あなかしこ 「門徒倶楽部」機関紙

法話 金倉泰賢先生

2012年 蓮光寺報恩講 日中法要

2012年11月3日(土)

講師: 金倉泰賢先生(北海道秩父別町、髙徳寺住職)

テーマ: 本当に救われるとはどういうことか ─苦悩多き人生を抱えて─

どうもこんにちは、初めまして。ただ今ご住職からものすごいご紹介をいただいて、もう穴があったら入りたいなと、そんな思いが正直しておることであります。

先ほどご住職のお話にありましたように、本当に出遇いというのは不思議といいますか、私が押しかけていった兆候があるんですけどもね、むしろ。婦人会のご門徒さんたちの一泊の研修旅行がありましてね、その時にたまたま先生がお出になっていて、お話が聞きたいということでお邪魔させてもらいました。先生は全国的に有名な方ですから、お名前は知っておったのですけどね、実際にお会いしたことはありませんでした。それでお話を聞いてとても感動いたしまして、お部屋に行って「いっぺん来てください」とお願いをして、その翌年の3月に北海道まで来ていただきました。

それが御縁になりましてですね。私の方が5歳上なんですけど、教えの上ではご住職は私の先生です。ですからいつも「本多さん」と言うよりも「先生」と呼ばせてもらっているんです。

今日は、宗祖親鸞聖人の報恩講であります。存覚上人が書き残してくださった「歎徳文」というのがありますけども、そこに「斯の梵筵に影向したまうらん」[『真宗聖典』746頁]と、それこそ宗祖親鸞聖人をお迎えする。影向。影っていうのは、何かがあって初めて影が出来るわけですね。影があるってことは何かといったら、そこにおられるがごとくいただいていくってことでしょ。おられるがごとくお迎えをして、親鸞聖人の教えを尋ねていく、そのことなんですね。この報恩講の大事な御心であります。

今ご住職がお話しくださったように、それこそ恩を知るということです。恩ということの中にはたくさん恩がありますね、親の恩もあれば先生の恩もあれば友だちの恩もある。親鸞聖人の教えに遇わなければ私たちは、御恩といっても都合の良いもののことですね。自分がうまい目に遇ったときは「ありがたいありがたい」と言いますよ。でも思い通りにならんときは「何でこんな目に」─。私たちは恩を感ずるんだけども、その恩を感ずることも全部自分のご都合であります。まさしくそういう中において、親鸞聖人の教えに出遇えたがゆえに、悩み多き中でこの私を見捨てることなく歩んでいける道、教えに出遇えたのだと、そのことに、本当に「ありがとうございました」と。私たちは口でお参りと言いますけれども、昨日ご住職から「幸福教」は「真実の真ではありません」というお話がありました。

京都に仲野良俊という先生がいらっしゃいました。この先生には大変お世話になりました。その先生が亡くなってもう十何年たつんですけど、その先生が初めてインド行かれたのが、50歳を過ぎてからだったそうです。初めてインドに行かれてから亡くなるまでの間、約20年になるでしょうか。その間に全部で30回ぐらいインドに行ってらっしゃるんです。初めてインドに行かれて仏跡を歩かれた時にですね、ちょっと場所は忘れましたけども、先生が「御礼を申し上げに来るのが大変遅くなってすいませんでした」と、深々と頭を下げて謝られたんだそうです。その言葉を聞いた時に、すごいなって思ったんですね。お参りをするってことはそういうことじゃないですかね。だって、われわれ仏教徒はお釈迦さまの教えに出遇ったんです。そのお釈迦さまの教えに出遇ったがゆえにこの自分を歩むことができた、その御礼を申し上げに来るのが大変遅くなりましたと、こうおっしゃった。何かそこに本当のお参りの心、つまり「御礼を申し上げる」かな、そういうことの深さっていうことを改めてあの感じたんです。

私どももですね、それこそ年に何度か真宗本廟、御本山に行きます。そういう意味では親鸞聖人の御身命に生まれとるんですけど、本当に親鸞聖人の教えに出遇えてありがとうございましたって言ったことが、いっぺんでもあるかな、そんなことを自分の中で問いかけられるんです。

