あなかしこ 「門徒倶楽部」機関紙

法話 佐野明弘先生

2011年 真夏の法話会 & 蓮光寺ビアガーデン

2011年8月7日(日)

講師: 佐野明弘先生(石川県加賀市・光闡坊、52歳)

テーマ:「やくざい摂取せっしゅちゅう──信心の世界」

《ご法話より》

こんにちは、ようこそおいで下さいました。大事なご縁をいただきまして、こうして仏法の場にご一緒にお呼び出しいただいたことです。

あとでまたゆっくりお話しさせていただきたいのですけれども、難しい課題でもあるんですけども、宗教ということがですね、人間以外の生き物にはなさそうですね。あの、よく知らんのですけど、集まってお参りしている動物は見たことないんで、ないんじゃないかと思うのです。人間だけが宗教というものを問題視する。

で、私自身もそうでしたけれど、その宗教というような言葉でくくられる一つの問題、それはそのほかの科学や医学やですね、いろいろの学がございますが、そういうような学では決着がつかないような問題を扱うわけです。根本的な、生きている上に起こってくる問題ではなくて、こうして存在をする、そのこと自身が問われる。そしてそれは、生きているということ、存在しているということ、そのものがいったいどういう意味を持つのか、何のために生きているのか、死んでいくとはどういうことなのかと、こういう問題がですね、ようするに学、学問というものでは決着がつかないのです。で、一般にその決着がつかないというところに答えを与えてきたものが宗教と言われますというか言われておりますね。

ところがどうでしょうね。その、現在まで人類の歴史を通じて本当の意味で、その人間存在の意味に答えたというものがありますでしょうかね。ちょっと言葉が言い足らずで変なんですけれども、もう少し違う言い方をしますと、宗教というものがいったい人間のどういう役に立つのかとか、現代において宗教の担うべき課題という言い方がよくされますが、こういう言い方をされる宗教とはある意味で、ちょっと乱暴な言い方ですけど、堕落した宗教。

宗教そのものが仏教では生死の問題、あくまで人間の存在にとって究極的な問いであり続けます。また不可避的な問いであります。究極的だけではなく、不可避的な問いとして存在している問いですね。

むしろ、宗教というものはそういう問いを抱えている、問いそのものを深めていく、問いを、答えを持ってきてごまかすというか埋めてしまうものではなく、逆に問いそのものを深め、そして人間というものを見つめ直してきた、それが宗教が宗教である本当の意味でないかと思うのです。

そういう意味で親鸞聖人の眼差しというのが、それまでの八万四千の法文といわれるような形の仏教からですね、一つの宗教改革などとも言いますけれども、こちらが問うのではなくてこちらが問われているというのが、こういう眼差しは一般になく、私自身も真宗に触れるまでそういうものの考えをしたことがなかったのです。

問いはこちらが問うのであって、どうしたらいいか、どう心得たらいいか、どう自分の問題を受けて止めていったらいいのか、そういう形でこちらが問う。人は何か、信心とは何か、浄土とは何か、学んでおっても常にこちらが問う。

ところが実は親鸞聖人はまったく逆転して、そういう形で問うているが、実はそれをまったく逆転して、そういう問いを持っている人間そのものを転換せしむるものを信心というのだと言うのです。人間の問いにあわせて答えていくのが宗教ではなく、答えを見出だそうとしている人間の立場、在り様を根本的に転換せしむるものを信心というのだと。全然違いますね。信心とは人間を転換するものなのです。信心界。そういう言い方をしますね。この世に起こっているあらゆる問題は。すべて人間の問題です。原発の問題、差別の問題、経済の問題、すべて人間の問題です。その人間が深く問われる、それを宗教というのですね。ですから、そういうのをまず思わせられるのです。

今回の震災のことを考えて、改めて親鸞聖人がどんな時代を生きておられたのか、思いました。

よくわからないですね。『歎異抄』も聖人がお亡くなりになってから27年ぐらいしてから書かれたものでありますけれども、それを読んでもよくわからない。その頃には、大変な元寇も2回もあった時代です。1274年ですかね、4万、そのあとも10万の大軍が日本を攻めてきて、その結果鎌倉時代も滅びていってしまった。そのような時代の中で『歎異抄』も書かれていった。親鸞聖人の時代をいくつか見ておりますと、最晩年の時代には全国的に飢饉や疫病がはやっておったようです。

