを、勤行前に南無阿弥陀仏と手を合わせるということを通して「自我を崩壊」させるんです。金子先生は、「念仏は自我崩壊の響きなり」ということをおっしゃっています。自我崩壊の響き。今からお勤めを始めますというようなときにはどうしても私たちは、他の方を意識して自分のお勤めをちょっとでも褒めてもらえるような、そういうお勤めをしたいという気持ちが自分の中に出てくると。それを戒めてくださる、これを「自我崩壊の響き」とおっしゃっているのです。

勤行後のお念仏は、皆さんと一緒に親鸞聖人様の本願、教えに出遇わせてもらえたという、ありがたいことだなと、そのことを私たちはそのことを喜ろこばせていただくのです。最初のお念仏は「自我崩壊の響き」。勤行が終わった後は「自己誕生の産声」。そうしたことが実は私たちにとって大切なことだと教えられております。

声明と教化

よく皆さん方が誤解されるのは、「声明と教化」ということです。こちらに声明があって、あちらに教化があると私たちは受け止めるのです。そうではなくて教化の中の一つが声明なのです。ですから声明も教化なのです。親鸞聖人の教えを私たちが伝えていくということは、声明を通して、あるいは儀式を通して、荘厳を通して伝えていくのです。それが教化ということなのです。別のものではないのです。

私が非常に大事にしている言葉、この言葉を紹介して、お話を終わります。「法式(ほっしき)作法失すれば、正法滅す」。自分のノートなどに必ずこの言葉を書くことにしているのです。お勤めも、荘厳も儀式にしても曖昧にしてしまう。自分が自分で妥協してしまう。そうすると「正法滅す」、正しい教えは伝わりません。

ご門徒の方々が一生懸命お勤めをすることで私の所へ教えが響いてくるのです。お坊さん方もお預かりしたお寺で儀式を一生懸命勤めることで、正しい教えとして伝承されていく。大谷派の声明は親鸞聖人の教えをご門徒の方々と一緒に聞いていく、それが大事なことなのです。

今日は門徒の方もおられるということで、深くつっこむということを遠慮させていただいて、大事にしております野心に汚染された声明はするな、声明はどこまでいっても自分を飾る道具ではないよということを大事にしていく。それと同時に大谷派の声明は親鸞聖人の教えをご門徒の方々と一緒に聞いていく。親鸞聖人は常に門徒に立たれておっしゃったのです。御同朋御同行の精神がかしずいていくということが私たちにとって大事なことではないでしょうか。それが大谷声明のもっとも大事にしていかなければならないことだと、伊澤先生からきつく叩かれました。「野心に汚染された声明、それは菩薩の死だぞ」という先生の言葉を大切にしたいと思います。(了)

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