あなかしこ 「門徒倶楽部」機関紙

さるべき業縁のもよおせば

谷口裕 〈46歳〉

この3月20日で、地下鉄サリン事件から20年がたった。

13人を死に至らしめ、約6300人を負傷させるという、化学兵器による無差別テロであった。異常であるし、狂っているし、犯人たちに法律の定める可能な限り最大の刑罰を科すべきであることは論を待たない。オウムのマインド・コントロールの手法、その恐ろしさなどについても、さんざん語られてきた。

しかしながら、オウムが宗教団体を名のっていた割には、彼らについての宗教的考察は、ほとんどなされていなかったのではないか。彼らが仏教徒を自称していたにもかかわらず、仏教の観点からの考察はほとんど聞かれなかった。それは、当時私がまだお寺にご縁がなかったからかもしれないが。

地下鉄サリン事件が起きたのは、私が聞法を始める3年前のことだった。事件の時点では仏教に関してそこそこの知識はあるという程度だった私から見ても、テレビの報道特番等における〈宗教としてのオウム〉についての論評は首をかしげるものばかりだった。

オウム信者たちは、脳波を麻原彰晃(松本智津夫)と同一にするためと称して、頭に電流の流れる奇妙なヘッドギアを装着したりしていた。それをある民放の女性アナウンサーが評して「宗教なのに科学を取り入れているなんて異常ですよね」などと言う。ヘッドギアの効果があるなしは別として、宗教が科学を取り入れるのは異常だなどと言うほうがむしろ異常ではないのか。例えば蓮光寺が教化活動にインターネットという科学を利用するのも異常だと言うのだろうか。恐らく彼女には、おおよそ宗教と名の付くものは非科学的であるべきだという思い込み、偏見があったのだろう。

宗教学者なる者も出てきて、少しは意味のある論評をしてくれるのかと思えば、結局みな言うことは同じである。オウムはかれこれの経典をこのように曲解してかくかくしかじかああだこうだと言ったあげく、結論としては「仏教は殺人を犯すことを肯定する教えではありません」などと、わざわざ宗教学者から聞かなくても分かるようなことしか言わない。要は、人殺しをするオウムは異常だという認識を与えたいのである。もちろん実際に異常なのだが。

なぜあんなにたくさんの若者がオウムに入ってしまうのか、ということもよく言われた。10代の若者に人並みを超える真面目さと純粋さがあれば、生きることについて突き詰めて考えがちになるのは何らおかしなことではなく(といっても若いがゆえに考えが未熟で浅いのだが)、そうした苦悩を抱いた若者の一部が宗教的なものに救いを求め、その一部が仏教的なものに答えを求めたとき、葬式と加持祈祷しかやっていない(と思われている)既成教団より、修行してさとりを目指す(ように見える)カルト集団に心が向かう者が一部にいても自然であろう。

「たとえば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と親鸞聖人から言われて、唯円は「おおせにてはそうらえども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしとも、おぼえずそうろう」と応えた(『歎異抄』)けれども、逆をいえば、それこそ「この身の器量」次第で千人ぐらいは平気で殺せてしまうのが人というものである、ということだ。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(同)──オウムがそれを証明してくれた。ちなみに、オウムのサリンは時間的制約から粗製で純度が低かったのだが、もし純度の高いサリンであれば、事件の死者は数千人に上っただろうともいわれる。まさに彼らは、教祖の「地下鉄で霞が関の者どもをポアしてんや、しからば汝の功徳となるべし」という教えそのままに「千人」殺しかねなかったのだ。

親鸞聖人は「仏教は殺人を犯すことを肯定する教えではありません」などと浅いことで済ましたりなさらなかった。ご自身の中に、そして私の中にも〈オウム的なもの〉があることを、ごまかしたりなさらなかった。それが認識できる形で現れるか否かは縁によるものでしかない、と。何に出遇うか、それによって人はどうにでもなってしまう恐ろしい生き物なのだ、と。

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