あなかしこ 「門徒倶楽部」機関紙

法話 木越康先生

真夏の法話会&蓮光寺ビアガーデン

2008年8月2日(土)

講師: 木越康先生(京都市、大谷大学准教授、44歳)

テーマ:「帰本願の仏道」

「世俗化」という問題

ただいまご紹介をいただきました京都の大谷大学の木越と申します。蓮光寺のご住職とはおそらく私が東京で生活していたときなのかもしれませんが、恐らく十数年は知り合いなのだと思います。そんなことで今日のご縁をいただきました。

さて、今日のテーマですが、親鸞聖人の仏道を、一言で表しますと「帰本願の仏道」となるかと思い、そのような題名を付けさせていただきましたが、中身は私が日ごろ関心を持っていること、あるいは特に学生さんといっしょに仏教を勉強しておりますので、その中から感じられる事を幾つかご紹介したいと思っております。

大学では、それぞれみな研究課題を持っているのですが、私自身、「世俗化」をめぐる問題が大きな課題となってきています。世俗化という言葉はキリスト教の方々がよく使う言葉です。私は僧侶の資格を持っていますが、国内研修員として、東京の大学に来ていたときの研究の中心はキリスト教でした。2年間キリスト教を中心にした大学を回ったりしておりました関係もありまして著書も『キリシタンが見た真宗』あるいは『仏教とキリスト教の対話』を紹介していただいておりますけれども、世俗化といいますのは、そういう世界で使われる言葉なわけです。これをもう少し易しい言葉で言い直しますと、脱宗教あるいは非宗教ということを意味します。要するに宗教離れというのですね。あらゆる人間が、さまざまな場面で宗教離れを起こしているということです。

こちらの蓮光寺さまは、非常に失礼な言い方ですが、異様な光景というのでしょうか、法話会で4歳から90歳までの方々がお寺に集まるという事は、普通はありえません。通常のお寺さんの法話会は、非常に焦点が絞りやすいのです。なぜかというと年齢がだいたい65歳から85歳ぐらいで、しかも女性の方が多い、だいたいそんな感じです。ですから、これだけ幅広い方々がおられる蓮光寺さまは特別で、世間一般では、いわゆる宗教離れが起こっているのです。非常に世間化しているわけですけれども、キリスト教の世界ではこの事を大きな問題にしているのです。つまり、キリスト教徒が減っているということです。日本の中でいえば、真宗、あるいは仏教の現場で言いますと、仏教というものを中心にものを考えていく人間が少なくなっているということなのです。

世俗化を定義する言葉をご紹介します。ピーターバーガーによれば、社会と文化のさまざまなものが、宗教の制度や宗教の象徴、その支配から離脱する、離れていく、それを世俗化といっています。また、現代世界は、自分の人生を宗教的な解釈の恩恵なしに流れる人々を数多く生み出してきた、これが世俗化、宗教離れとピーターバーガーは定義します。

キリスト教は聖書が中心になりますが、創世記の天地創造から始まっています。要するに天・地なるものが神さまによって創られたのであるというのがキリスト教の、旧約聖書ですけれども、一番初めにあるわけです。神さまは一週間かけて、この天地を創造されたというふうに記述されています。まず空と地面を分け、そして闇と光を分け昼と夜を創った、さらに天と地、海と陸地を創った。それで昼と夜と天と地と海と大地が出来上がる。それから少しずつ、そこに生命を宿し始める。最後の6日目に作られたのが、私ども人間であるとされています。私たち人間は最後に創られる。この創世記・天地創造によりますと、最後に創られた私たちには、創られた目的があるのですね。どのように記されているかというと、神に代わってこの世を支配するために、私たちは創られたと記述されているわけです。ですから、私たち人間はこの地球を支配する権利を持っているのです。これは神さまからいただいた権利ですね。最近はその権利をどんどん主張して、ものすごい自信たっぷりで悪いことをしているでしょう。そんなことができるのは、神さまに与えられた権利だと思い込んでいるからです。つまり、神に代わって、この地球というものをコントロールするために人間がいるのだと認識するわけです。そうすると、迷わず生きていけるのですね。何のために私たちが存在するのか、これがなくなると困りませんか。なぜ人間は生きているんだろうか、これは仏教的な問いのスタートなのですけれども、キリスト教はそういう問いを持たないのです。

