あなかしこ 「門徒倶楽部」機関紙

東京二組C班「いのちのふれあいゼミナール」

2014年2月6日(土) 於:源信寺

講師: 鈴木君代先生 (真宗大谷派僧侶、シンガーソングライター)

講題: 「悲しみを包んで超える道」

私にとって「宗祖」とは

【歌】 
如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も 骨をくだきても謝すべし あなたはあなたを遇いますように 私は私として生きれますようにどんなに辛くて苦しいことに出遇っても命の限り生きてほしいと願われている。たった、たった一人の、たった、たった一人の誰とも、誰とも変わることのできないあなたに 今、今この本当出遇いたい。一緒に、一緒にいのちの、いのちの花を咲かせよう。誰とも比べることのできない、ここにいる、かけがいのない、たった一人のあなたとこれからも出遇い続けていきたい、いつもこの、どんなに辛いことがあったとしても、あなたに出遇うことができたいのちの不思議をかみしめていく。ずっと、ずっと私たちは南無阿弥陀仏のもとで出遇い続けたい。ずっと、ずっと、ずっとあなたが寝ている時も、忘れている時も、この場所で、南無阿弥陀仏と呼びかけられている。ずっと、ずっと、あなたが無理をしないで、あなたの中で、この源信寺の本堂で南無阿弥陀仏と呼びかけられている。一体何のために生まれてきたのかって思う、何のために今、今ここにいるのかって思う。どんなこともどんなに、どんなに辛くて、悲しかったあの出来事も、今ここで、あなたのいのちの言葉に遇うためだった。昨日の私は、もう今日の、もう今日の私でないように。一瞬、一瞬私もあなたもオギャーって泣き声をあげて生まれ続けていく。明日の私はもう今日の、もう今日の私でないように。今を、この大切な今を、かけがいのないあなたと今生きている。形としてのあなたはもう何処を、もう何処を探してもいないけど、確かに私たちはいのちの願いの言葉を聞いたんだ。今、七百五十年の時を超えて南無阿弥陀仏の言葉が届けられる。今こそここに立って、立って、立って歩き出す。今がその時。今、七百五十年の時を超えて南無阿弥陀仏の願いが届けられる、あなたに。たった一人のあなたに。あなたの言葉にもう一度会うために。今、七百五十年の時を超えて、南無阿弥陀仏の願いが届けられる、あなたに。誰とも代わることのできない、あなたの願いの言葉に遇うために。ずっとずっと、あなたと生きていく、いっしょに、南無阿弥陀仏と一緒にいのちの、いのちの花を咲かせよう

ただいまご紹介をいただきました、京都から参りました鈴木君代と申します。私は京都のご本山でお勤めをさせて頂いております。世界中から、親鸞聖人の遺骨の収まっている場所に、大切な方の納骨をされたい、自分も納骨していただきたいと、願われた方々が納骨される場所の受付や応対をさせていただいています。

親鸞聖人を「宗祖」といいますけれども、何の宗祖かということを最近あらためて考えています。それこそ私たちにとって親鸞聖人は何の宗祖なのか。2011年には親鸞聖人七百五十回御遠忌が勤まりました。皆さんの中で七百五十回忌の法事をしたといわれる方はいらっしゃらないと思います。それこそ顔の見える方のお仏事をなされるかも知れないですが、それでも五十回忌までだと思います。

しかしながら、「如来大悲の恩徳は/身を粉にしても報ずべし/師主知識の恩徳も/骨を砕きても謝すべし」という恩徳讃は、真宗門徒であればご存じだと思います。そして、先ほど皆さんと唱和しました「帰命無量壽如来/南無不可思議光」という「正信偈」は、親鸞聖人が、お念仏の教え、阿弥陀如来のご本願を、生まれた時代も生きた土地も違う方々に、そして自分にまで届けてくださったという感動を持って表された偈(うた)なのです。お釈迦様からインドと中国と日本の七人の高僧たち、龍樹、天親、曇鸞、道綽、善導、源信、源空の先達から、そしてその教えに生きた人を通して、私が本当にこの願いの世界に遇わせていただくことができたという感動を表されたのが「正信偈」です。それこそ、それが私たちにまで届けられたから、私は「宗祖」とお呼びするのだろうと思います。

