あなかしこ 「門徒倶楽部」機関紙

法話 藤川幸之助先生

2011年 蓮光寺「成人の日法話会」

2011年1月10日(月)

講師: 藤川幸之助先生(長崎県、詩人、48歳)

テーマ:「支える側が支えられる時──認知症の母が教えてくれたこと」

今日は母の話をさせてもらいます。認知症の母が教えてくれたことを。

私の母はアルツハイマー型認知症という病気にかかっています。脳が小さくなっていく病気です。今母は82歳。60歳の頃にアルツハイマー型認知症と言われたんです。もう22年ですよ。この前MRI検査で見たら、ポッカリ穴が母の大脳の中にありました。「こんな脳で生きている人は初めて見た」と先生がおっしゃるぐらいの状況です。終末期、ターミナル期といいますね。

この前「藤川さんはよく全国いろんな所に行くので、その間にお母さんの呼吸が止まる可能性がある。そのときに人工呼吸器を付けますか?」と言われたんです。私は母を22年間ずっとそばに見ていて、この病気を抱えながら必死に生きてきた母の姿を知っているんですよ。だからもう休ませてあげたいって思って「母はこれで事切れたんであれば、人工呼吸器をはめなくていいです」と言ったんです。それから先生と別れて5分ぐらい離れた時でした。私の一言で母を殺してしまっていいんだろうかと思った。それで「すいません、待ってください。やっぱり付けてもらえませんか」。そんな簡単に、帽子をかぶるのと違うんですけどね。そしたら先生が「そうですよね、迷いますよね。人の生き死にっていうのは本当に迷うんですよ。だから迷っていいんですよ。そしてまた、今ははめるっていうふうにおっしゃったけど、はめたくなかったらばいいんですよ、いつでも言ってください」。認知症はここがややこしいところで、母の意思を聞くことが出来ないんですよ。ですから私が考えるしかない。私の迷いを先生は聞いてくださったので、そこで安心したんですね。

そういう状態です、母は。今、食べることも歩くこともしゃべることも、言葉はもう一切。心臓の調子が悪いので病院に入院したんです。私のことが分からないですね。ボーッと天井を見たままベッドに横たわっている。食べることがない人間がなぜ生きているかというと、胃瘻[いろう。腹部に穴を空けて付ける]から栄養を入れる。胃瘻を付ける時にお医者さんから言われたんです、「どうしますか、胃瘻を付けますか?」。「付けなかったら母は死ぬんでしょ。付けてください」とその時言ったんです。しかし、お医者さんはこう言われました、「物を食べないということは人は死ぬということなんですよ。これが自然な流れなんです」と10年前に。その時私は分からなかった、全然。「殺すわけにはいかない、付けてくださいよ」と言って、そのまま10年間、母は胃瘻でながらえているんですが、その判断がどうだったかというのは、まだ私には分かりません。しかし、その生きている過程で私はいろんなことを母に教えてもらったと思います。

全国いろんな所に講演に行くので、母にお土産を買って帰ろうと思った。母の話をするので、半分は母に何かかってやらなくちゃいけないと思うんですよね。母は食べられないので、饅頭を買って帰るのもできないでしょう。何を買って帰ろうかと思ったんだけど、ふと思い出した。それは母が認知症になったすぐの頃でした。キューピー人形をだっこしてあやしていた。我々は兄も私も父も「恥ずかしいから人前でそんなことをするな」とやめさせた。変なことをするなって私は思っていたんですが、母にとっては大真面目なんです。若い頃の自分に戻っているんですね。認知症の人は、自分の充実していた時、とても楽しかった時に戻るとよく言われています。母はやはり子育てをした時が、一番充実して楽しかった時だったんだろうと思います。その頃に戻っている。そして兄か私をだっこしてずっとあやしている。その様子をふと思い出したので、キューピー人形を買って帰ろうって。全国いろんなキューピー人形があるんです。今、80体近く集めています。それを持って帰って「お母さん、○○に行ってきた」と。

こういう講演会があった。講演会が終わったあとに私の控え室に、ノックしてあるお婆ちゃんが入ってきた。「講演をずっと聞いていましたけど、本当に感動しました。ありがとうございました」とお婆ちゃんが言われて、頭を深々と下げて。私もうれしいですよね、そう言われると。言っていらっしゃる途中で、またノックがあって、入ってきた人が「あ、お婆ちゃんここにいたんですか」と言われた。よく話を聞いたら施設の方で、お婆ちゃんを探していらっしゃった。お婆ちゃんは認知症で、言葉は全く分かりません。「藤川さんの話は全く最初から最後まで分からなかったと思いますよ」と言われて。何か複雑なんですよ。「感動しました。すばらしかった」と言われたあとに「藤川さんの言葉なんて全く分からないと思いますよ」と言われて、とても複雑だったんですが、私はその時思ったんです。このお婆ちゃんは感じていらしたんだ。

分かる分からないでいったら、認知症の人は分からない人が多いですよ。できるできないでいったら、認知症の人はできない人が多いけれども、感じる感じないでいったら、とてもよく感じていらっしゃる人が多い。それは母を見ていつも思っていたんです。母は感じているなって思っていた。感じる力だけが残っている人に向かい合うときに、我々は、できるできないとか、分かる分からないでその人に接していたら、全くその人のことは分かりませんよ。しかし、分からないけれども、できないけれども、この人は感じているんだと思ってその人を見たとき、そう粗末にはできませんね。母もそうでした。何かを感じていると思うと、母に適当なことは言えません。

私は認知症の話をしますが、私の話は知識的には底が見えています。専門的なことは知りませんが、母のことを20年間深く感じてきました。一人の人間を深く私は知っている。母のことを知るんじゃなく、感じてもらえればと思います。我々が、私が、感じるということを忘れているんです。感じる感じない、とても人間には重要な要素だと思うので、今日私の話を感じて帰っていただければと思います。

もう一つ、こういう講演会があった。一番前に認知症の方が私の講演を聞いている講演会があった。認知症の方が一番前に座り、その後ろに介護の方、介護施設で働いている人、看護士さん、お医者さん、そして一般の方が聞く講演会ってよくあるんですね。

その中で、私が出てきたら、一番前で認知症のお婆ちゃんが手招きするんですよ。これは何かあるぞと、私は直感で思った。母をずっと見てきたので。目が合ったら手招きする。何かあるなと思いながら話し始めたんです。そしたらお婆ちゃんに「こっち来い、こっち来い」って言われる。行けるわけないです、私は。目を合わせちゃいけないって直感的に思った。そしたらお婆ちゃんが怒り始めるわけ。「来んか! こっち来んか!」という感じになった。当たり前です。認知症の人だから目を合わせないということをしていいかっていったら、それは駄目だと私はあとで思った。お婆ちゃんは頭にこられて「来んか! こっち向け!」──声が大きくなっていって、それどころか、講演を聞いている人たちが、私のほうを向いているけれども、お婆ちゃんを気にしている感じが分かるんですよ。私の話を聞いていない。これはいけないなと思ったので「ちょっと話をやめます。ちょっと待ってください」と言って、お婆ちゃんの隣に私は座ったんです。そしたら、お婆ちゃんが私の背中をさすってくださるんです。「大変やったな。きつかったな。ゆっくり休んでいけ」と。ずっと私の顔をニコニコ見て、もうやめられたので、もういいのかと思って、私はそのまま演台に戻ってきて話を始めたんですね。そしたらそれから1時間40〜50分、何も言わずにお婆ちゃんは私の話を最後までニコーッとして聞いていらっしゃいました。もう「こっち来い」はありませんでした。

