あなかしこ 第60号

法話 - 東京二組C班「いのちのふれあいゼミナール」

開催日 2016年3月5日(土)
会場 蓮光寺
講題 老いと死の自覚
講師 畠中光享先生 日本画家 真宗大谷派僧侶 68歳

仏法に出遇う難しさ

  • 畠中光享先生

みなさん、ただいまご紹介いただきました畠中です。よろしくお願いいたします。

私たちははいつも「三帰依文」を唱えます。「人身受け難し、そして三宝に帰依する」ということを仏教徒として自覚するためです。聖徳太子は「篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧なり」ということをおっしゃっています。仏・法・僧(僧伽)の三宝に帰依することが仏教徒の有り様です。

「無上甚深微妙(みみょう)の法は、百千萬劫(ごう)にも遭遇(あいあ)うこと難し」と言われますように、仏の教えというのは、本当に出遇い難いものです。「百千萬劫」という長さは、ものすごく長い時間を表しています。「一劫」という単位は、百年に一回ヒマラヤに天女が降りて来て、袖が擦れて山が減り、それでヒマラヤの山がなくなって、その擦れたのが他に積もって一つの山が出来たという時間を表しています。または大きな倉の中に百年に一回風が吹いてケシの粒が飛んだ。それが飛んでなくなって、別の倉一杯になったというのが一劫の長さです。ですから、「百千萬劫にも遭遇うこと難し」というのは、それほどおそろしく長く、仏法に出遇えることが困難であるということを表しています。

覚りを開くというのは、簡単なことではありません。お釈迦さまは永らく禅定に入られました。禅定というのは、日本では座禅を表しますが、「座る」ということなのです。仏教徒にとって「座る」ということはとても大事なことだと思います。

お内仏(お仏壇)があって、仏さまの前に座って、念仏を称えることが私たち真宗門徒にとって、とても大事なことです。私は遅く帰って来ても「仏さまの前に座る」ことを実践しています。これは、一日の自分を省みることによって次の糧にもなっているのです。私たちは、過去にこだわります。30歳であれば30年の歴史があり、60歳であれば60年の歴史があるわけです。こだわりを捨ててしまうということはできませんから、これまでの歩んだ歴史を踏まえ、これからどう生きていきましょうかということを考えるのが一番大事であり、それを問いたずねていくことが仏教なのではないでしょうか。その仏教に出遇っていくことの難しさを三帰依文は教えてくださっています。

絵を描くことの行き詰まりを縁として ―仏教との出遇い―

私は42年前、絵を描くことへの行き詰まりが縁となって、初めてインドに行きました。

お寺に生まれたことが一つのきっかけで、美術大学へは進まず、大谷大学に入学したのですが、大学の勉強も絵を描くことも両方ともしっかりやろうと、朝から夜遅くまでずっと学校で学んでいました。当時は「絵空事は描きたくない」という強い思いがあったので、現実に則したものだけを描いていました。でも、自然を自然のまま表現することなどできないのです。ここで行き詰まってしまったのです。

どうしようかと悩んでいた頃、京都大学でインド美術を研究されていた上野照夫先生という方に出会い、それから週に1回ほど会うようになりました。この上野照夫先生の影響が大きかったのですが、インドに心惹かれた理由は、ヨーロッパとも中国とも違ったインド美術を自分の眼で見て、自分が心から頷けるような絵を描きたかったからなのです。

インドでは、様々な遺跡や博物館、諸寺院へ行っては、写生をするといった生活をしていました。写生して気づかされたことがあります。それは自然から学ぶということです。自然から感じ、どんなものでも写生をするということなのです。けっして頭で描くのではないのです。そうやってとらわれて行き詰まっていったことに気づかされました。

そんな生活を10年ほど続けた頃、お釈迦さまはもちろんですが、特に親鸞聖人がどのように仏教を感得されていったのかなということを、絵を描きながら考えるようになっていったのです。

今の日本は絵というものも経済枠でしか捉えないようになってしまいました。絵が良い悪いではなく、今やコマーシャル(商業)、宣伝の時代です。画家も名が売れているのかどうかで、絵の値段が違うのが実情です。仏教はそういう見方をしていないと思います。コマーシャルに流されるのではなく、物事の本質を見よ、生老病死の事実を見よ。こういった仏教の基本精神を私はインドに行って自分の眼で確かめていったのです。絵を通して、遇い難き仏法に出遇っていくことができたのだと思います。