大谷祖廟のことを申しますと、親鸞聖人の御骨が収まっている場所なのですけれども、親鸞聖人は、自分が死んでしまうようなことがあれば、亡きがらを鴨川に流して、魚に与えてもらいたいと遺言されました。でも皆さん、己が身に引き当てて頂いたらおわかりになると思います。いとしい大切な方が、自分が死んだら隅田川に流してくれと言われても流せないと思います。親鸞聖人の本願念仏の教えを聞いたお弟子さんたち、いわゆる御同行と言われる方々は、それが出来ず、京都の東山区鳥辺野という場所で荼毘に伏し、その遺骨を収めるお堂を建てたのです。お堂とは、教えを確かめ続け伝わっていく大切な場所であります。

親鸞聖人が亡くなったのは11月28日ですから、とりわけ毎月28日になると親鸞聖人の本願念仏の教えはこのようなものであったと確かめ続けていかれた。これが、七百五十年経っても私たちにお念仏の教えが伝わっている事実です。大切な場所です。その御同行が集まって親鸞聖人の御遺骨を収める御堂を建てて、これが実は本願寺の始まりです。これがなければ私たちは、もしかしたら南無阿弥陀仏の教えにお遇いすることができなかったかも知れません。そうすると、皆さんともこの源信寺の御堂で、手を合わせて「正信偈」をお勤めすることはなかったかも知れないのです。

亡くなられた754年前、親鸞聖人の亡きがらを鴨川に流していれば、もしかしたら私たちは親鸞聖人に遇うことができなかったかもしれません。私は、自分が勤めさせてもらっているこの場所が、亡き方と再びお会いすることを通して、私自身にも出遇い、教えにも出遇い、大事な場所なのだと教えられました。東京では最近、直葬ということが増えていき、お葬式もお通夜も簡単になっているということを聞きます。葬儀や通夜、納骨などの法事、仏事ということが、とても大事だと思います。それには真宗の仏事には法話が大事なのだということです。教えを聞いていく、亡き人が私たちにどういうことを伝えて下さったのかを聞いていくのです。私はその願いに出遇う場所が、すべてのお仏事なのだと思います。

亡き人の願い 「念仏申し、あなたになってくれ」

私は高倉健さんが好きなのです。最後の「あなたへ」という映画も見ました。自分の妻が遺言で、長崎県のはるか遠い所に自分の白骨を撒いてもらいたいという話です。あれを見て、皆さんが海に白骨を撒くようなったらどうなるのだろうとすごく心配しました。実際に海に撒いた方がいるのですが、その後どうしていいのかわからないと仰っておられました。お骨はその人ではないのですが、人間はとてつもなく弱いものですから、手を合わせる場が欲しいという話を聞いて、私も本当にそうだと思いました。私も大谷祖廟という所にお勤めをさせてもらった時に、親鸞聖人は父母の供養をされないのに、どうしてお経をあげたりするのかと、私の先生であった和田稠先生にお聞きしたことがありました。先生は、それはあなたの傲慢だと言われました。大谷祖廟に来られるすべての人を如来聖人の大切なお客人として、お待ち受けすることがあなたの大事な御用なのですから、それを外してはいけないと言われました。

先生は「人間は弱いものなのです。あなたの気持ちも分からないではないけれども、どこかで亡くなっていった大切な人と繋がっていたいと思うものです。そのことを忘れてはなりません」ということを私に言ってくださいました。追善供養することが真宗の仏事のあり方なのかと問うた時に、そうではなく法要を通して出遇っていく世界があり、そこには、ただお経をあげるだけではなくて、教えを聞き、私たちに願われている願いの世界を伝えなくてはならないということがわかりました。

伝統的な真宗のお墓は南無阿弥陀仏と書いてあります。あれは何々家の墓ではなくて、南無阿弥陀仏の世界に戻っていくということです。亡き人を念仏者として、南無阿弥陀仏そのものとしていただき直していくというのが真宗のお墓のあり方だと思いますし、亡き人のいただき方であろうと思います。辛くて悲しい毎日を送らなければならないのですが、私たちが寝ている時も忘れている時もどんな時も、浄土から本当のあなたになってくれと願ってくださっているのです。和田先生が亡くなって九年目になります。私は先生の御棺にすがって泣きました。たくさん泣きました。人間は泣くことが大事です。それから再び出遇っていく世界、歩いていくことができる世界があるのだと思います。