ところがキリスト教の方々が世俗化を問題にするのは、人間が神さまによって創られたということを信仰する人たちはほとんどいないからです。学校の教育の現場では進化論ですね、そういうふうなことを教えます、人間はもともと猿だった、そして猿がどんどん進化して、人間になったということはみんな知っているわけです。神さまによって創られたなんて誰も思っていないわけです。

そういう意味で、今の子どもたちが、こういう創世記・天地創造という教育を受けずに近代的な合理的教育を受けると当然のことながら、世俗化と呼ばれる宗教離れが始まってくるわけです。そうすると、何のために人間が生まれて、人間が何をしていいのかが今度は逆に分からなくなってくるのです。そもそも人間がこの地球上にいばっていていいのかさえも分からなくなってくる、いばる権利がなくなってきたわけです。

現代世界は、世界と自分の人生を、宗教的な解釈の恩恵なしに流れる人々を数多く生み出してきたのです。これが世俗化という事なのですが、そのことをきっかけにいろいろなことが起こっているのです。どうしていいのか分からない時代が始まったということです。

ただ本当に今の人々が宗教離れを起こしているのかということについて、実は私自身、かなり疑問に思っているのです。それは最後にお話をしますが、学生さんたちと接していきますと、ものすごく宗教的な欲求というものを非常に強く持っていると感じます。ですから今日は世俗化という事と宗教的なものについて考えたいなと思って参ったわけです。

合掌論議

宗教離れに関して、日本の場合について、少しお話をしていきたいと思います。

日本の場合の世俗化ですが、今日は京都から参りましたが、私の出身は北陸、石川県の金沢というところです。東京にもたくさん、石川県の方がおられます。石川県は、私は嫌いな言葉ですけれど真宗王国といわれているのです。これは真宗のご門徒が多いという意味でもあるし、お坊さんが非常に威張っているという意味でもありますが、そこで、先ほどいいました世俗化、非宗教化ということをめぐって、大きく話題になったことがありますので少し紹介いたします。菅原伸郎さんの『宗教をどう教えるか』という本にもその事件が出ております。菅原伸郎さんは、蓮光寺のご住職もお友だちだと思いますので、本は持っていると思います。ここにも紹介してありますが、私どもの北陸の学校現場で起こった問題があります。もう10年ほど前になりますか、実際は石川県の隣の富山県で起こった合掌論議というものです。中学校や小学校で給食の時、合掌する事が問題になったのです。

富山県も石川県と同じ真宗王国です。だいたい滋賀県、福井県、石川県、富山県、新潟県当たりまでが非常に真宗のご門徒が多いところで非常に熱心です。その富山県で合掌が論議されたのです。きっかけを作ったのはもちろん富山県の人ではありません。富山県の人は普通に合掌しています。実は関西のほうからある人が富山県に引越してこられて、そこで問題を起こしたのです。公務員の方だったようですが、その方にはお子さんがたくさんいらっしゃったようですが、中学生のお子さんが、転校のため、もらってきた入学のしおりを読んだお父さんが、問題性を感じて校長先生に手紙を書いたことが、この事件のきっかけなのです。

お父さまは、入学のしおりの日直の仕事覧に問題を感じたわけです。何と書いてあったかといいますと、日直の仕事の欄のお昼の部分です。「先生の給食を準備する。合掌の号令をかける」と書いてありました。そのお父さんは今の言葉でいうとキレて、校長先生に手紙を書いたのです。「お忙しい毎日と存じます。富山県内の学校では、給食や宿泊学修の食事の時に合掌の号令をかけている場合が少なくありません。しかし合掌というのは元来仏教の礼拝形式です(木越先生→これ間違いです)。これを公立学校で行うことは、憲法第20条や教育基本法第9条に違反します。号令をかけなくても、『給食を始めます。いただきます』、『これで給食を終わります。ごちそうさま』と、言い換えればなんら問題はないでしょう。国際化が進み県内にも外国からいろいろな宗教的信条を持った子どもたちが来ています。ご議論の上改善していただきますようお願いいたします」といった内容の手紙です。

