あなかしこ 「門徒倶楽部」機関紙

与えたりもらったり

河村和也(釋和誠)  47歳

いつの頃からだろう。こんな言い方が当たり前のように使われるようになってきた。

「感動を与えたい」
「勇気をもらった」

スポーツ選手やアイドルから内閣総理大臣まで、まさに老若男女が平然と用いているようだ。テレビをはじめとするさまざまのメディアでこうした表現に触れると、私などは胸の奥の方がざわざわしてしまうのだが、そのような感覚はもはや過去のものになってしまったのだろうか。

まず、感動や勇気や希望を「与えたい」といういかにも不遜なものの言い方が気になってならない。最近のことばでは「上から目線」とでも言うのだろうか。犬や猫にえさをやるのとはわけが違うのだから、せめて「差し上げたい」とか「お届けしたい」とか「受け取っていただきたい」とでも言えばよいと思う。

だが、私がもっと問題にしたいと思うのは、そのようなものが「与える」ことのできるものだと思っている姿勢であり、同時に「もらう」ことのできるものだと考えている態度なのである。はたして、感動や勇気や希望とは個人の意思によって授受できるものなのだろうか。ものや金のように与えたりもらったりすることのできるものなのだろうか。

今年、ロンドンではオリンピックとパラリンピックが開催された。世界中から集まった選手たちの活躍するさまに触れ、私も大いに感動した者の一人である。この夏、テレビを見ながら再認識したのは、たとえば感動というようなものは、自分の中に湧き上がってくるものだということだった。つまり、外からのはたらきかけを受け、自分の中の何かが反応するのである。感動のもとが外にあるのは事実だが、実際にこころを動かすのは自分自身なのである。

このことを考えるうちに、以前、信心について教えていただいたことを思い出した。信心は「たまわる」ものと教えられているが、目に見えるものではなく、 手に持つこともできない。つまり、信心を「たまわる」と言っても、それはものを受け取るのとはまったく異なるのである。信心を「たまわる」ということの本質は、信心を私有化しないということにある。教えはあくまでもはたらきかけとして自分の外に存在するのであって、そのことに気付かされ感応したところにこそ信心が開かれるのだというのである。

そうであるならば、信心をたまわるにはもっぱら受け身の姿勢でいるのがよいのだろうか。当然ながら、そうではない。むしろ、私たちには生きることへの積極性こそが必要だ。多くの人との関わりの中に生き、さまざまのことばに触れ、思いに触れ、こころを動かす日々を過ごそう。外からのはたらきかけに気付くのは自分であり、感じるこころを養うのもまた自分なのだ。私たちの歩みは聞法につきるのである。法を聞くのでなく、私たちの生き方を法に聞く、そんな生き方が求められているのである。

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