いつも御本山でお話ししてる時に「何をお話ししたらいいんだろうか」と。たまたま一日だけ御影堂での法話が当たったんです。何もないときに私は行くつもりだったんですけど、あとで分かったのが、その日が全国の坊守就任式があった日なんです。全国から坊守さんが集まるんですよ。それを知った時に、やめようかなと思ったんです。病気にならんかなとかね、そんないろんなことが駆け巡ってきました。要は嫌だってことですね。でも、嘘ついてまで断るのも情けないなと思って、暗い気持ちで行きました。前の晩にある人とご飯を食べました。やっぱり私は顔が引きつっておるんですね。やっぱり「困ったな、困ったな」ってこう言うんです。で、相手が「何、困ったの」って言うから「いや、明日は御本山の御影堂で朝のお話をしなきゃならん。その時に全国から坊守さん方が集まってみえる、だからね、何を話していいか分からんて困ったんだ」こう言うたらね、その彼が「何を話したいの」って言うんです。何を話したいのってね、話したいことが分かっていれば困らんのですよ。何を話していいか分からん。そのことを言った時にですね、彼はすかさず言いました、「それは、課題を抱えていないってことだね」─。もうドキッとしましたね。で、それを言ってくれたのがわが息子なんですよ。あとから考えたら腹が立つんですけど、その時にはもう「ああ、そうだなぁ」と思わされました。でね、その時に思ったのは、やっぱりそんなに良い格好振りしいではないと思っとったんだけどね、やっぱりいい格好したいんですね。人には「恥をかいたっていいじゃないか。失敗したっていいじゃないか」と言うんです。言うとる自分が恥をかきたくないんです。御本山まで行ってさ、そして全国から来ている坊守さん方にね、北海道からわざわざ来てあんな話しかしないのかと思われる自分が嫌だとかね。だから要は自分を守っとるんです。そのことを改めて教えられましたね。

『蓮如上人御一代記聞書』の中に「人は、あがりあがりて、おちばをしらぬなり」[『真宗聖典』885頁]とあります。自分ではうぬぼれているつもりはないんです。でも、いつの間にか上がりに上がっとるんですね。その自分がストーンと落とされて、気づかされていくっていうことがあるんでしょう。御本山に行ってお話をするっていったって「何をお話ししたらいいかな」そんなことばっかり考えて御本山に行っとるんです。仲野先生のように「御礼を申し上げに来るのが大変遅くなりました」と、いっぺんも親鸞聖人の御影堂の前で思ったこともありません。いつになったら本当のお参りができるのかなということを、今考えさせられておるんであります。

報恩講ということはそれこそ、親鸞聖人の教えに出遇うことを通して、いろんな迷いの中に本当に自分をいただいて生きる道が、一つこう明らかになってくるっていうかな、そういうことなんでしょう。ですから、私たちは何が大事か。やっぱりどこまでも教えを聞いていくってことなんですね。一口でいえば、われわれ浄土真宗は「聞」の宗教、こう言っていいでしょう。聞くということですね。親鸞聖人が『教行信証』の中に「『聞』と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし」[『真宗聖典』240頁]とはっきりとおっしゃっています。「聞」というのは「衆生、仏願」です。仏さまの願いの「生起・本末」っていうことは、どうしてその願いが生まれてきたか、そのことの起こってきた本末っていうことは、事・次第なんでしょう。「生起・本末を聞きて疑心あることなし」─疑う心なしと、そのことを素直にいただいていく、それが「聞」ということである、こういうことを言ってくださっています。

私たちは仏さまを見ると、自分たちが願う対象として見るってことがありますね。そうじゃないんですよ。どこまでも願いを持っているはたらきを仏といっていいんじゃないですかね。だから仏願、仏の願いです。