私は「白骨の御文」も大好きですが、自分の中でわかったつもりになっていたのです。人間は死んでいかなくてはならない、朝に元気に出かけて行くが夕方には白骨となるかも知れない、そのようないのちの姿をいま私たちは生きているのだと。今日かも知れない明日かも知れない、あなたかも知れないし私かも知れない。いくら親戚や家族が嘆いて悲しんでも、その人はもう戻ってくることはないのだと。だからこそ、私たちは本当の教えや本当の願いに出遇って、南無阿弥陀仏とお念仏を申してあなたになる道を歩いて行ってくれということなのだとわかっていたのです。何回いただいても私たち人間は忘れてしまう存在ですから、くり返しいただき続けることが蓮如上人のお手紙の願いなのだと思い、そのお手紙に曲を付けて歌ってみます。

【歌】 
「夫れ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ」

わかったつもりになっていたのですが、実はわかってはいなかったということを、大切な人の白骨が私に教えてくださったのです。私たちは、大切な人とお別れをしていかなければならないのです。老いていくこと病んでいくこと死んでいくこと、人間の心理として見たくないということがあるかと思います。お釈迦さまは、「老病死を見て世の非常を悟る」と言われています。老病死を見て世の常ならざることを、私たちは悟っていくのだと教えてくださっています。実は老病死を見ないようにするということは、生きていることを見ないようにすることと同じです。長崎の女子高生が友達を殺して、人を殺してみたかったと言ったそうですが、それは何かというと、最近の子どもたちは老人と一緒に暮らしていませんから、老人を知らないのです。老いていくことがわからないわけです。病気の人も知りません。さらに、もっと悲しいことは、わざわざ学校を休ませてまで、葬式やお通夜に出る必要が無いと思っている人がたくさんおられます。だから、死というものを知らないのです。小さい子どもさんたちは、死体に触れたことが無い。これは大事なことであります。

浄土 ― 存在の故郷(ふるさと)―

私の祖母は早くに亡くなりました。ほほを触ったら固くて冷たくて、今でもその感触を覚えています。祖母の周りで母親たちが、泣きながら祖母にお化粧をしていました。死ぬということは冷たくなること、「おばあちゃん」と声をかけても返事をすることができなくなることなのだと。縁がある人たちが泣くこと、悲しむことなのだということを初めて知りました。死んだらどうなるか、小さい子どもさんはわかりませんから、これは誰の問題かというと、みんな社会の問題にしますけれども、社会の問題ではなく、私自身の問題です。これが「後生の一大事」ということであろうかと思います。私たちは何のために生まれてきたのだろうと、そのことを何回も繰り返し問い、聞き尋ねていかれた方が親鸞聖人です。何のために私たちは生まれてきたのか、このこと一つがはっきりしないままでは、生きていくことも死んでいくこともできないのです。

「釈迦如来かくれましまして、二千餘年になりたまふ、正像の二時はおわりにき、如来の遺弟悲泣せよ」というご和讃があります。お釈迦様が亡くなって2千年以上も経って末法の時代と言われ、私たちは本当に悲しむべき時なのだと言われています。「親鸞聖人かくれましまして、七百五十四年になりたもう。正像の二時はおわりにき、それこそ如来の遺弟悲泣せよ」─。御同行は今悲しむべき時、動くべき時なのです。私たちが本当に何の為に生まれてきたのか。動くべき時が今来ているのだと、私たちは社会から問われているのではいでしょうか。

NHK朝の連続ドラマで「花子とアン」というのがありました。ちょうどこの国が戦争に向かっていくのかどうかという時の話です。ブラックバーンというカナダ人の校長先生が、戦争が始まって国に帰らなくてはならなくなった時に、飛行機が飛んでいくのを見て、あの飛行機を平和に活用するのか、戦に活用するのか、今この国は岐路に立たされていると言われたのです。本当にそうだと思いました。

憲法第9条のおかげで自衛隊の人たちは今まで戦争で一人も死ぬことはありませんでした。この国が本当に戦後69年目で岐路に立たされています。和田先生は戦争に3回行って、南方の島で終戦を迎えられました。戦後生まれの私に最後まで、死ぬぎりぎりまで何を教えてくださったのかというと、戦争は人間が人間でなくなるから、絶対してはならないと私に教えてくださいました。そのことを聞いて先生に遇わせていただいたことを喜んできたので、先生が亡くなった時にはたくさん泣きました。和歌山県のある住職さんに「あなた先生の何を聞いてきたの? 先生が願っていた世界に出遇うことが、あなたのするべきことなのではないか」と言われました。このこと一つがはたらく。それは誰もが共に生きたいという人間の根源的欲求、根っこの部分であるのではないかと思います。