私はその時思ったんです。このお婆ちゃんは自分の息子か何かに向かって、休ませてやりたいと思われたんですよ。それを休ませることができて、とても安心されたんだろうなと思いました。簡単なことだったんです。そのお婆ちゃんの私を愛する気持ちを、私は受け取ってやればよかっただけのこと。それを受け取ってやったら、お婆ちゃんは納得された。お婆ちゃんにはお婆ちゃんの物語が頭の中に広がっていて、その頭の中の物語を完結してあげることが、お婆ちゃんのその物語に付き合ってあげることが、とても重要なことなんだな、認知症の人にとっては重要なことなんだなと思った。頭の中の物語を完結するというととても難しく考えるけれども、頭の中にある物語もいっしょにそのお婆ちゃんを受け入れてあげるということなんだろうなと、私は思った。これは認知症の人に限ったことではなく、人と人が付き合うことってのはそういうことですよね。

認知症の人がいたときに、奇行をやめさせることばかり我々は考えます。家族にとって恥ずかしいし、周りにとっては迷惑になるので、やめさせることばかり考えるけれども、やめさせるのではなくて、奇行だといわれている行動から、その人を分かろうとする入り口にする。とても重要なことなんだなと私は思ったんです。その行動から、その人を分かる入り口にする、分かる糸口にしていく、それがとても重要なことだと、物語を見返し読み解くということはとても重要なことなんだなと、その手招きするお婆ちゃんから私は教えてもらったんです。

我々は、賢いので教えるとか思うけれど、お婆ちゃんは賢くもないし分からないことも多いし、そういうお婆ちゃんが私にいろんなことを教えてくれるんですよ。これは、支える側が支えられる時、どっちがどういう関係になるかっていうと、これは分からないですね。私はそのお婆ちゃんを見て思いました。

認知症の方でいうと、徘徊という行動がある、それをやめさせるのではなく、笑うのではなくて、その後ろにある物語を理解し読み解こうとすることは、とても重要なことだと思ったんです。

偉そうに私は書いていますが、私はやめさせていました。母がウロウロしている。「どこも行くな。ウロウロするな。邪魔だろ、これ仕事しよっとに」。仕事をしているときで、特に忙しくなればなるだけ母はどこかに行こうとする。「何でお母さんは俺が忙しくなったらどこかにウロウロ行くんや」と私は言っていましたけど、当たり前のことなんです。忙しくなるってことは、母のほうを見ないでしょ。母はやることがないのでどこかに行こうとするんですよ。当たり前のことなのに、私は行かせませんでした。

ひと晩じゅう探したことがあります、私は母を。そしたら酒屋の後ろのコンテナの後ろでじっと座っていました。父といっしょによく行ったスーパーの酒屋の裏でした。私は行くな行くなと言っていて、その上私は笑っていたんです。

おむつを替えると母は気持ちいいんですね。替え終わったあとふと目を離した隙に、母はウロウロするんです。その様子を見たら、おむつカバーが白くて大きいでしょう、アヒルみたいになってしまうんです。「アヒルみたいだぞ」と私は笑っていたんです。「笑うのではなく」と書いていますが。母が物を忘れていく恐怖や悲しさやつらさなんか全く考えないで「アヒルみたいだぞ」と私は笑っていたんです。しかし私は、やめさせるのではなく笑うのではなく、そこから母を分かればよかったって、今思う。もう遅いですけれど。だけど、だからそういうことをいろんな人に話そうと思って、こうやって話しているんです。

考えたら、父が亡くなってすぐだったんです。だから母は父を探していたんですね。それが分かっていたなら、母の手を握って「お父さんはどこに行ったんやろね」といっしょに歩いてやればよかった。それをせずに私はやめさせて笑っていたんです。認知症の人がそこにいたら、それを理解し読み解こうとすることはとても重要なことだということが、このごろ分かるようになった。

18歳か19歳ぐらいの介護士の、なりたての方にこの話をしたんです。認知症の人を分かろうとしてください、理解しようとしてくださいと言って話は終わったんです。そしたらある方が私の所に来られて「『分かろうとしてください』とあなたは言うけれども、分かろうとしても認知症の人は何も分かりませんよ。言葉がない人が多いし、残っていたとしても訳の分からないことを言うので、分かりません、全く。それでも私は分かろうとしなくちゃいけないんですか? 分かろうとしても分からない上に、何一つ変わらないんですよ。これでもやっていかなくちゃいけないですか?」と言われた。喧嘩腰なんですよ。だから私は「そうです。私は20年ずっと母と付き合ってきましたけど、一度も分かったためしがない。本当の母の気持ちは分かったことがない。最初の頃から母には言葉がなかったので、全く分からなかった。本当の母の気持ちは分かったことがない。しかし、あなたは何一つ変わらないと言ったけれども、私は分かろうとしていくうちに、一つだけ変わったことがあったんだ。ほかは何一つ変わらなかったけど、一つ変わるものがあったんだ。自分自身が大きく変わっていったんです。これ一つだけは確実に変わった。私は母を分かろうとしてきて、母のことは全く分からないし、母との関係も変わらなかったけれど、私自身が大きく変わっていった。自分が変わるって分かりますか? 自分の見る目が変わるんですよ。見る目が変わるということは、見る世界が変わってくる。世界が変わってきたら、母との関係も大きく変わってきました」という話をその人にした。そしたら「そうですかねぇ」なんて疑いましたけど。でも、感性が鋭い人というのはいい仕事をしますよ、たぶん。よく分かってくれたろうと私は思っているんです。

今日は、分かろうとすること、そして私の母の後ろに広がっている人生を、みなさんに聞いていただきます。深く話します。それを支えた父の人生、そしてその重なり合い、父が亡くなったあと介護した私の母との関わり合い方、そして私がどういうことをそこで学んできたか。本当は、私は母の世話をしろと言われた時に、冗談じゃないと思った。私は小学校の教員をしながら作詩活動もやっていました。これ以上母のことが来たら俺は詩が書けなくなる。俺は詩人になりたいのに、俺は詩が書けなくなったらどうするか。絶対やりたくないと思っていた。しかし、やらなくちゃいけなくなって、しょうがない、詩は書けなくなった。そしたら、母のそばにいたらいろんな言葉が湧いてくるんです。そしてどんどん、私は詩を書こうと思っていなかったのに、母との関係の中で詩がいくつも生まれてきた。私の道が開けていった。つまり、自分の目の前に広がっている人生を受け入れるということは、とても重要なことなんだ。自分の目の前に道が開けていく瞬間を、私は見たんです。母に詩を書かせてもらって、母に自分の生きざまを深くしてもらって、私は大きなものをつかんだように思います。

母が認知症になったすぐ、私はいつも言っていたことがある。同じ話ばかり母はしていました。「うるさい。黙れ。同じ話を何回もするな。さっき聞いたぞ、その話は」。その時の詩を一つ聞いてもらいたいと思います。「手帳」という詩です。

手帳

母が決して誰にも見せなかった手帳がある。
黒い背張りの古い装幀の手帳である。
私がその手帳をのぞき込むと、母はすぐ閉じてしまう。
それは、いつも母のバックの底深く沈めてあった。
寝るときは、枕元に置き、見張るように母は寝た。
その手帳には、父と兄と私の名前と誕生日、年齢、電話番号が、
それぞれ見開きのページに大きく書いてある。
それらの後には、自分の兄弟姉妹や父の兄弟姉妹の名前がならべてびっしりと書いてある。
その名前の一つ一つの後には、きちんと丁寧に「さん」と書いてある。
そして、手帳の最後には、「さん」が唯一付いていない自分自身の名前が、
ふりがなを付けて、どの名前よりも大きく書いてある。
その名前には、上から何度も鉛筆でなぞった跡がある。
母は、何度も何度も、自分の名前を覚え直しながら、
これが本当に自分の名前なんだろうかと、薄れゆく自分の記憶にほとほといやになっていたに違いない。
母の名前の下には、鉛筆を拳で握って押しつけなければ付かないような、
黒い小さな点がある。その黒点は、二・三枚下の紙も凹ませるくらいくっきりと母の無念さを写し出して残っている。