親鸞聖人が88才のとき、文応元年(1260年)です。聖人がお書きなったお手紙の中で年号の入っている最晩年のお手紙が『末燈鈔』の第六通目に収められている。その書き出しが「なによりも、こぞことし、老少男女おおくのひとびとのしにあいて[死に合いて]候うらんことこそ、あわれにそうらえ」(『真宗聖典』603頁)という書き出しです。関東におられた乗信房のお手紙へのお返事ですので、京都の方でも全国的にバタバタと多くの方が亡くなっているのがわかります。

また、この頃、康元、正嘉、正元、文応、弘長と元号が1年ごとに変わっている。明治以前は天皇が替わらなくても、何か災害があったり疫病があったりいろいろな困ったことが起こると、元号を変えてゲンを担いでいたわけです。国中が弱っていた状態でした。

特に聖人が亡くなられる弘長2年には幕府から「流民」を許可する命令が出ています。その当時は税金は作物だったわけですが、その土地と住民を結び付けてその土地から挙がったものを税金として納めさせておったわけです。ですから土地を勝手に離れるということはとても重い罪を科せられるわけです。弘長2年のときにはあまりにも国の民が死に絶えていくので、どこへ行ってでもいいから食べ物を食いつないでくれ、という命令なんですね。それほど聖人の晩年にはたくさんの人々が命を落としていった時代、その様子が『末燈鈔』には見えるわけです。

ちょっと参考になるのが、同時代の大きな先輩で、『方丈記』を書いた鴨長明が、養和の大飢饉の様子を記録をつけておられて、食べ物が無くなって日照りや干ばつ、台風が相次いで起こったと。その頃は源平合戦の真っただ中で、男手が減るわけで食糧生産力がなお落ちる、それはアフリカなどの地域紛争などテレビでも見られますが、男手がいなくなると残った女性が鉄など金属の道具もなく、木で固まった土地を掘り起し耕すと、ほとんど作物が出来ない。乳も出なくなるとみな飢え死にになり、遺体も片付ける力もない。そういう死臭が京都の町にも漂う、そういう状況があったのではないかと推測できる。

江戸時代の天明の大飢饉もすごかったと、富山の太田さんと話して教わりましたが、東北の人口が3分の1まで減ったと。すごい数ですね、どうしてそんなことが分かるかというと、男女比をみるとわかるんだそうです。女性が少ない地域は、子殺しがあったと。

その地域で出来てきた一つのものが、こけしです。私たちが知っている、普段見るものは小さなものですが、本物をみるとずっしりと重い。殺してしまった子供の代わりに大事にするのだそうです。男の子は2人までは働き手として大事にされる。それで、女性が減ってしまったので、松平定信が、加賀の人(女性)を裏を通して連れていって、入植させようと考えた。その時、飢饉に強い柿の木を大根に刺して持っていった。現在も原発の周辺で、柿の木を大事にしている家があるが、その家は先祖が加賀から来ている。その柿を「蓮如柿」というのだそうです。なぜ加賀から連れて行ったか。その頃の加賀の真宗門徒は、決して子供を殺さないという、だから福島にいっても生まれた子供を決して殺させない。差別もきつかったようですが、人口も徐々に戻っていったようです。

そういう中で親鸞聖人は何をしておったかというと、ずっとものを書いておった。

そのような中で、同じ時代におられた叡尊や忍性といった僧侶は有名で、1万人くらいお弟子団がおられて、戒律をきっちりと守って、そして、食べ物もないところの炊き出しをしたり、特に飢饉や災害が起こると、弱者、虐げられていたハンセン病の患者さんを救済するための社会活動を、活発に行っていました。その頃はハンセン病は非常に恐れられて、現在でこそ感染率は低いということがわかって、差別してはいけないとなりましたが。