人間が動くという背景には、このこと一つという願いがはたらいています。それはどんな人も共に生きたいということです。親鸞聖人は、真実を教えてくださっています。真実というのは、それこそ誰でもが頷くことのできる世界です。誰でも人を殺したいということはなく、根っこの部分で、どんな人も対等に出遇って、出遇い続けたいと。喧嘩をしても、嫌な人だと思っても、顔を見たくないと思っても、実は根っこの部分では本当に出遇いたいのだという、それが親鸞聖人のいただかれたお念仏の教えであり、本願真実と言われるものではないかと思います。

それで、先生に再会すべきではないかと言われて作った歌が、「兵戈無用」という歌です。大無量寿経という親鸞聖人が「真実の教え、大無量寿経これなり」といわれたその大無量寿経というお経の下巻に出てくる言葉です。国豊かにして民安らかなり、兵戈が用いること無し。兵戈というのは兵隊と武器の意味です。兵隊も武器も用いることなし。それが、本当に私たちが浄土の往生人として共に生き生きと暮らせる世界なのだとお経の中で歌われています。お釈迦様が生きておられたのは2500年以上も前ですから、お経の中に兵戈無用と兵隊も武器も用いること無しと歌わなければならないくらい、世界では戦争が止んだことが無いのだとあらためて思わされて作った歌です。

【歌】 
兵戈無用 あらゆるものは暴力におびえる 兵戈無用 生きる者はいのち愛しい
おのが身にひきくらべて 殺してはならない おのが身にひきくらべて 殺さしめてはならない
あなたに死んで もらいたくはない あなたに人を殺して もらいたくはない あらゆる人は暴力に怯える
人を殺すのにどんな正義もない 自分に引きあてて 世のいのりに心いれて
だれも 世界中の誰も 殺してはならない だれも 世界中の誰も 殺さしめてはならない
人を殺すのにどんな正義もない どんな戦争も正しいものはいまだかつて一つも無い
自分にいつも引きあてて 世のいのりに心いれて 兵戈無用 武器も兵隊もいらない 兵戈無用世の中安穏なれ 兵戈無用 仏法ひろまれ 兵戈無用 武器も兵隊もいらない  兵戈無用 武器も兵隊もいらない
兵戈無用 世の中安穏なれ 兵戈無用 仏法ひろまれ 兵戈無用 武器も兵隊も核もいらない

この歌は「ダンマパダ」というお釈迦さまの言葉と、親鸞聖人のお手紙の中から歌詞を使って作ったものです。これは本当に誰もが願っている世界なのです。原子力発電所が一基あるだけで、広島、長崎に落とされた原子爆弾を大量に作ることが可能です。ですから、原子力発電所があるだけで、非核といいながら核兵器を持っていることと同じなのです。秘密保護法の問題では、チェルノブイリの原発事故から5年経って子ども達の甲状腺ガンが10名だったそうですが、福島の子ども達は3年経って100人位いるのです。私たちが普通に生活していても入って来ない情報なのに、秘密保護法でさらに入って来ない状況になってしまう訳です。真実を知って親鸞聖人の教えを生きる私たちは真実報土、真実の国を願い、真実は何かと親鸞聖人は教えて下さっています。それを生きる私たちは、真実を知っていかなくてはならない。人間は迷いますし、悩みます。その時にお念仏が私たちを本当に真実に真向かいにさせてくださるはたらきなのです。

私は、2011年3月11日からずっと「ふるさと」を歌っています。東日本大震災からずっと家に帰れずに、いまだに仮設住宅で生活されている方々がいます。私は岩手県の大船渡のお寺に歌いに行ったことがあるのですが、2011年の2月11日だったのです。東日本大震災のひと月前に歌った時に、ハーモニカを持ったおじいさんが来ていました。ハーモニカおじいさんと私は呼んでいますが、総代さんです。そこのお寺の総代さんでした。「私はあなたのギターと歌で、ハーモニカを吹きたい」と言われて、「私はそんな技術はなく、ハートだけで歌っているものですから無理です」と丁寧にお断りしたのですけれども、どうしてもと言われて、一緒にできる曲が「ふるさと」しかありませんでした。「ふるさと」を演奏し終わってお別れする時に、「もっと精進して次に会う時までにレパートリーを増やしておきなさい」と約束したのです。約束というのは凄いと思いました。そして一月後に震災が起きて、なかなかそこのお寺に電話が繋がらなかったのですが、ようやく繋がった時に坊守さんが私にこう言われました。「うちのお寺は高台にあったから皆さんの避難の場所になっています。御門徒の方々が沢山被災されました。君代ちゃん、落ち着いて聞いてください。あなたがハーモニカおじいさんと言って慕っていたおじいさんは、津波にのまれて遺体が上がっていないのです」と聞かされました。