しかも私たちは、仏さまといったらどうでしょう、例えば優しくて穏やかだ、ニコニコして腹を立てない、そういう人をどっかで仏さまってイメージしていませんかね。だから優しい人を見たら「まるで仏さまみたいな人だ」って言うじゃないですか。でもこれはね、自分たちの勝手な物差しで見とるんです。仏さまっていうのは、そういう意味でやっぱり目覚めた方です。何に目覚めたか、真実に目覚めて、この私たちに本当のことを伝えてくださる。そういうはたらきを仏といただいているんですね。だって、われわれは本当のことは分からない、いただけないですね。どうでしょう。例えば、世の中をいう言い方の一つに、娑婆っていうことがありますでしょ、あれはインドの「サーハー」っていう言葉の音写ですね。娑婆っていうのは「忍土」「堪忍土」耐え忍ぶ世界、これは有名ですね。

それからね、もう一つの言い方に覆真[ふしん]というんですね。真実が覆われている、これが私たちの世界であると言われてますね。考えてみたらそうですね、あんまり本当のことをズバッと言ったら、やっぱり傷つくってことがあるじゃないですか。だから世間ではお世辞っていうんですね。「見た目よりお若いですね」って言ったほうが穏やかじゃないですか。本当に若ければ「見た目より」って言う必要がないんです。「見た目よりお若いですね」って言われたこと自体が、もう歳だってことなんですから。それを「見た通りのお歳ですね」って言われたら、ムッとくるんですよ。だから、本当のことでもやっぱり素直に「そうですね」とはいただけないですね。ましてや家族から、ズバッと最初からやられたらねムッときますよ。なかなか本当のことはいただけないですね。

何と言いますかね、お世辞の中に生きているんだけども、でも「それでいいのかい」と私たちに問いかけてくるはたらきが「真」っていうことでしょ。そういう意味では、本当のことに出遇うっていうことは何かっていったら、自分が本当になるってことじゃないですね。どこまでも間違っていたな、何かそんなことを気づかされていく、それが真実に遇うっていうことなのかなと思うんですね。だから仏さまっていうのは、そんな優しくて穏やかで心の丸い人って意味じゃないんです。私たちは勝手に、自分たちでそうやってイメージしてきたんです。

そうじゃないですね。私たちの上に本当のことを伝えてくださる、そういうはたらきというものを私たちがいただいていくのが、仏さまの願いです。

みなさん方に先立って亡くなっていかれた人も仏さま、諸仏です。諸仏だけども、でも限られていますよね。だって、うちの御先祖は御法事しても、周りの家の人の御先祖まで法事するってことはないじゃないですか、どうしても限られてますよね。そうしますと、やっぱりこう部分的になってしまいます。でも、私たちが亡き人をどうやっていただいていくかっていったら、哀しいけども寂しいけども諸仏、仏さまです。ということは、亡くなっていかれた人がどんな願いをこの私に託してくださっているかな、何かそんなことを尋ねていくってことが大事ですね。

今年の4月に研修会で訊かれました。例えばよく亡くなった人のことで「生前中は御世話になりました」って、日常言うじゃないですか。「生前中」って「生まれる前」って書くんです。亡くなったのに何で生まれる前なんですかって、訊かれました。でね、ハッと思ったんですね。これは「生前中」で正しいわけですよ。われわれ仏教徒は、亡くなった人はみんな仏さまの世界にお生まれになる、御浄土に還っていかれるって受け止めていくんですよ。キリスト教徒の人は、イエス・キリストの言う神の世界にお生まれになる。神道は神道で言う神の世界にお生まれになっていくって受け止めていくんですよ。結果ははっきりしとるんです。だから「生前中」って言葉を使うわけですよ。亡くなった人がどこに行ったか分からんのやったら「生前中」って言えないじゃないですか。「生前中」って言葉を使うってことは、間違いなく、亡き人の、哀しいけどもね仏さまの世界にお生まれになった、お還りになった、こういただくんでしょ。だから結果がはっきりしていることを今に持ってきて言うわけですよね。

私たちの日常生活の中にそういう言い回しってあるんです。例えば「ご飯を炊く」っていうんですよ。でも、よくよく考えてみたら、ご飯を炊いたらお粥になっちゃうんですね。ご飯って結果じゃないですか。お米を炊いてご飯になるでしょ。

