あなかしこ 第60号

門徒随想

本多住職から、日ごろ課題としていることを書くように依頼されたので、「今の私の了解として」と題して少し書いてみようと思います。

穢土、忍土、あるいは現実世界に、私は「生きています」。ここは苦の世界であり、愛あり、欲ありで、全ての行動が自己本位であり、そういうところにしか生きられない人間でしかありません。浄土、安養土、あるいは真実世界に「生かされている」というにはほど遠い人間です。

阿弥陀如来は、このような苦悩に満ちた人間こそ、摂めとって捨てない(摂取不捨)という本願を立てられた。如来は本願を立てざるを得ないほど、私たちの迷いは深いのです。そうして私たち凡夫の上に、本願の名号を回向してくださったのです。「生かされている」世界に気づかされたことが救われたと言うか、近づくことが出来たと言うべきなのでしょうか。それでも私の生きている世界は煩悩にまみれ、その煩悩を生きがいとしている世界に生きている事実は間違いありません。

このような現実世界、真実世界という二律背反の道理に生きている私にとって、真宗(真のよりどころ)としての道場である寺の存在は、真実世界を知り、現実世界を生きていくうえで、具体的にどのように生きたらよいかという聞法の場を提供するものです。

如来の本願力回向は、この穢土、忍土である現実世界からも「不退であれ」、そして、浄土、安養土である真実世界からも「不退であれ」と呼びかけ続けていると了解しています。本願が「南無阿弥陀仏」の名号となって、私を生かしめていると、唯々信順いたしております。

私は今、70歳と半年になります。私は祖母や父が私と同年の時、「何を願っていたのか」と想いおこされます。私が今こうして了解していることも、祖母や父が私に伝えてくれたことだったのではないかと感じています。私が仏に成るべき身として、浄土の功徳をいただきながら生き、人生を全うして浄土に還っていった後も、子や孫に念仏相続が成り立って、この大地をしっかりした足取りで歩いて行ってほしいと願うばかりです。

西川雅孝(釋眞敬) 70歳
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