その手帳の存在に気づいたのは、父・母・兄・私の四人で話をしていたときのことだった。
どんな話をしていたかは覚えてないが、母が何度も同じ事を聞いてくるものだから、私たちはうるさくなって、
母をほったらかしにして三人で話を進めていた(のだけは覚えている)。
母が、病気だなんて知るはずもなく。とにかく、三人の話を聞こうともせず、自分の話をはじめようとする母に、
私はいらだって、「自分の話ばかりするのはやめてくれ」と冷たく言い放った。
考えてみると、三人の話についていくことができず、自分から別の話を切り出すしかなかったのであろう。
そんな母を理解しようともせず、邪魔者にして、三人の話ははずんだ。「ちょっとあんたは、だまっときなさい」と父に言われ、
「母ちゃんちょっと静かにして」と兄に言われ、
「うるさかね」と私に叱られても、母は黙って、理解できない言葉に頷くふりして、私たちの話に耳を傾けているしかなかった。

ふと気づくと、話に夢中になっている間に、母がいなくなっていた。
トイレにでも行ったのだろう、と思ったが、あまりにも長いこと帰らないので、探してみると、母は三面鏡の前で何かを読んでいた。
声を出して、何度も、私の名前を唱え、その後に、ページをめくり、父の名前、兄の名前を
何度も何度も繰り返し唱え、そして、最後に自分の呼び名である「おかあさん」を何度も何度も何度も唱えて、
ふと立ち上がり、振り返った。
母の手には、手帳が広げられて乗っている。
母は、私に気づくと、慌ててカバンの中にその手帳を押し込んだ。
記憶の中から消え去ろうとしている自分の連れ合いの名前や息子の名前を必死に覚え直し、
自分の呼び名を忘れまいとし、また三人の話に入ろうとしていたのだ。
母は、三人の所にもどってくるなり、私の名前を呼んだ。
いつもは「こうちゃん」と呼ぶ私の名前を「藤川幸之助さん」と呼んだ。
父と兄は驚いたが、私はさっきのこともあって、わざと「なあに?」と言ってあげた。
その日、初めて母にとって成り立った会話。
母は安心した顔をしていた。
父と兄の不安そうな顔。
私も心の中で、これは何かの間違いだと思っていた。

認知症の人というのは、私の母もそうでしたけど、周りの話の内容を分からないんですね。分からないものだから自分が話をするしかないんですよ。残っている話が一つか二つなので、同じ話ばかりするんです。私がしゃべろうとすると、その上にかぶせて母はしゃべろうとするので「何で俺がしゃべるときに限ってしゃべるんだ」と言って「黙っとけ。しゃべるな」という話になってくるんです。そしたら母は静かに黙っている。そしたら、私と父と兄がいっしょにワーッと笑うと、母もいっしょに笑うんですね、ワーッと。話の内容が分からないのに、うれしくも楽しくも何ともないのに、母はいっしょに笑うんですよ。今振り返ってみると、母は本当につらかったろうと思います。なぜあの時笑っていたんだろうかと、私は思った。家族の一員として自分もここにいたいから、笑っていたんですね、母は。話の内容が分からんでもいっしょにワーッって笑っていた。あの顔を思い出すとつらくなりますね、やっぱり。母の気持ちなんか全く私は分からなかった。笑いたくもないのに笑う気持ちは、とてもつらかったろうと、母は、思うんです。

私はその時「うるさい」と言っていたので、母はその場を離れて、三面鏡の前で自分の呼び名である「お母さん」というのを何回も見ている。「お母さん、お母さん」──自分の呼び名を忘れまいとして。その姿を見て、何だろうこれはと私は思った。それでも私はその次の日になったら「うるさい。黙っとけ」──その繰り返しでしたね。

本当に私は駄目な息子でしたが、この話を友人にした時に、こういう話をしてくれた。そこの家ではお祖母ちゃんが認知症で、お孫さんがいて、お父さんお母さんといる家庭だったんですね。お祖母ちゃんは私の母といっしょで、同じ話を何回も繰り返す。また話そうとした時にお父さんとお母さんが「それ聞いたよ。もういいよ、その話は」と言った時に、お孫さんが「もう一回聞かせてよ」と言ったそうなんです。そしてずっと聞いたあとに「お祖母ちゃんの話は何度聞いてもおもしろか」と言っていた。これを私が母に言えていたら、「もう一回話してみろ。お母さんの話は何度聞いてもおもしろか」と言ったら、どれだけ救われていたか。このお祖母ちゃんはニコーッとして、何回もした話をそこでやめて、じっと周りの話を聞きながらニコニコされていた。私は、想像しかありませんが、このお祖母ちゃんは、自分を分かってくれる者が近くにいるんだ、ここにいていいんだなって思われたんだ、それでとてもうれしくなられたんだと思います。

20年前は道路で指さして言われたんですよ、「馬鹿が歩きよる」。これはびっくりしましたね。当時は痴呆症とかいったりしていましたよね。「痴呆」ってどういうことか知っていますか? 愚かなことなんですよ。私は母を愚かだと思ったことはない。痴呆症と言われて、その頃そういうお爺ちゃんお婆ちゃんは外に出さないように家族はしていた。そういう時代に母はいつも外に出ていた。父が連れ出していた。「何が恥ずかしいもんか。俺の妻だ。俺の大切な人なんだ。病気が胃や腸にきたのといっしょ、お母さんの場合は脳にきただけだ」と父はいつも手を握って外を歩いていました。私は恥ずかしくてたまらなかったので、後ろを小さくなって付いていっていた。そしたら「あ、馬鹿が歩きよる」。本当に平気で言うんですよ。特に子供なんか言います。子供っていうのはすばらしい言葉も言うけれども、残酷なことも言う。「馬鹿が来た」と言ってワーッと走って逃げていく。びっくりしますね。1907年にドイツの医学者アロイス・アルツハイマーがこの病気を見つけて、もう100年たっているのにまだこんな感じだし。

この前私がテレビを観ていたら、ある女優さんがコメンテイターとして出ていたんです。そして女優さんが言葉をド忘れしたんです。ド忘れした瞬間「瞬間アルツになったかしら」と言った。「瞬間アルツハイマー」を短くした言葉です。わざわざ病名を使う必要はないと私は思った。病名ということは、それを抱えながらも必死に生きている人がいる。そして必死にその人を支えている人がいる。そういうイメージ深くその病気のことを考えることができたなら、それを簡単に「瞬間アルツになったかしら」なんて。「ド忘れしたんだ」と言えば済む話でしょ。私は、アルツハイマーという病気を抱えて20年間母が必死に生きてきた、その一日一日を知っているんですよ。そういう病名の使い方はないだろうと、カチンときて。

100年たってもこんな感じです。ですから私は、認知症ってこういう病気ですという話ではなくて、認知症を煩った母はこんな気持ちで暮らしていたんですよ、そしてそれを支える父、私、本人やその家族にどんな思いや人生があるのかというのを、いろんな所で話しています。

母に言葉があればいいのにと思ったことがあるんです。いつも母は病院で寝てボーッとしているので、私は母の横にパイプ椅子を持ってきて座るんです。何もやることがないときは、ここに座っておくのは意味があることなんだろうかとずっと思っていた。私のことも分かりはしない。私も何もやることもない。ここに座って何か意味があるのかって、ずっと思っていた。そしたら私の友人がこんな話をしてくれました。友人はホスピスで働いていて、あと1週間か10日しか命がないという患者さんの担当になった。余命は本人も知っているし、周りもみんな知っている状況でした。その人に「何かしてあげることはありませんか?」と言ったそうです。そしたらその人は「最後に何も要らないから、家族の気配をしっかり感じていて、寝ていてもいい、背中を向けていてもいい、新聞を読んでいてもいい、私の目の届かない所をウロウロしていてもいいので、家族の気配を最後にしっかり感じていたい」と言われたのだそうです。

それを聞いた時に、もしかしたら母は私の気配を感じているんじゃないかと思った。分かる分からないでいったら、私のことは全く分からないけれども、何も母にはできないけれども、私の存在とか私のことを何か感じているんじゃないかなと思った。それからです、私は座っておくことができるようになった。それまでは、必ずパソコンを持っていって仕事をやっていました。仕事がないときはテレビを観ていました。母が私のことを感じているんじゃないかと思い始めてからは、私はじっと母のそばに座っておけるようになった。