だから、それと同じように思うんですね。「生前中」ってことは、亡き人が仏さまの世界にお生まれになったってことがはっきりしとるから、その言葉を使えるってことです。ということは、私たちにどういう思いを託してくださっているのかな、どういう願いを託してくださっているのかな、そのことを私たちは尋ねていく、そのことが大事なことだなと、こう思うんですね。

ですから、さっき「聞」の宗教ということを言いました。どこまでも聞き続けていく、例えば今日「正信偈」が勤まりました。昨日から「正信偈」が何べんも勤まっています。今日は特にお寺さん方がたくさん集まって、先ほどご住職がおっしゃったように高い声で大きな声でお勤めされました。「御俗姓」といいまして、蓮如上人の書き残してくださった、親鸞聖人の御一代を語ってくださるものがあります。あの中には「無二の勤行」[『真宗聖典』851頁]とあります。精いっぱいの声を出してお勤めをしていく。今日はお寺さん方が暇だから皆ここに集まったんじゃないんです。それこそ大事な親鸞聖人のお言葉がみんなに伝わるようにという願いをもって、ここに集まってくださったんです。親鸞聖人の大事なお言葉が皆に届きますようにと、そういう思いを持って皆が集まって、大きな声を出してお勤めをされるのが、この報恩講ということですね。ですから、ある意味ではその「正信偈」をいただいていくそのことですね。

『蓮如上人御一代記聞書』に、真宗門徒としての一つの生活の批判といいますか、そういうことをお書きくださっていますね。「一日のたしなみには、あさつとめにかかさじと、たしなめ。一月のたしなみには、ちかきところ、御開山様の御座候うところへまいるべしと、たしなむべし。一年のたしなみには、御本寺へまいるべしと、たしなむべし」[『真宗聖典』864頁]というふうにですね、赤尾の道宗さんがおっしゃったといいます。みなさん方の所にお内仏さん、御本尊さんがあると思います。そこに「一日のたしなみには、あさつとめにかかさじと、たしなめ」ということは、一日いっぺんはお内仏の前に座ってくださいね、「一月のたしなみには、ちかきところ、御開山様の御座候うところ」です。ひと月にいっぺんは御開山様のまします所へ行ってください。年に一度は御本寺(御本山)に参るでしょう。それはやっぱりなかなかね、東京から年にいっぺん御本山まで行くっていったら大変です。われわれ北海道も、本当に一生の間に一度行けるか二度行けるか、そういうことがあります。ですから、このことは無理かもしれません。でもできることは、一日に一度「あさつとめにかかさじと、たしなめ」これはお内仏を中心にってことなんでしょう。

北海道で御遠忌お待ち受けの婦人の集いというのがありました。約千名の方が集まったほどです。その時の法題が「お内仏を中心にして」という声にもなってます。「お内仏を中心にして」ってことは何かっていったら、そこで「正信偈」をいただいて「和讃」をいただいて、教えに出遇っていくっちゅうことですね。ただお参りするんでないんです。やっぱりそこでお言葉をいただくっちゅうことです。こうやってみなさん方が来てお話を聞くのも聞法です。でも、お内仏の前に座って「正信偈」をお勤めするっていうことも、聞法ってことの一つの形じゃないですか。