なぜ人間だけが絵が描けるかというと、人類誕生以来、老病死やこころの問題である愛や憎しみ、欲望などの問題は何一つ解決していないのです。人間誕生以来、人間は苦悩の身を生きているのです。ずっと人間の本質は変わっていません。実は、その苦悩があるから、絵を描くことができるのです。生老病死を感じ考えることができるのは人間特有のことです。ですから、私は、絵を描くことによって「生きるとは」「死ぬとは」という人間の根本的課題を問い続けているのです。

ですから大切なことは古典に学んでいくことです。「古いものにこだわらない。新しいものに惑わされない」というお釈迦さまの言葉が腑に落ちます。古いものにこだわらないためには、古いことも学び、知ることがないとできません。そして、新しいものに惑わされないというのは、今の世の中の風潮に惑わされるのではなく、「一人として立つ」ということです。

歴史への深い感動

人間の根本的課題に一番向き合えるのは、葬儀をはじめとした、いわゆる通過儀礼の時なのです。生まれてよかったとか、子どもが出来たとか、親の死を通して、生きるとは何かと考えたり、親がこんなにありがかったのかとか思うわけです。そういう時にこそ仏心、素直に聞ける心が出てくるわけです。

そういう儀礼のときに、法を説くということはとっても大事なことだと思います。そういった折々に、お釈迦さまはその場に応じて法を説かれていったのです。法を説くという仏教の本質的なことがなければ仏教とは言えないと思います。

「お経」といいますが、経とは縦糸のことです。教えがあって、そこに短い文章、インドは古い時は短い詩句でもって書かれています。それを縦糸として、横糸を下に通して布を織っていくでしょう。大きな教えのところに細かい詩句が入っていって出来上がったものが「お経」なのです。

ただ、お釈迦さまが生きておられる時は、経典はまったく編纂されませんでした。それは、インドでは聞いて覚えていくという口伝の習慣があったからです。やはり伝言ゲームのように、後になればなるほど教えが変わってしまうので、お釈迦さまの言葉をきちんと残そうと、後の人たちが経典の編纂を始めたのです。

千二百年、三百年近く経って来ますと、曇鸞大師の『浄土論註』に代表されるような様々な注釈書が作られて来ます。これらは、あまり自分の言葉で書くようなものではないのです。親鸞聖人の『教行信証』も、ご自分の言葉(ご自釈)は少なく、ほとんどが引用です。

引用ということは、その人の生きる上での確信を表しているものなのです。つまり、自分の思いを破って自分に教えが今届いたということが引用という形になっている。教えの伝承が自分に届いたという歴史への深い感動があるのです。絵を描くということもそれがすごく大切で、私が一番大事にしている部分でもあります。

お釈迦さまの教えを受け継ぐ親鸞聖人

インドの美術、インドの初期の仏教から、仏教そのものを見ていきますと、お釈迦さまの教えを本当に受け継いでいるのは親鸞聖人だと確信しています。「誰もが仏に成る」という大乗仏教の教えを実践されて生きていかれた。そして、その願いを苦悩の中で必死に求め続けていたのがお釈迦さまであり、親鸞聖人であったと思えるのです。

お釈迦さまが35歳で覚りを開かれますが、それまでは菩薩です。仏になるための修行しているのです。いわば、皆さん方も菩薩行にあるわけです。「この私が仏になりたい」これがなかったら仏教でも、浄土真宗でもないのです。「私は仏になりたい」と自分が願う以前に、実は仏そのものが私たちに「仏になりなさい」と願ってくださっているのです。南無阿弥陀仏ということが、この私にまで届いているからこそ、私たちは歩むことができるのでしょう。

親鸞聖人は法然上人の中の10番目かもっと下の弟子だと言われていますが、教学的に考えたらとても重要な人なのです。法然上人の後を引き継いでいく人だったのです。親鸞聖人が越後に流罪になった時、もちろん今のような北陸道はなく、おそらく琵琶湖から今津の方、西の下の方まで船で渡って、そこから敦賀の方に抜け、海岸沿いに行ったのだろうと思われます。流罪を解かれると、道があったのは長野の善光寺経由の道です。それで長野あたりまで帰られるのですが、そこで親鸞聖人は法然上人が亡くなった時の葬儀の様子を聞くわけです。それは浄土の教えに乗じた葬儀ではなかったのです。親鸞聖人はそのことを知りがっかりして関東に戻られるのが真実なのです。法然上人がおっしゃっていたことと、法然門下である浄土門の人がやっていることとが違うではないかということです。それ以後、親鸞聖人は一層法然上人の歩まれた道を実践していかれるのです。それはそのままお釈迦さまの教えを受け継がれていったということなのです。誰もが仏に成る教えが大乗仏教ですから、その願いを苦悩の中で求め続けられた。親鸞聖人は「念仏成仏これ真宗」とはっきりと言われています。