人間はやることがないときは、やることって2つしかないですね。その人を、母をしっかり見つめること。そして母の手を取ることぐらいですね。じっと母にまなざしを向けるんです。母をしっかり見つめるんです。それまで見つめていなかったので、分からないことがいっぱいありました。それは、母が動いていたんですね。足がピクピクって動くんです。手がピクピクって動くんです。あ、お母さん、動いとっとやと。えーっと思ってその動きを見ると、私はこう思った。母のそばにいると、声のない母の心を理解しようとして、母の心を推測し共感しようとする自分に気づき、つまり、母の痛みを自分のこととして感じている自分にふと気づいた。パッと足が動いたら、母はつらいんじゃないだろうか、何か私に言いたいんじゃないだろうか、動かすことで。きつくて何か動かしたがるんじゃないだろうか。どんな気持ちなんだろうか、母は。母の痛みを感じている自分に気づいたんです。

私はそんなことはあまり感じる親孝行でもないし、母のことを感じたことはなかったんです、そこまで。自分のことばかり考えていて、小学校の教員をしていた時には、いい授業をして、みんなに認められて、県教委に入って、文科省にでも入って偉い人間になりたいって、そんなことばっか。作家になってからは、印税がいくら入るかなとか、本が売れることばかり考えて、自分のことばかり考えている人間が、母の目の前で何もやることなくじっと母を見つめていて、母の痛みを感じるんですよ。何か、私の中から母が、母を思いやる気持ちをグッと引き出してくれているような感じに、その時はなったんです。つまり、母の痛みを自分のこととして感じている自分にふと気づいた。ああ、母が私を育ててくれているって、その時思ったんですね。人のことはあまり考えなかった私が、そういうふうになったんです。人の痛みを感じることってこういうことなんだと思った。  ある時この話をして、そのあとこういう話をした。ベッドに横たわった認知症の方がおられた。男の方でしたが、手が体とベッドの間に挟まったまま。体を動かすこともできず、言葉を言うこともできない人です。つらそうにされているんですよ。この様子を見た時に「この人のつらさや悲しさが分かりますか?」と施設の人に私は言いたかった。ある会場でその話をしたんです。そしたら、講演会が終わったあとにある介護士の方が来られて「そんなこと言われたけど、うちにはマニュアルがあるんです。そういう人が出ないように見回りましょうというマニュアルがあって、そういうふうになっていたら体の下から手を出してあげるというマニュアルがあるので、うちは全く問題ないですよ」と言われる。「そうですか。それはいいマニュアルですね。しかし、考えてください。反対だと思うんだ。マニュアルがあって手を出してあげる行為と、その人の痛みを感じて手を出してあげる行為というのは、全く同じ行為ですよ、外から見たら。しかし、本質的に違いはしないかと私は思うんです。それは、その人の痛みを感じて手を出してあげる行為が綿々と連なっていって、何回もそれが繰り返されていって、マニュアルって出来上がったんですよ。まず根本に人の痛みを自分のこととして感じて、それからそのマニュアルってあるんじゃないだろうか」と私は言った。私は仕事で介護をやったことがないので、痛みを感じるということを伝えたかったんですが、しかし「そうですかねぇ」と言って帰られましたけどね。

感じることはとても重要だ。感じることができる人間と向かい合うとき、こちらも感じなくちゃいけない。これを忘れちゃいけないんだって、私はそのとき言いたかったんです。

母に言葉がなくてよかったと私は思ったことがある。私の母の横に、90歳の認知症のお婆ちゃんが来られたんです。それを60歳の女性の方が介護されていた。そして、90歳の認知症のお婆ちゃんが眠られたので、60歳の方が静かに立って静かに帰っていらっしゃった。そしたら、ベッドの横の所をふと通ろうとした瞬間に、その認知症のお婆ちゃんがパッと目を開けて「わしゃ死ぬんやろ。死ぬけん、あんた帰る気やろ。帰りゃよか」と言いました。そしたら60歳の方が「そんな元気のいい祖母ちゃんが死ぬかね」と言ってまた来られて、二人で話していらっしゃった。そしたらまた90歳のお婆ちゃんが眠られた。60歳の方はまた静かに立って、静かに帰っていらっしゃった。ああよかったよかったと思ったら、病室を出る瞬間です、パッと目を開けて「わし死ぬんやろ。死ぬけんあんた帰る気。帰れ帰れ」と言われた。また60歳の方は帰ってきて「元気がいい祖母ちゃんは死なんよ」と二人でまた話していらっしゃって、今度は90歳のお婆ちゃんは眠られた。だから60歳の方は立って、帰っていかれた。ああよかったと思ったら、また。何度もそれを繰り返されたんですよ。10回20回じゃなかったですね。見ていて半分滑稽にはなるんだけれども、大変だなと思いながら。そして、今度はすっかり眠られたので、静かに帰られたんで、よかったと思ったら、お婆ちゃんがパッと目を開けて、私のほうを見て「わしゃ死ぬんやろ」と。60歳の方が帰ってきて、今度は泣き始められたんです、「家にやらんばならんことのいっぱいあっとよ。帰らんでくれっていう気持ちも分かるけど、わたしはずっとここにおれんとよ。助けてよ」と言って泣き始められた。

その様子を見て私は何と思ったか。母に言葉がなくてよかったなと思った。母が「幸之助、今日は帰らんでくれんか。ここにおってくれんか」と言ったら、帰れませんよ。やっぱり何か後ろ髪が引かれたような、本当にきついだろうなと私はこの時思った。母に言葉があれば同じことを言いたいんだろうけども、言葉がないので心までないと私はいつも自分に思い聞かせて、帰っていたんです。そして、言葉のない母の物語をずっとやっぱり否定してきたんだと、私はずっと思います。

しかし、こういう横着な人間には経験するようになっていますね。妻を私は乳癌で5年前になくしました。乳癌で、そのあとその癌が皮膚に転移して、皮膚に転移したあと今度は骨髄にいったんですよ。骨髄にいったあと骨にいって、骨にいったあと今度は肝臓にいって、腹水になって妻は亡くなりました。骨にいった時にえらく痛がったんです。痛いけれども痛み止めは打たないでって、妻がずっと言っていたんです。だから打たなかったんです。そしたら先生が「もう限界ですよ、この痛みは」と言われるので、妻が亡くなる1カ月前にモルヒネを打ち始めたんです。そしたら妻はボーッとなってきましてね。母が62年間でぼけた過程を、1カ月で同じようにぼけましたね。このぼけ方はいっしょです、全く。同じ話を何度もする、ウロウロする、訳の分からないことばかり言ってくる。母の認知症になった時の道のりと全く同じでした。

こういうことがあった。「アイスクリームを買ってきて」妻がと言うんです。「分かった」と病室を出ようとしたら、「独りにしないで」と言う。帰ってきて座っていたら、「何をやってるの。アイスクリームを買ってきてって言ったじゃない」。また病室を出ようとして、「待って。独りにしないで」と言う。どっちやと。私は行ったり来たりした時に、やっと分かった、その60歳の方の気持ちが。さっき言った90歳の認知症のお婆ちゃんの。こんな気持ちなんだ、言葉があるというのは。私は何度も行ったり来たりしましたが、私はその60歳の方と違って、飛び出してアイスクリームを買いに行った。そしたら病院から「早く帰ってきてくれ」と携帯に電話がありまして「奥さんがナース・コールを押したままにしている」と。大変なことだというので帰ってきて、もう喧嘩になった。その時は1カ月後に亡くなるなんて思ってもみないです。必ず新しい抗癌剤が効いてくれて、妻は元気になってくれて、元通りの生活ができると思っている。それを信じているから介護もできる。妻の世話もできるんですよ。だから喧嘩をするんですよ。