合掌が憲法違反だとおっしゃったのです。私も悔しいので憲法第20条と教育基本法第9条を調べてみました。憲法第20条には「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」とあります。国民は何を信じ、あるいはどのような宗教を信じ、どのような宗教を布教しようとも、それは自由である、ということですね。もちろん、さまざまな問題を起こしていく宗教活動は駄目ですが、基本的に何を信じようとも、そして何を伝えようと、それは自由であるという、信教の自由を保障するという法律が憲法第20条なのです。ですから当然、信教の自由を守るために、公教育での宗教教育は不可能なのです。ですから信教の自由を守るということは、教育現場で教育してはいけないのだということになるのです。教育基本法第9条も同じです。「教育基本法というのは宗教に対しては寛容な態度でいるべきだ」、寛容な態度でいるためには、教えては駄目だよというのが基本的な法制なのです。これは法律的にいえば、それはそうだと思います。

これら法律を理由に、「いただきます」と合掌することは憲法違反だと申し入れをしたわけです。富山県の学校の現場では、真宗王国といわれているように、ほとんどが仏教徒です。しかも多くが真宗のご門徒、また、ご住職をしながら学校の先生をしておられる方もたくさんおられます。東京は兼務なんてないと思いますが、例えば滋賀県の北部には、一つの村にお寺が三つもあり、ご門徒がいないお寺さんもおられますし、ほとんどが兼務です。普通の仕事をしながらお寺を守っておられる方々がたくさんおられます。富山でも北陸でもそうですから、そういうふうに社会の現場の中でお寺の方がたくさんおられるのですが、そういう場所で合掌は憲法違反だという問題が生じたのです。

それで、その中学校でも慌てまして、職員会議で議論をするわけです。ところが職員会議で議論しても当然、先生方はみんな、真宗門徒が多いので中止にできないのです。それで困って教育委員会に、その話題をあげていったそうですが、結果は同じなのです。富山県では、ほとんどが真宗門徒なので、教育委員会までもっていっても決められないのです。そして県議会へ、しかし県議会なんていうと、ますます決められないのです。おそらく県議が「合掌が憲法違反です」と言った途端に票が入らなくなります。つまり、宗教的信条からしても、憲法違反だという感覚がわからないわけです。実は、私にもわかりません。皆さんは、いかがですか。県議会は現場に任せると下ろしてくるんですね。それで上にあげたはずの校長先生にとっては、どうしようもないわけです。現場で憲法違反と言われるとやめざるを得ないのです。それでついに合掌を中止にしていったということです。

このことが公にされましたので各新聞紙に載り、全国的に知られるようになりました。私は個人的には残念だと思うのですが、そのことが新聞に報道されてからは、北陸地方で合掌を中止にしていく学校がどんどん増えていったのです。皆さんどうですか、合掌されています? この後のビアガーデンは合掌で始まるのでしょうか、乾杯で始まるのでしょうかね。北陸では当然合掌していないと食べられません。もっと言えば、全員が座らないと食べられないというぐらいの仏教的な習慣の中にあったわけですが、その北陸も、最近は合掌して食べることを知らない子どもたちが増えてきているのです。

私は大学で第1学年のクラスを幾つか持っているのですけれども、この合掌議論が出たときに、すぐ学生さんたちに聞いたことがあるのです。40人ぐらいの学生さんのうち、学校で合掌をしたという学生はなんと7〜8人でしたね。ただ、合掌「いただきます」という風習があるということはみんな知っているのですね。でも、多分、これから知らなくなるのではないでしょうか。

合掌しないでどう食べるのか、ある大阪の女学生ですが、「うちの学校は、合掌ではなく、『用意始め』でした」と言うのです。一応みんなの準備が整うまで待って、そして「用意始め」だそうです。終わりはどうなるか気になりますね。私は思わず「用意始めはいいけれども、どうやって終わるの?」と聞いたら「やめー」と言って終わるのだそうです。「用意始め」と「はい、やめー」で、終わるのです。確かに憲法の問題には触れていませんが…。学校はこんな状況です。そうすると食べ物をいただくという感覚がまったくなくなってくるのです。その後も富山ないし北陸のほうでは、合掌議論が続きました。しかし、最終的にあるお母さんが「いただきますも言わなくてもいい」と言い出しました。理由は分かりますか? 「給食費払っているのだから、この食事はうちの子のものです。誰に対して『いただきます』を言わなければならないのでしょうか」ということなのです。この発言は、資本的な経済のもとで物事を考えるとそうなるのです。そういう意味では正しいのです。でも、そのお母さん、どこかおかしいですよね。資本主義的な、経済的な物事の発想の中で、子どもが教育されてきたのです。そのお母さんの考え方を仏教では「世俗知」という言い方をします。