道理に生きる

私は、あまり若い時に、仏教にはまってほしくないと思っています。つまり、安直に仏教がわかったような人ができたら困るという意味で言っているのです。「百千萬劫にも遭遇うこと難し」ですからね。ある歳になって、病気を知って、歳を知って、死ぬことをぼちぼち知ってきた年代と、知らない年代とでは、本当の意味で仏教が身近になっていかないのです。本当に自分自身の問題にならないと、教えが響いてこないのです。

あらゆるものは必ず移りゆくのが道理です。人間は生まれた時から苦しみがあり、老いたり、病気をしたりして苦しみがわかるということがあるでしょう。私は、5、6年前、親の遺伝で静脈瘤(りゅう)が身体にたくさん出たのです。手術をしましたら、これが神経に当たって本当に痛くてたまりませんでした。やはり、痛み苦しみというのは、その身になってみないとわからないものなのです。そういった点で、諸行無常であることを、我が身に引きかえて考えるものなのでしょう。

今回、インドの1ヶ月半の調査では、一番たくさん死を見ました。目の前で死ぬ人を10人位は見ました。インドには13億の人間がいます。生まれてすぐ、へその緒がついたままの赤子の死も一度見ました。日本では死に場所が病院になってしまっているのです。バングラデシュでは一千万人位の難民がいました。犬や鳥がたくさんいるにも関わらず誰もそれを食べないで、人々は餓死していくのです。亡くなっていく人を一日に30人位は見ました。

そんな経験をして日本に帰り、絵を描くのです。やはり自然に生きるということが大切なのです。自然なことが自然でなくなってしまっているのではないでしょうか。先ほども言いましたように、自分の頭でつくりあげるのではなく、自然から教えてもらうことが大切なのです。私たちは10歳若く見せようと努力したりしますが、人はいつか必ず病気になり、年をとって死んでいくものなのです。これは間違いようのない事実です。お釈迦さまは「人間は生まれてから死ぬまで、人に引かれる牛のようだ」とお話されています。陶工が作った素焼きの壺は必ず壊れます。熟したプラムも必ず落ちます。人は生まれてきたら、あっという間に死んでいくのだということを、自然や道理から私たちは教えられているのです。生老病死、四苦八苦は人間だけのことなのです。動物は自然のまま生きて、自然のまま死んでいくのです。人間だから悩みがあるのです。

ただ、悩みがあることと、驕りとはいっしょにしてはなりません。年をとった人を見て「私の方が若い」と思う。これは驕りです。病気して気の毒だと思う。これも自分は元気だという驕りです。亡くなってかわいそうにというけれども、これも自分が生きているという驕りです。私たちが、自分の価値判断や社会状況に流され過ぎないことです。

老年の人を経済効果がないから、役立たずという目で見るけれど、経済効果がなくても人は人で生きて来ているのです。全部が同じ人間だというスタンスがなかったら、本当に差別になってしまいます。資本主義の社会で役に立たなくなったらもう用はない。どれだけ年金を削ろうかという視点でしか見ないのです。

以前は歳をとった人は尊敬されていました。総理大臣を大老と言い、内閣のことを老中と言っていました。わからないことはご隠居に聞けと言われていました。今ではご隠居と言ったら暇人のように受け取られます。年寄りは年寄りとしての役目が必ずあるのです。私たちは、コマーシャルや現代の経済的価値観に流されてはいけないと思います。

怠らず、努力せよ

お釈迦さまは80歳で亡くなられますが、死への旅路で『大般涅槃経』を説かれます。その中でお釈迦さまは「私は疲れた。横になりたい。水を持って来てくれ」とおっしゃいました。自分が生まれたカピラ城に向かいますが、その途中のクシナガラという所で涅槃に入られます

その最後の説法というのが「怠らず、努力せよ」です。このお釈迦さまの言葉は、私の人生の指針になっているのです。これは、筋トレのような肉体的な努力ではなく、こころや精神の努力をいっているのです。老いは老いのままに、病は病のままに、私たちは縁を生きる存在でありますけれども、その中で怠らず、努力できる道が与えられていて、生きていけるわけです。そういった大乗仏教の教えを実践し、仏に成る道を歩む。そういった仏道を生き、次の世代にも伝えていく。それが今生きている私たちの責任なのではないでしょうか。

「老いと死の自覚」というテーマに直接応える形ではあまりお話をいたしませんでしたが、私の話のなかに生老病死の身を生きるということが、どういうことなのかということを皆さんが感じ取ってくださればありがたいことです。(了)

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