ところが、このグループが批判しておったのが道元禅師らです。道元禅師は山にこもって修行しずっと座っておった。親鸞聖人も思索に没頭していたが批判はされなかった。たぶんそれは、関東では有名であったが、京都ではあまり有名でなかったからかと思う。

そこで思うのは、親鸞聖人はどういうことをお考えになっていたかということなのです。それは、本当に人間が救われるということはどうなることなのか、ということだと思うのです。

今回の津波に関しても、津波に流されなかった人は助かったと言います。しかし、それが本当に助かったことなのかというと、どうなのでしょうか。気がついてみたら家族の中でたった一人生き残ったお婆さんがインタビューに「いっしょに流された方がよかった」と。また「わたしではなく、孫こそ生き残ってほしかった」と答えていました。そうすると、一旦は助かったと思ったけれど、本当の救いとは何なのだろうかと。

これは『歎異抄』でいうと第四章に出てくる「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり」という問題です。

これは、その都度の問題に対処していくことは大切だけれども、それで本当に人間をおさえきれるだろうか、人間は一体何をもって人間であることを全うするのであるか、あるいは人間において本当に喜ぶべきこと(『歎異抄』第九章に出てくる)とは一体何なのか、私たちは何を喜びとして生きていったらいいのかという問題ですね。親は子どもの幸せを願うと言いますが、一体どうなったら幸せといえるのか、答えられる人はいらっしゃいますか? その都度の苦しみに向かい合って生きることはできるけれども、「おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし」です。「おもうがごとく」とは本当の幸せを願っているのにも関わらず、その本当の幸せというのが一体何かがわからないではないか。どうなりたいのか。人間が救われるということは一体どういうことなのか。親鸞聖人はそのこと一つを集中してお尋ねになっておられたと思うのです。ですから、親鸞聖人のお言葉が、時代を超えて、苦悩を抱えて生きる人間の胸に響くのです。

今回の事故のことでも、津波のことでも放射能のことでも、対処的になっていくと、政治的議論になっていきます。原発もすぐ、賛成か反対か、やめるかやめないか。でも、その前に人間の苦しんでいる悲しみの姿があるわけです。議論が展開すればするほど、悲しみが忘れ去られていくのではないでしょうか。人間に起こってくる悲しみを、私有化するのです。そして、政治的問題にすりかわっていってしまうのです。親鸞聖人は「深く悲歎すべし」(『教行信証』化身土巻。『真宗聖典』356頁)とおっしゃるにちがいないのです。こういう言葉が私たちの胸に響くのではないですか。

私たちは迷いや苦悩を抱えていますがその感覚が浅いのでしょう。どうにかなるはずやと考えて迷いを抱えている。人間の苦悩というものを、克服できるものとして考えてしまっているのではないでしょうか。本当に、どうなったら人間は救われたと言えるのでしようか。そうすると、わからないですね。それが私たちの無明というあり様の内実です。願っていながら、願っている具体性が何も見えない。そしてその悲しみが人間の心でとらえられてしまい対策に転じてしまう。

もう一つは、しかしながら、人間の悲しみが小悲と言われるのは、悲しみが小さいのではないのです。悲しみは一番激しいのです。だけれども、その悲しみが共に開かれていく悲しみにならないのです。悲しみが私有化され、対策になってしまう。そして怒りとなって他者に向くのです。9.11の時がそうでしたね。あれだけの悲しみが新たな戦争をおこしたのです。悲しみが私有化されるということは閉じていくということなのです。

もう一つ。「小悲」と言われるのは、悲しみが続かないのです。忘却されてしまうのです。これは厳しいですね。だんだん麻痺していき感覚できなくなっていくのです。どんどん麻痺していく。悲しみがある間は何か大切なものを感覚しているのですが、悲しみとともに大切なものが感覚できなくなるのです。

そこに「死が見えなくなると、生が見えなくなる」という法語が張られていますね。死が見えないとは、死に対する悲しみや苦悩が見えないということです。そうすると、生きているという感覚が同時に失われていくのです。人間が悲しみを受けたのは間違いないけれど、それが真実になっていかない。