こういうこともあった。私の言うことだけ聞かなくなったんですよ。「アイスクリーム食うか?」と言うと「いや」と言う。「ごはん食うか?」と言うと「あなたとはいや」と言う。「薬飲むか?」「いやだ」「散歩に行こうか」「あなたとはいや」と言うわけですよね。看護士さんが「薬飲みますか?」と言うと「はい」と言ってグッと飲むんですよ。お義母さんが来て「ごはん食べようか」と言うと二人でごはんを食べるんですよ。お義父さんが来て「アイスクリーム、アイスクリーム」と言ったら二人でアイスクリームを食べて。お医者さんが来て「散歩に行きましょうか」と言うと二人で散歩に行くわけですよ。頭にきて「何で俺と散歩に行けないのに、お医者さんと行くんだ」。散歩から帰ってきてから喧嘩になって、頭にきたので私は帰ろうとしたら、お医者さんに「ちょっと来てください」と言われた。「奥さんはね、あなたに甘えているんだぞ。本当の気持ちであなたと接しているんだぞ。あんなきついときに、薬なんか飲みたいと思いますか? あんなきついときに、ごはんなんか食べたくもないし、アイスクリームも食べたくないし、散歩もしたくないよ。それなのに、ほかの人には気を遣って言っているんだぞ。あなたには本当の気持ちで言っていて、甘えているんだぞ。それが分からんでどうするか」と私は怒られた。ああそうなんだ、甘えていたんだと思った。

そうかと思って、60歳の方にもやっぱり90歳の認知症の方ってやっぱり甘えているんですね、何回も言うのは。ああと思いながらも、部屋に帰った。

妻の話をしたのでもうちょっと話しますけど。妻が最後に作ってくれた食事、今目をつぶると思い出す食事があるんです。しかし、その時は最後だと思っていないので「はい、ごちそうさま」と言って終わっているんですよ。あれが最後の食事だったならば、しっかり食べればよかったと、今思うんですよ。でも、今思うけれども、今もう食べることができないんです。

あれが最後に妻と散歩した、最後の時だったと思う時があるんです。しかし、その時も手はつながず、しゃべってくるのでハイハイと聞いて、次の本の題名を考えていましたね。こんな感じです。あれが最後の散歩だったのなら、もっと手でも握ってしっかり話を聞いてやって、歩けばよかったんですよ。その時最後だと思っていない、適当にやっているんです、今振り返ると。もう散歩もできません、妻とは。ですから目の前の人をどれだけ大切に生きていけるか、生きるか、これがとても妻に教えてもらったこと。

振り返ってみると、母も同じようにして私は見ているんです。しゃべっていた時には「しゃべるな。黙れ」と言って、私は口まで閉じたんですよ。今ベッドに横たわって何も言わない母を、じっとしている母を見ると、「何かしゃべってくれんか」と言うわけですよ。しゃべっていた時にはしゃべるなと言っていた。しゃべらなくなったら何かしゃべってくれと言うわけですよ。その瞬間瞬間の母を受け入れなかった行程がやっぱり私にはありますね。

妻は抗癌剤は受けたくないと言っていたんです。私が「抗癌剤を受けないと死んでしまうぞ」と言って、無理して受けさせた。そのあと髪の毛が全部抜けました。二人でかつらを買いに行きました。しかし、抗癌剤を私が無理して打たせたのに、その1カ月後には亡くなるんですよ。本当に抗癌剤を打ったことが良かったのかと、私はそれからずっと考えていた。もうその前から妻にはずっと抗癌剤の話ばかりしていた。つまり、死という点がそこにあったら、その点を先にやることばかり私は妻にやっていた。妻から死を隠して、どんどん死を見せないようにして、遠くにやろうとしていた。そうじゃなくて、死という点は誰にでも来るんだから、そこまでどう生きるかのほうがぼくらはとても重要だったんだなと、私は今思うんです。今妻が癌になったならば、自由に自分で考えさせて、それに私は従う。そして、どう二人で生きるかというのを二人で話すと思います。死というのを点としてとらえて遠ざけるだけで、生きることを忘れていたということも、妻が私に教えてくれた。

「母にいい薬はありませんか」と前はよく言っていたんです、先生に。そうじゃなくて、人工呼吸器の話もそうです、それをはめて長生きすることよりも、母と母の死のその瞬間までどう生きるかのほうがとても重要だと、私は思うようになりました。母の死も含めて母の人生なんですよ。これをすっかり忘れていた。これを妻と母は教えてくれたんです。

そういうのをいろんなものに著しました。声のない言葉のない母の心を詩に起こすということを、ずっとやってきました。私はいつも苛立っていました。母への苛立ちを吐き出すことを、ずっとこういう本の中でやってきたんです。一つその気持ちをこの『まなざし介護』という本から読ませてもらいます。

夕日を見ると

今日もここから
あの夕日が見えました
あの夕日を見ると
いつも思うんです
今日も母にやさしくできなかったと
もっと母にやさしくすればよかったと

ウロウロするな!
ここに座っていろ!
同じことばっかり言うな!
もう黙ってろ!
母さんが病気だって
わかっちゃいるけど

「おれの母さんだろう!
 しっかりしろ!」
と、つり上がった目で
何度も何度も母に言って
母は驚いて
私を悲しそうに見つめて
私は言った後自分をずっと責め続けて

この夕日を見ながら
明日こそ母へやさしくしようと
毎日毎日そう思うけれど
毎日毎日このくり返し
母さんごめんなさい
母さんに苛立つぼくを許してください
母さんごめんなさい
こんなぼくを許してください

こんな気持ちなんですよ。いつも苛立つけれども、母には申し訳ないという気持ち。この繰り返しがずっと私の中にありました。

母のおむつを替えますよね。うんこをきれいに拭いてきれいにすると、私も気持ちいいけれども、母も気持ちいいんですね。気持ちいいものだから、きれいになったあとにうんこをチョロッて出すんですよ。おしっこをシャーッって。やっぱり気持ちいいと出るんですね。冗談じゃない、俺の20分を返してくれという気になるんですよ。必死にやっているのに、また最初からですよ。だからいつも私は苛立っていた。「俺の母さんなんだからしっかりしろよ」。

こういう私がなぜ少しずつ母の気持ちが分かってきたかというと、キーワードは「まなざし」と「あたたかさ」です。これは父が私に教えてくれた。父が介護をしていたんですが、父の手助けなんて私は全くしませんでした。父が独りでやっていました。私は、父が亡くなったあとに、介護はどうすればいいのかも全く知らなかった。だけど、父がやっていた2つのことだけ思い出した。それは、母を見つめていたんです。そして「お母さん、お母さん」と父が言っていた。父は母が認知症になる前、こんなに母に優しくしていませんでした。母が認知症になってからですよ。その姿を見て私はわざとらしいなと思っていた。それをずっと父が繰り返していたら、10日ぐらいたった時に「お母さん」と父が言ったら、母がハーッと笑ったんですよ。すごいなと私は思った。その経験があったので、父が亡くなったあとこれだけはしようと思って、母の顔を見て「お母さん」とやったら、全く反応がないですね。私は1カ月ぐらいかかりました。「お母さん」と言ったら1カ月後に母はハーッて笑ったんですね。何か思い出したのかもしれないし、その時私はとてもうれしくて、まなざしを向けて笑顔を向けるというのはとてもすばらしいことなんだと。それを受け取ることもできるんですから、母のこと。ああ、すばらしいなと思った。

「まなざし」という言葉は、ただの視線ではありません。ものを見るときのその人の目の表情を含めた視線を「まなざし」というんです。つまり、この「まなざし」という言葉は我々に何を教えてくれるか。その人の視線にその人の心を込めることができるということですよ。そして、詩が私にこれをしっかり教えてくれたことだったんです。