よく、聞いたら忘れるっていう人いますね。この八月にお見えになった真城先生がたぶんおっしゃったんじゃないですかね。「聞法の七五三」て言いまして、お寺で聞いとるときはね、本堂には本堂のお徳があるんです。だから聞いているときは「ああ、そうだな、そうだな」ってね。でも、終わると聞いたことの7割しか残っとらんのですよ、3割は消えてしまうんですね。でも、まだ境内は境内のお徳があるんです。境内を出ると聞いたことの半分ぐらいが消えて、5割だけ残る。門を出た瞬間に7割消えて3割しか残らん。で、どっかスーパーで買い物したら全部消えてしまう。そういうことはありますね。「忘れっぽくなって駄目だ」って言う人いますね。でも、自分で自分をイメージする必要ないですね。先ほど言った仲野良俊先生がよく「人間は聞いたことは絶対忘れないんです」とおっしゃっていました。忘れないんです。忘れているんじゃないんですね、思い出せないだけなんです。だから、フッとした時にアッて思い出すじゃないですか。忘れっぽくなったのは事実なんです、でも駄目ではないんです。焦ったらいよいよ思い出せないですから「今思い出せないんだな」ってじっくり考えていたら、そのうち思い出すかもしれませんね。思い出す前に息を引き取るっちゅう場合もありますけど、それはそれで仕方ありませんですもんね。こんなことを言ったら怒られるけど。ある程度ご高齢になって物は忘れないでピンピンピンピンしとったら、あんまりかわいくないって。やっぱりそれなりにやってくださったら、ちょっといたわろうかなっていう気が起きてくるってことがありますね。決して、忘れっぽくなって駄目だっていう必要はないんです。お内仏の前に座ることを通して親鸞聖人の「正信偈」のお言葉をいただく、そのことを通して「ああ、そうだったな」って思いを起こさせていただくっちゅうことです。

私たちは仏さまの教えを聞いて、心が整ったり心が定まるんじゃないんです。こんなことを言ったら言い訳になりますけどね、仏法を長いこと聞いてきて根性ようなったかっていったら、なかなかそうはならんですね。

身が定まるってことでしょ。この私が仏さまの教えを聞かなきゃならん身だったなっていう、この「身」が定まるってことです。心は残念ながら、縁に触れたら何が出てくるか分からんですね。

ちょうど1年前です。御本山にお参りする時に、飛行機でうちのご門徒さん方と本山に行ったんですよ。20人ぐらいで。その時に、キャビンアテンダントさんが余計なことを言うんですね、「今日はお天気が良くて、左遠方に富士山が美しく見えます」って言うんです。そしたら飛行機の中がザワザワとしましたね。私は真ん中の席の右側の方に座ってました。あんまり美しいって言うもんだからのぞいてみたら、人の頭しか見えないんですよ。黙って見ていればいいのに「わあ」とか「きれいだ」とか言うんです。なお見たいじゃないですか。いつまでたったって窓が空かないんです。空いたなと思ったら隣の人が見とるんです。だから、私の目の前に座っていた70ぐらいの方、そんなにめったに飛行機に乗れる人じゃありません、ボソッと「私たち、損だね」っておっしゃったんです。あの言葉を聞いた時、うれしかったですね。自分の根性、心を代弁してくれたんですよ。左の窓側の人が料金が高くて、真ん中の人が安いんだったら、文句は言わないですよ。同じ料金を払ってるのに、左側の人は美しい富士山が見えるんです。「私たち、損だね」って聞いた時に妙にうれしかったです。で、思わず思いました、あのキャビンアテンダントさんさえ余計なことを言わなかったら、こんな思いは起らなかったですよ。余計なことを言いやがってって、こう思ったんです。でも、あとから冷静になって考えてみたら、お前の中にそういう根性があるよってことでしょ。そのことを教えてくれたってことじゃないですか。気づかされますね。

だから、仏法を聞いたから心が整うんでないんです。こういうわが身だからこそ、いよいよ仏さまの教えの前に身を置かなきゃならんこの身が定まってくる、ということなんでしょ。まさしくその形がお内仏の前に身を据える、こちらのご住職のお言葉を借りるならば「お内仏を中心にした生活」っていうことは、どこまでも聞き続けていくってことなんでしょ。

お内仏の中心には御本尊があって、お寺の場合は御影が掛かっていますけど、みなさん方の所は十字名号、九字名号、六字名号の御本尊が掛ってるかもしれませんね。そして、両脇は壁になっとるんでしょう。今日は報恩講ですから、親鸞聖人の御絵伝が掛かっとりますけど、ふだんはたぶん法名が掛かっとると思うんですね。みなさん方のおうちでいったら横壁になっとるわけですよ。で、私たちに向かって「どうか御本尊に向かってくれよ」そういう呼びかけを聞いてくってことを、何だろうなぁということを思ってですね、だからきちっと、この御本尊とお内陣と同じようにきちっとしていなきゃならんですね。