どうして忘れていってしまうのでしょうか。身近な人が亡くなって、悲しみの心で手を合わせていた時には、小さな生き物を見てもあわれに思っていたのに、時間がたつにつれ日常性に埋没していくのです。忙しい忙しい、と。悲しみが深いときは忙しい人などおりませんね。それを親鸞聖人は「深く悲歎すべし」とおっしゃるのです。無慚無愧のこの身だ、と。

その人間にもう一度、悲しみということを通して私たち自身に呼び返す声が大悲の声「南無阿弥陀仏」なのです。人間の悲しみを本当に知っているのは如来です。人間の悲しみは、個人化してしまうか閉じてしまうか、忘却されるのです。真実にならないのです。そういう大きな迷いと無明の中を生き死んでいくしかない私たちを見出だし、受け止め、呼びかけてくるのが如来です。その呼びかけてくる声が「南無阿弥陀仏」という大悲の声です。どこに聞こえて来るのか。それは私たちの悲しみの底から聞こえてくるのです。「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて」(『歎異抄』第一章)と如来が先手です。そして「往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」(同)と私たちの上に起こってくださる。如来回向のお心です。

日常性に埋没する私たちに「迷いの衆生よ、悲しみを抱えている衆生よ、念仏申せ」と呼び覚まし、呼び返してくださるのが本願ですね。そこにはじめて、津波で亡くなっていった方と、あるいはいろいろな形でいのち終わっていった方と「同じ業縁の存在を生きるわれら」という世界が開かれるのでしょう。救いということがあるならば、震災で亡くなっていった人も今生きている人も、みな共に救われるような救いでなかったら、本当の救いにはならないということです。そういう一切衆生を貫くような如来の眼差しによってはじめて私たちは、呼びかけられていたのはこの私であったと、十方衆生の私であったと目覚めるのです。十方衆生と呼びかけてくる声に目覚める時には必ず「われら」と目覚めるのです。われらと目覚めるのがこの私なのです。この私は一切衆生の私でありますが、同時に私が一人の衆生といえるわけです。

こういう問題が、今回のテーマに上げさせていただいた「正信偈」の「我亦在彼摂取中」[がやくざいひせっしゅちゅう]ということです。「我亦」とは、私がではなく「私もまた」その一人であったということです。どの人も念仏申さるべき身なのです。そう思っているときもいないときもです。人間の意識のあり様を超えて、存在そのものを受け止めているのが如来です。「在」という形で私たちを受け止めてくださっている世界があるのです。

他力というのは「無義」です。義に立つときは、正義に立つのです。親鸞聖人は、一人の凡夫となって念仏の声を聞かせていただくのだ、と。真実の救いというのは、思ったような救いが成し遂げられたということではありません。思ったような救いを求めていた人間そのものが信心によって転ぜられて、迷いの凡夫の身に帰っていくのです。どこで聞くか、それは「生死」のところで聞くのです。「正信偈」にある「還来生死輪転家」[げんらいしょうじりんでんげ]です。「還来」という字が大事ですね、「還来」は「還る」と「来る」、それは、報土に還るということと生死に還るということが一つなのです。生死、この迷いむなしさ、悲しみの身を通して、呼びかけてきている本願に遇うのです。念仏往生は如来の悲願です。私たちはその本願に遇った時に、この迷いの身にうなずく時が来る。私たちは、どこまでも思った方側に解決するのではなく、如来のおはたらきによって、私たちのあり様が常に埋没し固定化している、そういう私たちを問い転じられていくのです。そこのうなずきですね。そのうなずきは一回で終わるのではなく、聴聞すればするほどいよいよ深くうなずかしめられていく、これが往生浄土の道です。こうして大事なご法座を開いていただいて、お互いにこうしてお育ての中にある。これが一番大事なことです。

もう少しお話ししたいこともありますが、人はみな孤独を抱えて生まれてくるのです。孤独と孤独感は違います。他人が見えていないから孤独感となるのです。七高僧に限らず本願に出遇われたいろいろな人々の人生を通して、「我亦在彼摂取中」と言ったとき、一人の衆生であったと気づかされるのです。

そういうことを申し上げて終わります。どうもありがとうございます。

(文責:蓮光寺門徒倶楽部)

佐野明弘先生

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