世間を生きていくために、必要とされる知恵、世間を生きていくために大事とされる知恵を、世間智というのですけれども、そのお母さんは多分世間智で生きてこられたのでしょう。世間智というものだけが教育されて、そういうものだけによって、子どもが大人になり社会を形成していったときに、人間はどうなるのだろうという問題を孕んでいます。

煽りの文化

この合唱議論、特に北陸で議論を聞いていますと、背中が寒くなるような思いがしてくるわけです。先ほど言いましたように、わけがわからないけれども、「いただきます」、「手を合わせよう」ということを、私はおじいちゃんから言われてきました。そういうわけがわからないけれども「いいから座りなさい」、「いいから、手を合わせなさい」、「いいから、いただきますをしなさい」ということが、それがそのまま宗教であるとは言いませんが、世間智のみで教育され、そのなかで評価されていくことに危惧を覚えます。この状況のなかで、宗教的な分あるいは仏教的智慧が大きな役割を担っていることは間違いないと思うのです。

この世間智というのは、簡単に言えば、子どもたちを煽るようなかたちでしか機能しないのです。「煽りの文化」です。高史明先生がよく言われますが、世間智だけで教育していく学校、また家庭でもそうなのですけれども、お母さんが子どもに対して言う言葉で一番多い言葉は「早く」と「もっと」と「頑張れ」です。これを煽りというのです。とにかくこれを言いますね、言っているでしょう。朝から、「早く起きなさい」、「早く着替えなさい」、「早く顔を洗いなさい」、「早くご飯を食べなさい」、「早く学校へ行きなさい」、多分3つぐらい同時に言っているのです。もう早くが重なってとにかく早く早くというようなことを言います。早くの反対はゆっくりですが、そのような言葉はかけないでしょう。「ゆっくり起きなさい」、「ゆっくり着替えなさい」、「ゆっくり顔を洗いなさい」、「ゆっくり学校へ行きなさい」とは、言わないですね。煽るほうに人間の文化はできています。

ある滋賀県のほうの学校の先生が面白いことをおっしゃっていました。子どもが小学校の試験で、算数のテストで50点を取ってきた時に、お母さんは「もっと頑張れ」と言います。もっと頑張って来て65点を取ってくると、今度は「もう一息頑張れ」と。今度は一層頑張って99点取ってきたら、「惜しかった」。

そして100点を取って帰ってくると、「他の教科も100点取れるようがんばれ」と言うわけです。社会全体がそうなのでしょう。要するに、教育の現場では煽る言葉しか持っていないのです。そこで「もう十分だよ。よく頑張ったね」という言葉を持たないから、子どもたちがどんどん追い詰められていくのです。

春日キスヨ先生が『よい子という病──登校拒否とその周辺』(岩波書店)という本をお書きになっていますが、よい子病という病気があるのです。とにかく全部百点取ればよい子が出来上がるのだけれども、知らない間に、そういうよい子というのは、ものすごく深い病気を持ってしまうのです。要するにしんどいからですね。いい子だと言われるけれど、本当はいい子ではないのです。本当は勉強などしたくないのです。百点取るよりも、その辺の川で遊びたいのです。自分を押し殺して生きているのですね。今の子どもたちは世間智で、磨かれて煽られて追い詰められていくのですが、私たちがいい子だ、いい子だとみればみるほど、本当の自分が遠くに行ってしまうのです。

私も時々、息子にきつく怒ることがあるのですが、その時にものすごい寂しそうな目をしているときがあります。そのときに私は奥のほうで自分で自分を見つめて悲しんでいる目が見えてしまうときがあり「申し訳ないなあ」と思います。子どもは、親からしかられ、大人からしかられ、この距離を測りながら何をしていいのか、測りながら頑張って生きているのですね。それを私たちは知らないから早く頑張れ、もっとというふうに追い詰めてしまって、頑張って全部百点を取ったらいい子だとほめて、こっちが安心したりするのですが、実は大変なことが起こっているわけです。世間智というものが中心になって教育がなされるということは、実はその子どもを育てているのではなく、いろいろな場面で追い詰めていっているところがあるということに気がつかなければなりません。