皆さんもあの日のテレビで災害の状況を見て、いろいろな思いを持たれたと思います。でも、実際に一月前に会った人が津波に流された状況を思い浮かべ、どうしていいか分からなくなった時に、あのおじいさんと歌った歌をあちこちで歌うようにしています。阪神大震災のあと、神戸では3年半仮設住宅に住んでおられる方は一人もいませんでした。今、神戸は本当に復興がなされて、本当にここで大震災が起きたのかというくらいの状況です。東北はまだ一切復興もされていないような状況です。この歌を歌うと、私たちのことは忘れないでくださいと言われる方がたくさんおられます。神戸の震災とは大違いです。「ふるさと」にはもう一つの意味があって、安田理深先生は「ふるさと」とは「存在の故郷」、私たちが帰るべき、本当のいのちのふるさとだとおっしゃっています。浄土真宗の「ふるさと」とは、私たちが本当にうなずける共に生きられる世界、存在の故郷(ふるさと)が浄土なのです。

【歌】 
「うさぎ追いし かの山 小鮒釣りし かの川 夢は今も めぐりて 忘れ難き ふるさといかにいます 父母 つつながしや 友がき 雨に風に ふかれて 思い出ずる ふるさと志を果たして いつの日にか 帰らん 山は青き ふるさと 水は清き ふるさと 忘れがたきふるさと」

歌というのは凄いものです。歌い続けている内にその方が行きたかった世界を共にすることができました。親鸞聖人の「正信念仏偈」は感動が歌になっています。歌というのは感動の形が歌になったものですから、人を感動させる力があるのだと思います。

安心して迷いながら生きていける

私は京都で生まれ育ちました。君代という名は神道に由来するので、嫌だったこともありましたが、和田先生は、「あなたにその名前があるからこそ、親鸞聖人の課題に向き合えるご縁をいただいたのです。その名前を自ら課題にして生きなさい」と言われました。私は先生から言われても、どこか納得がいかなくて、「君が代」の君代でなくて「帰命無量寿如来」の「きみよ」にしました(笑)。みなさんも朝のお勤めをする時に私を思い出して下さい。私はお寺生まれではないですが、山形県小花沢のお寺で得度をさせて頂きました。そこに行きますと東北弁で門徒の方が私に「君代ちゃん。正信偈を読んでいたら君代ちゃんのことを思い出して、気が付いたら往生安楽国だった」と言われました。

お寺生まれではない私が、どうして東本願寺でお勤めさせて頂くことになったのかといいますと、六歳の時、両親が離婚しました。母親は重い病気で私たちを育てられず、母親の妹の所に2人の弟達と養子に入りました。祖父から「あなたたちのお父さんは死んでしまったので、お母さんは重い病気であなたたちを育てられないから、叔母さんの子どもになる。いい子になるのだぞ」と言われました。私はその時、この間まで母親を殴っていた父親がそんな簡単に死ぬはずがない。この大人たちは嘘をついている。しかし、ここで私が嘘といったら大人たちは悲しむだろう」と思いました。初めて知った悲しみでした。黙っていてひねくれた性格になり、小学3年の時に仲の良かった友だちから「父親のいない家の子とは遊べない」と言われ、自分がダメになってしまいました。学校で倒れ救急車で運ばれても、身体に異常がないのですぐ帰されました。私は何のために生まれて来たのか分からなくなって、何度も死んでしまおうと思いました。そんな私は奈良のお寺に預けられ、本堂の隅で自殺の本を読んでいたら、お坊さんが自殺の本を取り上げて外に連れ出し「君代ちゃん、セミが鳴いているでしょう。アリが歩いているでしょう。草花がいのちいっぱい咲いているでしょう。これは君代ちゃんと同じいのちなのだよ」と話してくれました。私は、それらが自分と同じいのちだと思ったことがなかったので「お坊さんなら、私が何のために生まれて来たのかを教えてくれるかもしれない」と思い、お坊さんにあこがれ、仏門に入り、親鸞聖人の仏教に出遇わせて頂きました。親鸞聖人の仏教は、それこそ女の人も男の人も、結婚していても年を取っていても、若くても子どもがいてもいなくても、どんな仕事をしていても、それこそ一切衆生すべての人たちが、共にあなたはあなたでよかったと、共に生き会える道を悩みながら生きて行けるのです。どうすることもできない悩みを持っていることは変わらず、それを無くして違う人間になるのではなく、悩みを持ったまま、悩みこそがあなたを人として歩ませてくれるのだと聞いて、私はこの教えは信頼できると思いました。

