あなかしこ 「門徒倶楽部」機関紙

門徒随想

ここ数年、何かと都内のお寺様に参らせていただく事が多くなりました。お声を掛けていただけるのを幸いに、埼玉の吉川から電車を乗り継いで伺っています。

その電車の中で、何度となく聞くようになったのが、「人身事故により遅れが発生しています」「当駅で停車します」「○○線に乗り換えて下さい」等の車内放送です。それを聞くと、「仕方が無い、遅れぬようにあの線に乗り換えて」と、さっさと移動します。他人事ほど軽いものは有りません。そして、時間に間に合ったと法座に座り込んで安堵している私が居ます。

大悲はいつも阿弥陀様にあずけて、耳の遠い私が聞こえたつもりになって頷いたりしています。世間智は私にいつも都合良く囁きかけて、そうだそうだと共感する喜びや、いや、それは違うと正義に立たせたり、甘い悲嘆に酔わせてくれたりします。どこまで行っても人ごとで、我が身を通る事はございません。

善導大師は二河白道で凡夫の代表として、行者を立てられた。仏道修行の行者が三定死と云う究極的な立場に立たされて、初めて仏の声を聞く事が出来た。本願に出遇う事により、法、道理に頷く事が出来た。その事により三毒の煩悩が障りならずあの白道を走り往生を得たと。でも、もしかして現世においては、あの白道を走り出さずとも、仏の声を聞く、道理に深く頷く事が出来れば、阿弥陀の本願の到り届いていることにとどまれる。そう云う事では無かったかと、思えています。

私の悲しい性で、頷いたつもりであらがったりしてしまいます。そんな私にさえも、親鸞聖人は「逃ぐるを追わえとるなり」と、阿弥陀の本願が呼びかけているのだと、教えて下さっているように思えています。教えを聞きながら私の中で、いつも興っては消えてゆくのは、問いなのだろうか? 疑いなのだろうか? それとも無智そのものか?(了)

荒木正 (釋正智、68歳)

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