あなかしこ 「門徒倶楽部」機関紙

「不安だらけ」に思う

篠﨑一朗  53歳

「今、あなたの関心事はなんですか?」と聞かれたら、恐らく「将来に向かって不安な事だらけなことです。」と世間的に答えてしまうかもしれない。

不安なことを思い付くだけ挙げてみると──

欧州発の金融債務危機(とその後の世界同時大不況)、増税とデフレによる一層の不況化、少子高齢化等に伴う年金制度の崩壊、東日本大震災の被災地のこと(人)、この千年に一度の大地震を契機とした地殻変動期への移行と首都圏直下型地震、東海・東南海連動地震・富士山大噴火等々の自然災害。原発事故の不安(今も、将来への影響も)。そして自分の健康。

いやはや、社会、災害等の外部要因の不安がこれほどあるというのは近年にないことではないだろうか? 私が子供だった頃の高度成長時代に、そんな不安を抱えていた日本人はほとんどいなかったのではないだろうか。「ちゃんと働けば幸せになれる。」と皆信じていたに違いない。その為に原子力という魔物も、平和利用と称し人間がコントロールできるものと信じて疑わずこの地震列島の上に五十四基も作って、危険を甘受し利用していたのだ。

それが、3.11を契機に、今まで信じて疑わなかったことがすべて懐疑の対象となってしまった。

地球の46億年の歴史からみれば、千年サイクルでの地殻変動なんて、一瞬の出来事なのかもしれない。それなのにこの平和な時代が、自分の生きている時代はずっと続くと錯覚して、その虚構の上にすべてのことを組み立て、自然の脅威も人間の力で制御できると皆が錯覚し、生活していたに違いない。

それがこの有様だ。人間の力で制御できるものなんて、ほんのちょっとのことでしかないのだと気付かさせてくれたのが、今回、2万人近い人が犠牲となった大災害なのだ。(いや、原発事故対応は今も続いていて、犠牲者は確定できない)

しかし、そのことに八百年前にも気付いた方がいらした。

「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と、我々に「凡夫」「業縁存在」ということばで、如来の眼に照らされて人間の愚かさを気付くことを教えてくださったのが親鸞聖人である。しかし、現代人のほとんどはそれを忘れて(気づかず)生活していたのだ。

我が蓮光寺門徒倶楽部を主宰する本多雅人住職が、七百五十回御遠忌を前後して精力的にこのことを法座や文章にて、世の人々に問題提起してくれている。6月上旬の東京新聞にも2回にわたって「愚かさを自覚する」というコーナーに寄稿されている(本誌にも掲載)。詳しくはその記事を読んでいただくか、または、東大の安冨歩教授との共著本「今を生きる親鸞」を読んでいただきたい。

ただ、本多住職が言わんとしていることは、この大震災で、被害を受けて大切な家族を失った方、この身以外の全財産を無くされた方、原発事故で生活基盤を失い故郷に戻れない方等々、状況の違いはあっても悲しみに程度の差はなく、なぜ自分はこのような目に遇わなければならないのか、この世に神も仏もないのか?と悲嘆にくれた方々など、すべての人たちが救われていくような『救い』がどこで成り立つのだろうかと自分にも問いかけられ、その答えは政策とか対策だとかでは解決しえない、宗教的課題であるのだ、と。

それは、「私たちは不条理を生きざるを得ない」「人間として生まれた悲しみ」に気付く、「受け止められない私たちの存在そのものに大きな悲しみ(大悲)をもって見つめている眼(如来)に出遇うかどうか」だと。「私たちは状況を悲しむが、如来は私たち人間の存在そのものを悲しんでいる。それが如来の大悲」だとご住職からいただいていることである。

何も解決していないのだけれども、その悲しみを包んで何か歩ませるような、人間を立ち上がらせるような願いがはたらいている、苦悩し迷い続ける私達を常に照らし呼びかけ続ける本願の世界である『浄土』をよりどころにすることにおいて、悲しみのまま開かれる世界を生きていく、如来の智慧の眼が開かれるのだと。それを生活の苦悩を通して証明されたお方が親鸞聖人であったと。

少し難しくなってしまった。

私にはまだ『愚かさ』ということにも、心底頷けていないかもしれない。ただ、不安なままでも生きていけるのだ、ということだけは、少しだが感覚的に頷ける気がしている。

ご住職の法話のレベルとは大分違うが、不安だらけのこの身でも、以前とは違った感覚を持つことがある。

それは、どんな状況にあろうと、如来からは見捨てられず「人間存在の愚かさに気付いたら、あなたはあなたのままでいい。」と、弥陀の本願によって照らされている感覚が少し身についてくると、不安なままでも何か生きていけそうだ、という感覚が自分の中に感じられるときがあるのだ。

でもやはり凡夫であるから、世間的な不安が全く無くなった訳ではなく、こころは常に揺れ動いている。

最近生きてて良かったなと思ったこともある。

一つは、誰からも相手にされない部下がいて、仕方なく私が他人と上手くコミュニケーションがとれるようにと気配りしてきた人物がいた。他人との関わり方を忠告する私を逆に「嫌な上司」と逆恨みし、ある時事件が起きた。その時、罵声に近い暴言を吐かれ、私もその反応に相当なショックを受けた。そしてその時以来こちらからは必要最小限のことしか関わりを持たないようにしていた。しかしその者が最近ある病気になり、自分の頭では整理がつかなくなり混乱の極みに陥り、お医者様とも上手くいかなくなって、益々誰からも相手にされなくなった。このとき、私は仕方なく(嫌だったけれども立場上、誠意は尽くし)病気の対応についてのアドバイスをした。そんな者が今年の春、私が転勤する際に「ありがとうございました。助かりました。」と御礼の言葉を寄せてくれたのだった。

別に御礼をしてもらいたくてやった行為ではなかったのだが、予期しない人からそんな言葉を寄せてもらって、感動してしまった。

自分にとって「苦悩を与える」嫌な存在であっても、あきらめることなく誠意を尽くし、自分の愚かさを自覚し接していけばいつかは分かってくれるときが来るかもしれない。でもその時とは、その相手が病気などで本当に困った時とか、痛い目に遭ったときなど、その者自身が自分の在り方を問われた時なのかもしれない。

この部下の件も、かつては腹を立て、金輪際「目を掛けることはやめよう。逆に恨まれたのではたまらない。」と思っていた。しかし、ある聞法会が終わって再び気づかされた。分かっているつもりでいた「煩悩具足の凡夫」だが、罵声を浴びせられたことに腹を立てている自分は何様だったのかと、私の愚かさを教えてくれた存在だったのだと気づかされた。腹を立てることはやめよう、関わり合うすべての人は先生だと、如来の眼からは教えていただいているのだと再び気づかされ、たとえ嫌な存在だろうと「その人との縁がある限りは、誠意をもって対応する。」、その結果、たまたまタイミングが合えば、相手に思いが通じるときが来るかもしれないが、その時が来ようが来まいが自分の愚かさを教えてくれた存在といただければ、自分の中でお念仏の世界が深まればそれでよいのではないか。

また、二つ目も似たようなことが最近起きた。このことを話すと長くなるので次の機会に譲ることとするが、「不安なままでも生きていける世界」をいただくこと、「腹を立てても自分の愚かさに気づき、頭が下がる世界」をいただくこと、「苦悩と真向いになって人間の愚かさを深く自覚することを通してこの身を引き受けていく」ことで、人生を豊かにしていただけるのではないかと、さらに思うようになってきた。

合掌

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