あなかしこ 第61号

門徒随想

前号に引き続き「門徒随想」を書くご縁をいただきました。それは堀田護先生との出遇いが私に数々の感動をあたえてくださったからです。6月22日に蓮光寺で、そして9月14日には竹の塚の常福寺で堀田先生の法話を拝聴しました。6月の法話は「法話のページ」に掲載されているので、ここでは9月の法話について感じたことを書かせていただきます。

堀田先生の法話は、真宗の教えの要、つまり「人間とは何か」「人間に成るとはどういうことか」を、生活を通して語られ、とても感動しました。「人であることを前提とするのではなく、人であることを問うことを出発点としなさい」と言われた時、どこまで自分を問うてきたのか、また、そのことを子どもや孫と共有してきたのだろうかと振り返る時、ただただ慙愧(ざんき)の念が堪えません。

私は、私を育てた曾祖母から「虫であろうとも命を持っているものをむやみに殺してはいけないよ。どんないのちも尊いよ」と絶えず教えていただきました。71歳になろうとする今、自分の子どもや孫に、このことを伝え育ててきたのだろうかと思い返すのでした。

堀田先生は「今の子どもたちは合掌すること、そしてお互いが認め合う世界があることを親から教えられていない。これでは、子どもたちが大人となり、親となって作りあげる社会は、いのちの尊さを忘れてしまう社会になる」と言われました。いのちの尊さに合掌できる人間に成ることが大事だと。「母親が人間と成って生きたら子どもも人間に成ります」「手を合わせる智慧と慈悲を身にいただかないならば、子どもも育たない」「しかも人間はこの智慧と慈悲を自ら育てる力を持っていない。それをいただくには、それを大切に生きている人(よき人)に出遇い、その人を通してお育てをいただかねばならない」。堀田先生の言葉一つひとつが私に響いてくるのでした。親鸞聖人もよき人である法然上人に出遇い、法然上人のなかに生きてはたらいている智慧と慈悲にふれられたことをあらためて思ったことです。

浄土とは、合掌し合う世界、拝みあう世界、そしてそのことを私たちに呼びかける世界なのでしょう。それは合掌を忘れている私たちを呼び覚ましていく世界といってもいいでしょう。そして、具体的には、家庭の中で合掌できる場があることが大切なのでしょう。お内仏の生活です。確かに人間だけが手を合わせることができるのです。それが人間であることを示すのでしょう。動物は生存しているが、人間は生活しています。生活の生とは他人のいのちを生かし、活とはもののいのちを生かすと言われています。自分をふりかえってみれば、そのことが本当にできているかと問われれば、申し訳ないと慙愧するしかありません。しかし、慙愧することから合掌が始まると思っています。それがまた子どもや孫に伝わっていく機縁となっていくということに、とても励まされました。私がよき人になって子どもたちに教えようというのは傲慢ですね。私自身が教えに問われ続けることが、そのまま次代に伝わっていくこと、このことを大切に歩んでいきたいと思います。

西川雅孝(釋眞敬) 70歳
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