もう一つは「あたたかさ」が伝わること。父が母の手をじっといつも握っていました。二人で手をつないでいつも暮らしていました。これも母が認知症になってから。それまで手をつないでいる二人の姿は見たことがない。母が認知症になって父がいつも手を握っていたのを見ていたので、私もそれを真似して握ってみた。そしたら母の手がいつも冷たいんですね。私が手を握ると、私のあたたかさがずっと伝わっていくのが分かるんですよ。ずっと伝わっていったら同じあたたかさになるんですね。同じあたたかさになったら、もっと温かくなる。そしたら母が「アー」と言うんですよ、時々。この姿を見た時に、言葉や意味を超えた所で人は何かを伝えることができると私は思った。言葉を借りなくても、人は何かを伝えて、人は何かを受け取ることができるんだと。あまりにも人は言葉に頼りすぎていはしないかと、私は思った。私は詩人ですよ。言葉を通して自分の心を伝える人間が言うんです。言葉や意味にあまり頼りすぎて、我々はその人を見つめることを、まなざしを向けることを忘れちゃいないか。その人の手を握って、何かあたたかさが伝わることを、忘れちゃいないかと私は思った。あまりにもその人のことを見ないで話していることはありはしないかと思った。イメージ深くその人を見つめること、その人にまなざしを向けること、とても重要なことだなと、教えてくれたのが父ですね。

母が認知症になったとき、父と母は熊本県の人吉市という所の近くに住んでいました。私は長崎県の平戸という島で、小学校の教員をやっていました。そして母が認知症だと分かった時に、私は車で帰ったんです。父はその時心臓病を患っていて、身体障害者1級の手帳を持っていました。いつたおれてもおかしくないそんな父が兄と私に宣言したんですよ、「お母さんの世話は俺が全部するから。お前ら何もせんでいい」。私は、自分の仕事や家庭のことを考えると、ああよかったと思って、父に「お母さんは病気なんやけんね。優しくせんと駄目ぞ」と言って帰った。帰って、1週間に1回必ず電話して「お母さんは病気なんよ。お母さんに優しゅうしよるか」と毎回。何もやっていない人間というのは型通りのことばかりですよ、こんなふうに。いつも言っていたら、父が「分かった、分かった、お前は仕事を頑張れ。俺が全部お母さんのことはする」と言っていた。

そんな私でもとても気になったので、何か、花見にぐらい連れていくかと。私はだいたい盆も正月も帰らない息子ですからね。そんな息子はいないですよね。そんな息子が、父が頑張っているから、母も病気になったからといって、花見に連れていった時の詩を一つ。

花見

父と母を連れてドライブをした
たこ焼きとカンのお茶を買って
三人で花見をした
弁当屋から料理を買ってきて
花見をやればよかったね
と言うと
弁当は食い飽きてね
と父が言った
母が料理を作らなくなって
よく弁当屋に行くのだそうだ
弁当屋の小さなテーブルで
二人で弁当を買って
並んで食べるのだそうだ
そんな姿を見て
あの二人は仲のよかね
と病院中で評判になっている
ことを嬉しそうに
父は話した

この歳になっても
誉められるのは嬉しかね
何もいらん
何もいらん
花のきれかね
よか春ね

母に言葉がいらなくなったように
父にも物や余分な飾りは
いらなくなってしまった

母を連れてドライブをした
今年もカンのお茶とたこ焼きを買って
二人で花見をした
花のきれかね
よか春ね
と母に言ってみる
独り言を言ってみる

父と母をドライブに連れていくと、父がドライブの途中に弁当屋のほうを指さして「あそこの弁当屋のあの小さなテーブルで、毎晩お母さんといっしょに食事するとよ、弁当買って。お母さんは料理を作られんやろが」と言うわけですよ。そこは弁当を包むためのテーブルで、食べるためのテーブルじゃないですよ。そこに椅子を持ち寄って、二人でごはんを毎晩。母が料理を作らなくなって、弁当を買って食べるということを聞いた時、いくら私でもグーッと悲しい気持ちになった。そして父に言った、「俺は帰ってくるぞ、お父さん」。

1カ月か2カ月くらいには帰るようになった。そしたら母は、私のことを分かっていたので「幸之助が帰ってくるならカレーライスを作らんといかんね」と言い始めた。私がカレーが好きだった。もう作り方は忘れているんですよ。その時の詩を一つ。「約束」という詩です。

約束

今度帰るときにはライスカレーを作っておくからと嬉しそうに母は約束した。

久しぶりに実家に帰ってみると、約束通りライスカレーがテーブルの上に一緒においてあった。食べると母の味つけではない。レトルトのカレーを皿に盛りつけただけのものだとすぐに分かった。「お母さんのカレーはうまか」大げさに父は言っている。「これ母さんレトルトだろ?」私は不機嫌に言った。「二つとも時間をかけて作ったんよ」母は言い張った。「ちがうよこれは母さんのカレーじゃないよ」「お母さんのカレーはうまか」母の方を向いて大声でまた父が言ったので、私も意地になって言い返そうとした時「お母さんのカレーはうまか」父が私をにらみつけてまた言った。

母が風呂に入って、父と二人っきりになった。

料理の作り方を忘れてしまって、自分から作ろうとはしない母の話を聞いた。母が私とのライスカレーの約束の話を、父に何度も何度も話すのだそうだ。そこで、ろくに炊事をしたこともない父が、母に代わってレトルトのカレーを用意してくれていたというわけだった。「母さんの盛りつけをよく覚えてて再現できたじゃない。お父さんにしては上出来上出来。」私は父にお世辞を言った。父は嬉しそうに笑った。

小学校に入学した時も、母はカレーを作ってくれたんです、私が好きだったので。中学校の入学式もカレー、高校入試に合格した日もカレー、教員採用に合格した時もカレー。愛情の一つの表し方だったんですね。この時も、父の手助けをしようと思って帰ると「幸之助が帰ってくるから、カレーライスを作っとかんといかんよ」とずっと父に話したという詩です。認知症という病気は何でもかんでも忘れるとよく言われていますけど、息子の好物は忘れなかった。息子を愛する気持ちというのも忘れていないんだと、私はその時思ったのを覚えていますが。

父の介護というのは典型的な男の介護でした。紙が貼ってある。「○時○分、お母さんと起きる」──そんなことをやらなくても人は起きるんですけど。「○時○分、お母さんといっしょに歯を磨く」「○時○分、お母さんといっしょに食事をする」──それに合わせて父と母は暮らしていて、ちょっとでも時間がずれると父はイライラしますからね。やっぱり男の介護ですね。

その中に「お母さんといっしょに歌を歌う」というのがあった。「旅愁」(犬童球渓作詞、オードウェイ作曲)です。二人で歌えるときは歌って、母が歌えなくなったら父が歌ってあげていた。今でも私は母に歌うんです、この歌を。そしたら母は「アーッ」と言うんですよ。びっくりする。きれいに歌ったら駄目なんですよ。CDも全然反応しません。父の真似して下手に歌う。下手に歌うのは大変です。そしたら母がいつも「アーッ」と言うんですよ。ほかのときは全く反応しない母が、父の真似をしてこの歌を歌うときだけ「アーッ」と言う。まだ母の心の中には、父との楽しかった思い出や父の愛情がやっぱり結晶となってしっかり残っているんだ。この歌を歌うと思うし、それ以上に、私の中に父が生きているんだなと思いますね。そして、父と母と私3人でいるような感じにいつもなるんです。

そんな父がですね、ポックリ死んだんですよ。父は心臓が悪かったので、状態が悪かったものでね。父が遺言で「お母さんの世話は幸之助がやっていくこと」と書き残していて、それで私が母の世話をやり始めたんですが、私は平戸で小学校の教員をしていて、仕事のこと、家庭のことを考えると、私は母を家に連れてくることができませんでした。それで施設に母を預けたんです、人吉市の。そして預けて帰る時ですよ、母がずっと私に付いてくるんです。そして施設の扉から出ようとしたら、母は私の服の裾をずっと握るんですよ。だから「お母さん、さようなら」と言って母のつかむ手を広げて、「さよなら、帰るけんね」と言ったら、また握るんですよ。母の手を広げていたら悲しくなってきて、これはまずいと思ったので私は怒ったんです。「お母さんの家は今日からここなんだぞ。しっかりせんか」と私は怒った。そしたら母はパッと手を離して、それでも付いてこようとするんで、施設の人に母を抑えてもらって、私はそのまま車で帰ったんですが、車を運転しながら思ったんです。私は母を捨てたんだ。私は母を捨てたんだ。何が家庭だ、何が仕事だ、母一人も幸せにできんで俺は何者なんだと、ずっと私は自分を責めましたね。もう全く駄目だ、これは。