うちらの所は毎月お参りするって形もあるんですけど、最近なくなってきましてね。年にいっぺんとか二回はお参り行くんです。そうしますとね、やっぱり急にお掃除したなというのが分かる場合があるんですね。

お内仏の中はやっぱり自分の思いを語る場所じゃないですね。最近はなくなりましたけど、新しくお内仏が入ったらよく「魂入れしてくれ」とか「魂抜きしてくれ」っておっしゃる方が結構多かったんですね。でも、魂を入れたり抜いたりはできないです。魂を入れたり抜いたりすることは、自分の思い通りにできるってことじゃないですか。わが女房ですら思い通りにできないのにね。

だからね、思い通りにする場所じゃないですね。きちっとお荘厳ということ、決まりがあるってことです。ということは、私たちの都合のいい形で飾るんじゃないんですね。

去年の8月お盆の時にこういうのがありました。その方のご主人はお酒が好きだったんですね。で、「どうしてもこの時期になったらお酒をあげたいんだ」ってこう言うんですね。で、いきなり「駄目だ」って言って怒っとったらね、うちはただでさえ人口が少なくて門徒さんに辞められたら困りますから、そんな偉そうなことあんまり言えんですね。だから「それ、ここじゃなくてこっちに置こうか」って、うまくごまかしながらやっとるんですね。でも、あとから言うんですね。お酒はあげる必要ないですね。今日ね、ご主人が元気でいらっしゃる方は、お酒の好きな方がいらっしゃったら思いっきり飲ませてあげてください。その代わり、亡くなってまではあげる必要ないです。うちの責任役員の、お酒の好きなお爺ちゃんが「わしが死んでも酒はあげんでいい、でも、今しっかり飲ませてくれ」と言ったんです。ぼくはそれはすごいなと思いましたね。

亡くなった人がお酒好きだったからあげるのは、優しい心ですよね。でも、好きな物が出てきて喜んで、嫌いな物が出てきて嫌がるのは、迷いの心じゃないですか。われわれはそうですね、好きな物が出てきたら喜ぶんです、嫌いな物が出てきたらあんまりいい顔をしません。これは煩悩の心でしょ。さっき言ったように、亡くなっていった人は諸仏、仏さまとして受け止めていくわけでしょ。てことは、私たちの優しい行為が「好きな物をあげるから、もういっぺん迷ってみるかい」って迷いの世界に引っ張り込んでることなんでしょ。やっていることは優しいことなんです。でも、その中身はどうなっているかっていったら、ちょっと怪しいなってことですね。

そういう意味でですね、私たちはお内仏に向かうってことは、そのことを通して、やっぱり真実、道理というもの、生きさせていただく。昨日ご住職がおっしゃったように、私たちは自分の都合のいいことを願うんです。でも、そこに本当の救いはないんだ、まさしく念仏となって、仏さまの願いが言葉となって私たちに聞こえてくださっている、ですから、その言葉の言われてることをただひたすら、宗祖のお言葉をいただきながら確かめていく。そういう歩みを、この身が、心が定まるんじゃなくて、その教えを聞いていかなきゃならん身だったなということに定まっていくってことが、私たちにとって大事なことじゃないのかな。そのことをこの報恩講を通して確かめていくんでしょ。

何か尻切れとんぼで本当に恐縮なんですけど、私も北海道で一生懸命教えを聞いていきます。どうかみなさん方もこの蓮光寺さんを中心にして、仏さまの教えを聞いてくださいね。

そして、本当に感動しました。「正信偈」っていうのは、全国どこへ行っても「正信偈」なんですね。うちであげている「正信偈」も、ここであげてる「正信偈」も一緒でした。昔、先輩に言われました、「正信偈の声がある所に真宗門徒あり、真宗門徒のある所に正信偈の声あり」と。本当にこの大事な「正信偈」をこれからも確かめていきたいと、こう思っております。

貴重な時間をいただきながら恐縮でございます。

(文責: 蓮光寺門徒倶楽部)

金倉泰賢先生

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