親鸞聖人の教えは、私は私でよかったとうなずくことのできる世界を共に頂くことなのです。なかなか私は私でよかったと頷くことはできません。6歳の時に私を捨てた父親を恨み、あんな父親と結婚した母親も恨み、あるいはいじめた友達を恨み、全てを恨んでいました。仲のいい夫婦がいると羨ましい。仲のいい夫婦に連れられている子どもを見ると羨ましいという思いがありましたが、こんな私に出遇いというものがなければ、本当にしんどくて死んでいたかもしれません。死ななくてよかったいのちを生きているのだと、ようやくうなずけたように思います。親鸞聖人の仏教は頷いたら頷き続ける、聞いたら聞き続けるのです。私の出世本懐の歌「お坊さんに憧れてお寺に入ったの」を聞いてください。

【歌】 
お坊さんに憧れてお寺に入ったの 黒い衣姿にこころ惹かれてお坊さんが好きだからお寺に入ったの みんなに何でやって聞かれたけどお坊さんに憧れてお寺に入ったの お経に遇うのがすごく楽しみでお坊さんに憧れてお寺に入ったの あの日の私を私にしてくれたから想像していたこととはずいぶん違ってたし いろんなこともたくさんあったけどぐらぐら音たてて崩れていく虚像も やっぱりかっこいい衣姿には勝てなかったお坊さんに憧れてお寺に入ったの そう言うとみんな顔しかめたけどお坊さんが好きだからお寺に入ったの いくら不思議な顔されてもお坊さんに憧れてお寺に入ったの そんな難しくなく本当に憧れてお坊さんに憧れてお寺に入ったの あの日の私を私にしてくれたから変なやつとよく言われたけど 憧れた世界はとても広かったしやっぱり ひっそり けれど確かに ずっとずっとかっこいいと一緒に歩いていくのお坊さんに憧れてお寺に入ったの そういうとみんなビックリしたけどお坊さんに憧れてお寺に入ったの あの日のビックリするような出遇いが 私を変えたから…

生きているとつらいこと、苦しいこと、しんどいこともあります。それをなくしてしまう宗教もありますが、私はそうではないと思っています。私が救われていかなくてはならない、一人だと寂しいこともありますが、こういう私にも寂しくない世界があるのだと、あらためて思わされるのです。

これは西本願寺御遠忌テーマソングになる予定だった曲ですが、歌詞の中に金子大栄先生の「花びらは散っても 花は散らない 形は滅びても 人は死なない」という歌詞を入れました。そのことで西本願寺とはご縁がなかった曲です。「大丈夫」というのは、私たちが発する言葉ではなく、如来(真実のはたらき)が私たちにどんなにつらく、しんどくても、きつくても大丈夫だよとはたらきかけてくださるのです。だから、私たちは安心して歩いていくことも、悩みながら生きていくこともできるのです。

【歌】 
大丈夫 どんなに辛くても 大丈夫 どんなに苦しくても  大丈夫 安心して悩んでいける花びらは散っても 花は散らない大丈夫 涙 流しても 大丈夫 どんなに叫んでも 大丈夫 安心して歩いていける花びらは散っても 花は散らないあなたが あなたのままでいいと 一人一人 与えられているからあんなに 辛いことも苦しいことも あなたがあなたになる大切な出遇い大丈夫 どんなに怖くても 大丈夫 どんなに寂しくても 大丈夫 安心して生きていける花びらは散っても 花は散らないあなたが ここにいてくれるだけでいいと 一人一人に願われているあれ程 辛いときも苦しいときも あなたがあなたに遇う大切な時間

どうもありがとうございました。

※この法話の文章は、東京二組C班スタッフによるベタ起こしを、門徒倶楽部が校正し小見出しをつけて編集したものです。

鈴木君代先生

Index へ戻る ▲