平戸で授業をするでしょ。黒板に字を書いていてもずっと母のことを考えるんですよ。「申し訳ない」とずっと考えるんだけども、生活は母を連れてくることはできない。つらい日々だったですね。その時の詩があります。

旨いものを食べると

旨いものを食べると
病院に入ったまんま死んだ父が
フッと私のそばにやってくる
食わせたかったなあ
あの時無理をしても
鰻を買ってきて食わせてやればよかった
病院の食事なんて今日は残していいさ
なんて言ってやって
早く出て母の世話をと焦ったあまり
症状を隠して
死んでいった父

自分が大声を出して笑っていると
今老人ホームにおいたままの
母がフッと私のそばにやってくる
いっしょに笑いたいなあ
自分だけ楽しんで
母さんごめんねと
笑い声に
ザバンと水がかかる
ジュッと
いつもの私に戻る

三日前私は
食堂で百五十円やすい
コロッケ定食にした
昨日は
バラエティー番組の笑い声を聞いて
不機嫌にテレビのスイッチを切った
今日も
缶ビールを飲むのをやめた
5ヶ月前に買った缶ビールが
冷蔵庫の中で
飲まれる明日を待っている

質問を受けたことがあって、「冷蔵庫の中に入っている5カ月前に買った缶ビールは、飲んだんですか?」。いい質問で、私は全く飲めなくなったんですよ。飲めるんですけど飲めなくなった。というのは、5時間かかるんですよね、平戸から人吉まで車で高速を飛ばして。夜中に母がたおれたと聞いたら、車で行かなくちゃいけないでしょ。だから全くアルコールが飲めなくなって。缶ビールに賞味期限があるのに初めて気づいて、捨てたのを覚えていますね。

もう一つ聞いてもらいます。

祈る

父の仏壇の前で手を合わせるとき、母のことをどのようにお願いしようかと迷う。

「病気が治りますように」と祈るにもアルツハイマーという病気は治りそうもなく嘘くさい。「母が一番辛くないようにしてください」と祈るとなると母の息がすっかり止まり、安らかな顔が脳裏に浮かぶ。「母が幸せになりますように」と祈るとなると天国へ行って父と再会し、もうボケもどこかへいってしまったりりしくて嬉しそうで幸せそうな母の顔が目に浮かぶ。

結局何にも祈らず「まだ母さんを連れて行かないでよ父さん」と小言のようなことを、父の写真に向かって毎朝毎朝お経のように言う。

とても気になったので、1週間に1回帰ろうと思った。その時は隔週で土曜日の授業があったんです、小学校は。2時ぐらいに出て7時ぐらいに着くんです、母の施設に。そして母を出して、ホテルに泊まったり伯父伯母の所に泊まったりして、いろんな所に母を連れていって、次の日に施設に母を置いて帰る。それを毎週続けたんですね。本格的に介護をやった時です。本格的にといっても1週間に1、2回なんですけど、もう精一杯だったですね。この時、おむつを初めて替えた時の詩を。

おむつ

母が車の中でウンコをした
臭いが車に充満した
おむつからしみ出て
車のシートにウンコが染み込んだ
急いでトイレを探し男子トイレで
尻の始末をした

母を立たせたまま
おむつを替える
狭い便所の中で
母のスカートをおろす
まだ母は恥ずかしがる
「おとなしくしとかんとだめよ」
母のお尻をポンポンとたたいてみた
子供の頃のお返しのようで
少し嬉しくなった

母のお尻についたウンコや
性器に詰まったウンコを
ティッシュで何度も何度も拭いてやる
かぶれないように拭いてやる
母が私のウンコを拭いてくれたように
私は母で
母は私で

母の死を私のものとして見つめる
私の死を母のものとして見つめてみる
母と一緒に死を見つめてみる
狭い棺桶のような直方体の
白い便所の中で

鍵を開け母の手を引いて
便所から出る
そして
左手で母をつかまえたまま
私も便器に向かい
右の手で小便を済ませた

なだらかな曲に乗せて聞くといい詩みたいですけど、そんなもんじゃなかったですね、初めて私がやった時。ここで実演したいくらいですよ。

車で行ったんですね、母にきれいな花を見せようと思って。そしたら施設の人が「行くならば紙おむつを持っていってください。お母さんはいっぱい出しましたんで心配ないですが、出たときには」と紙おむつをもらったんですね。それを載せて高速を運転していたら、臭くなっていった。「お母さん、うんこしたって施設の人は言ったぞ。まだうんこしよるのか」とこっちは言うわけですよね。母はボーッとしているわけでしょ。パーキングに入って、母を今からトイレに連れていくという時に、そもそもそれまで介護をしたことがないですから、男子便所に連れていくのか女子便所に連れていくのか、そこから分からなかったんです。私が女子便所に行くわけにはいかないのでと思って、男子便所に連れていった。そしたらみんなが変な目で見るんです。そういうのは悲しかったけれども、一ついいことがあった。和式の便所だったんです、全部あの頃は。和式だから床に付いていますよね。あそこにまたがらせることができたんです。またがらせて、私は膝をついて座る。抱えながら、おむつを替えたんです。そしたら母は、認知症の方はこういう人が多いんですが、母は特に多かったですね、うんこをすると触ろうとするんですね。「触るな。触らんでくれ」と言いながら拭くんです。そしたら母が、ふと向こうを私が向いている隙に、スッと触った。「お母さん」と言ったら、呼ばれたと勘違いして、母の手が私の胸に。私の服にうんこがベタッと付いて。臭いんです、これが。こっちもうんこが付いたから頭にきて「しっかりせんか」と怒ったら、母がよだれを喉に詰まらせて、上からよだれがダラダラ落ちてくるわけですよ。頭がよだれだらけになって、目に入ろうとするわ、胸のうんこは臭いわで、大変なことになって、こらえ性のない私はうんこごとおむつを床に投げつけた。まあそれが跳ね返ってきた。足元もうんこだらけですよ。けれども、そういう状態でも母をきれいにしなくちゃいけないので、まずはきれいに拭いて、こんなことをしなけりゃよかったと思いながら床を拭いて、車に帰ったんです。トイレを私も済ませて。

そしたら母は気持ちいいのでスーッと眠るんです。私は涙が出てきて「お父さん、これでいいとか? お父さんは俺に任せたけど、こんなことしかできんぞ」と。胸にうんこが付いているわけです。「俺も仕事があるけん、こんなことをしてる間に仕事をしたかとぞ」と涙が出てきた時に、ふと思った。こんな大変なことを父がやっていたんだと思った。親父は独りでこんな大変なことを誰にも何も言わずにやっていたんだ。その時、生きることを引き継ぐとよくいわれますが、あれは魂だとかそういうことじゃなく、父の本当の気持ちが分かった瞬間でしたね。父が私に任せてくれたことがよく分かりました。

そうやってバタバタやっていると、今度は母が、私が帰ってくるのを待つようになって。詩を一つ読みます。

認知症の母を
老人ホームに入れた。

認知症の老人たちの中で
静かに座って私を見つめる母が
涙の向こう側にぼんやり見えた。
私が帰ろうとすると
何も分かるはずもない母が
私の手をぎゅっとつかんだ。
そしてどこまでもどこまでも
私の後をついてきた。

