あなかしこ 「門徒倶楽部」機関紙

宗祖七百五十回御遠忌に向けて

篠﨑一朗〔釋一道〕 51歳

先日「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌東京二組お待ち受け大会」が開かれ、久しぶりに浅草に出かけた。目指すホテルまでの道すがら、東京スカイツリーがニョキニョキと立ち上がって、ビルの谷間から見え隠れしている。完成するまでの間、今日の高さの姿は二度とお目にかかれない日々が続くのだ、と、ふと思ったら自然とカメラを取り出していた。前方には、若い女性が同じようにツリーにカメラを構えていた。写真とは一瞬一瞬を切り取るものと言われるが、工事中のツリーを見て、今、この瞬間(姿)は二度と戻ってこないと思って撮っている人は、果たしてどれ程いるのだろうか。

到着した会場は浅草ビューホテル。この大会に至るまでの「親鸞聖人に人生を学ぶ講座」やその前後の準備会・反省会等でも、いろいろな問題が起こった。その度に門徒と寺族スタッフがこの共同教化のあり方から議論し、困難を乗り越えていった。その議論の場は、教えを伝えず、通過儀礼としての「葬式仏教」などと揶揄されているような形骸化したお寺に対しての世間一般の批判とはまったく無縁の、真摯な空間が広がってなんともいえない「場」が出来ていた。

御遠忌とは自分にとっていったい何なのか。「親鸞聖人に人生を学ぶ講座」とは、聖人が歩まれた人生を丁寧になぞって、教学的な学びをしていく場ではなく、聖人が師法然上人を通して「本願からの呼びかけ」を受け止め、「煩悩具足の凡夫」「罪悪深重の凡夫」である我々に、「目覚めよ」と教えてくださったそのことを、各人が自分の人生の中で「悩み」「苦しみ」を振り返り、本願の言葉を確信していく「場」であり、それを門徒と寺族が共に語り合い振り返る「場」であった、と私はいただいた。

「『生老病死』の身のままに何を願い、何を願われて生きるのかということが仏教の根本課題である。」と言われても、多くの若いぴんぴんした者にとっては、実感が湧かず、日々の生活に追われてしまうだろう。私も13年前の、自分ではどうすることも出来ない「病・死」という場面に真向かいにさせられなければ、ここまで深く頷くことが出来たかは分からない。でも、どんな人間であろうと、苦悩のない人生はない。自分を見つめることを通してしか、本当の意味での本願の呼びかけに頷くことが出来ないのではないかとも思う。

御遠忌は、そのプロセスを経なければ単なる通過儀式で終わってしまう。真宗の在家仏教たる所以は、一人ひとりが日々の生活の中で、『安心して迷いながらも歩める人生』を深く頷き、いただくことができることだとも思う。

この大会に参集する意味は、御遠忌をご縁として「凡夫の我が身」であることを、寺族と門徒が一体となって聞法を通じて自覚することだったと、大会が終わった今あらためて思うのである。この講座で共に学んだ法友の皆様と参詣する、5月の本山本法要が楽しみである。

Index へ戻る ▲