私がホームから帰ってしまうと
私が出ていった重い扉の前に
母はぴったりとくっついて
ずっとその扉を見つめているんだと聞いた。

それでも
母を老人ホームに入れたまま
私は帰る。
母にとっては重い重い扉を
私はひょいと開けて
また今日も帰る。

扉から私が帰ると、施設の人が内側から鍵をかける。そしたら母は扉の所にくっついて、ずっと2時間その扉を見つめているんだと、私は施設の人に聞いた。聞いた時、施設の人が2時間ここに母を立たせていると思ったんです、私は。1週間たったら苦情を言おうと思って、考えてみたら、母はこの扉を見ながら、私との楽しかった思い出とか、私のことを考えていたんだなと私は思った。母を立たせてもらってありがたいと、逆になったんですね。次の週、「本当にありがとうございます、立たせてもらって」と。立たせてもらってありがとうございますとは、私ぐらいしか言ったことがないでしょうけどね。

母には全く言葉がなかったので、母の心を知る唯一の手がかりは扉だったんです。この扉を見ると毎回悲しくなってきて、ですから、長崎に連れてこようと思って、母を連れてきて、いろんな所に私はそれから母を連れていったりしたんですが、母を長崎に連れてくる時に、熊本の荷物を全部整理しなくちゃいけない。そしたら日記帳が出てきたんです。大学ノートで何十札もありました。父の日記と母の日記が。母は生きているので読んじゃいけないんですけど、ちょっと読んだという話です。

母の日記

認知症が進む中でも、母は日記を書き続けていた。
日記は、毎日同じ文面で始まり、幾行かの出来事が書いてあって、毎日同じ文面で終わっていた。
時には前の日の日記をそのまま写しているときもあった。
「知っているんだけど」と前置きしながら、簡単な字を何度も何度も聞く母。優しく教える父。私が日記をのぞくと、母は怒ったように書くのをやめてしまっていた。
日がたつにつれて、字のふるえがひどくなり、誤字や脱字が目立ち、意味不明の文が増えていた。もう日記なんて書かなくなった母。
私はそんな母の日記をくりながら、自分の名前の書いてある箇所だけを探す。どんなにか母に心配をかけていたようなことにも、ひどく母と言い争ったことにも、私の部分には、あの子は優しい子だから大丈夫と書き添えてある。

私は中学高校の頃はろくな学生じゃなかった。勉強を全くしなかったんです。高校なんか教科書を買いませんでしたからね。学校に行くどころか音楽ばかりやっていて、ある時父と母が学校に呼ばれて怒られたんですよ。怒られて、帰ってきて、私は怒られるわけですね、父と母に。「そんなに怒るぐらいなら、俺を産まなきゃよかったんだ」と私は言った。嫌いじゃないんですよ。反抗する。「馬鹿野郎」と父親に言って、母親にもにらみつけて私は家を出ていった。それが日記に詳細に書かれていましたね。「幸之助が私をにらみつけて、お父さんに『馬鹿野郎』と言って家を出ていった」と書いてあります。そのあとですよ、「あの子は優しい子だから大丈夫」と書いてある。その時びっくりしました。私は誰も私のことを信頼してくれていないと思ったし、私を嫌がっていると思ったら、母がこんなに私のことを信頼してくれたんだなと私は思った。その時には気づかなかった。これはご住職の本多さんが言われた言葉なんです、「お母さんが過去に書いた言葉だけれども、未来からあなたを励まして、あなたを育てているんですよ」。ああ、そうだと私は思った。母の言葉が、「あの子は優しい子だから大丈夫」と言った言葉が、私を毎日のように励ますんですね。私はこの日記を見てよかったと思うけども、母はどんな気持ちなんでしょうかね。

日記を見た時、私は思ったんですよ。小さい頃、母や父にもらった愛や優しさが、私の心のどこかにたまっていて、それを「お母さん、ありがとう」と言いながら母へ返している感じが、今とてもすごくします。認知症という病気がなかったら、私はこれだけ母のことを思いやったでしょうか。思いやらなかったと思います。母が認知症になって、認知症の母がそこにいてくれたからこそ、母の痛みを自分のこととして感じて、母のことをしっかり考えたんです、私は。母が認知症にならなかったら、こんなことは全くしなかった。いわば、母が認知症になって、認知症という病気、認知症の母が、私と母の親子の絆の結び直しをしてくれたんじゃないかと、このごろ思うようになった。父もそうです。母が認知症にならなかったら、父はこれだけ母の手を握って母に優しくしただろうか。違うと思います。私はしなかったと思いますよ。母が認知症になって、認知症という病気がそこにあったからこそ、父と母も夫婦の絆の結び直しができたんだと私は思います。

病気というのはなくすことばかり考えます。これはなかったらよかった、この薬で治ればいい、そのことばかり考えるけれども、その病気を受け入れてしっかり生きて行くことによって、しっかり自分の道が見えていくことがあるんです。私は母が認知症にならなかったら、詩人になりたいと言っていたけれども、詩なんて誰も読んでくれませんでしたよ。母がいて、認知症になったから、それを詩に書いたら、多くの人が私の詩を読んでくれるようになった。つまり、母は私に詩を書かせてくれているんですよ。私の体を借りて母が詩を書いているとさえ私は思います。人はその関係性において生かされている。深く感じます。これが母じゃなかったら私はこんなことはしませんしね、それは。絆の結び直しを母がしてくれたと、思っているんです。

最後の話です。横断歩道の向こう側に赤ちゃんを抱いた20代前半の若いお母さんが立っていた。そして私たちの間を大きなダンプカーが砂ぼこりを立てながら通り過ぎていった。通り過ぎたあとそのお母さんを見たら、ダンプカーに背中を向けて赤ちゃんをじっと守っている。この姿を見た時私は思ったんです。この若いお母さんは、この赤ちゃんがいるからこそ、その心の中からその子を守ろうとする勇気や優しさや、母性が引き出されているんだ。この赤ちゃんがいるからこそ、この若い女性は母親たり得ているんだと、私は思った。

私もいっしょだ。認知症の母がそこにいてくれたからこそ、私の中から人を思いやるという気持ちをグイグイ母が引き出してくれている。母は認知症になって私を育ててくれているんだと、思うようになりました。今でも母に育てられているという感覚が私にはあります。母は全く動きません。ベッドでボーッと天井を見るだけです。意味のある言葉も言いません。意味のある動きもない。そういう母が私を育てるんですよ。つまり、関係性の中で我々は生かされていくということも母に教えてもらったけれども、もっといえば、母がベッドに横たわり、意味のある言葉もないし、そういう動きもないのに、人を育てる。つまり、人は生きてそこに存在するだけで大きな意味を持っている。母はそこに生きてただ存在するだけで大きな意味を持っていると、思うようになりました。

母を支えるということは、実は母に支えられ育てられていたということも感じるんです。今日の演題の「支える側が支えられる」つまり、支える側の私が母に支えられ育てられていたという話を、今日は聞いていただきました。最後に「バス停のイス」という詩を引いて終わりにしたいと思います。

バス停のイス

バス停にほったらかしの
雨ざらしのあの木のイス。
今にもバラバラに
ほどけてしまいそうな
あのイス。

バスを待つ人を座らせ
歩き疲れた老人を憩わせ
時にはじゃま者扱いされ
けっとばされ
毎日のように
学校帰りの子どもを楽しませる。

支える。
支える。
崩れていく自分を
必死に支えながらも
人を支え続け
「それが私なんだもの」とつぶやく。

そのイスに座り
そのつぶやきが聞こえた日は
どれだけ人を愛したかを
一日の終わり静かに考える。
少しばかり木のイスの余韻を
尻のあたりに感じながら
〈愛〉の形について考える。

母の後ろに広がっている人生、それからそれを支えた父の人生、その重なり合い、そして私の人生の重なり合いを聞いてもらいましたが、どの高齢者の後ろにも、どの認知症の方の後ろにも同じように人生が広がっていて、そして、どの人の後ろにも、同じように人生が広がっていて、その人を支える人がいて、その重なりがある。人をイメージ深く見るということは、こういうことではないでしょうか。そして、イメージ深く見て、イメージ深く感じる。とても重要なことではないかと、これは母に教えてもらったことです。

長時間、どうもありがとうございました。

(文責:蓮光寺門徒倶楽部)

藤川幸之助先生

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