宗教智の役割

「知恵出て大偽あり」とは老子の言葉です。老子は、中国の道教の教祖で、仏陀釈尊と同じころの紀元前500年ごろの方です。知恵、つまり世間智が世の中に出まわると、大きな偽りが始まりますという意味です。

老子は「無為自然」ということを説きました。そのままということをおっしゃったのです。そのままのあり方をもって社会の中で生きる。ところが、そこに人間が、もっと儲けるには、もっと豊かにするには、もっと便利にと、その「もっと」というのがつくところに人間の知恵があるのです。その知恵が出てきたら、実は良さげに見えるのだけれども、実は大きな偽りごとが始まるのですということを老子がおっしゃっているのです。これはぴたっと当たっています。ものすごい偽りですね、現代の私たちもそうです、世界全体がそうですね。

キリスト教の聖書の指摘も同じです。基本的に宗教智というのは、世間智に対してこういうまなざしを持っているのです。宗教的な智慧というのは、世間的な知恵に対して、警鐘を鳴らしている役割を持っている。キリスト教の場合は、先ほど創世記の話をしました、人間が神さまに代わってこの世を支配するために、人間がいるのだというのが、創世記のスタートです。その次の場面に出てくるのが、有名なアダムとイヴの話です。このアダムとイヴの物語も、何を語っているのかというと、人間が持っている知恵に対する警鐘を鳴らしているのです。アダムとイヴはエデンの園で神さまから食べてはいけないと言われた禁断の果実を食べて追放されました。あの禁断の果実というのは聖書には「善悪の知識の実」と書いてあります。ですから聖書は、神さまは人間に対して、知識をつける事を禁止していたのです。知識をつけなければ、人間は神さまが創ったエデンの園で自然のままに生きていけたのです。神さまはなぜ食べるなとおっしゃったかというと、食べると大偽が始まるのを知っていたからです。大きな偽り事を人間は起こすに違いないという事を知っていたから、神さまは禁止したわけです。ところがイヴは、蛇にそそのかされて、知識の実を食べるわけです。続いてアダムも食べるわけです。そして知識をつけたことで、世界は大偽だらけとなり、人間が思うようなかたちで、この世界をコントロールしたと、ここが旧約聖書のスタートです。大きな意味では道教のスタートも同じなのです。

やはり人間が知識をつけると、問題が起こるのです。しかもそれはどんどん大きくなっていくことを、初めからあらゆる宗教は人間たちに警鐘を鳴らしているわけです。面白いのは、この二人は善悪の知識の実を食べて最初に何をしたかというと、パンツをはいたのです。いちじくの葉を採って、これを腰に巻いたとあります。要するに自分が裸であることを知って、恥ずかしくなり、隠そうとした。人間だけでしょう、パンツをはくのは。これは人間の善悪です。知識の実を食べければ、アダムとイヴは自然の中で動物たちと同じように裸で生活をし続けたでしょう。これが老子でいう無為自然です。無為というのは計らいなし、分別をしない、分別をしないかたちで自然のままで生きているということです。ところが善悪の知識が人間について、そうして人間が世界を、そして人間をコントロールし始める、そこに大きな偽り事が始まってくるのです。

先ほど言いましたように学校で教えるのは善悪の知識です。これが全面的に押し出されていく中で、知恵が出ると大偽が始まるということが学校の中で教えられていないのです。ですから、ものすごく知恵を絞ってとんでもない事を気づかぬままにやっているのです。

「邪見」という根本煩悩

仏教ではどうなのかというと、「十悪」を手がかりにお話しいたします。殺生(せっしょう)、偸盗(ちゅうとう)、邪淫(じゃいん)、妄語(もうご)、綺語(きご)、悪口(あっく)、両舌(りょうぜつ)、貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、邪見(じゃけん)を十悪といいます、殺生は殺す、偸盗は盗む、邪淫はよこしまな交わりを行うということです。妄語、綺語、悪口、両舌というのは、口に行う4つの大偽です、大きな偽り事です。殺すということ、盗むということ、よこしまな交わりをするということに加えて、そして大きなほらを吹くということ、飾り言葉を使って相手を持ち上げるということ、悪口を言うこと、二枚舌を使うこと、こういう大偽がどこから始まってくるのかというと、知識から始まっています。これが貪欲、瞋恚、邪見という三毒、つまり煩悩のことです。世間智というのは、仏教で言えば、三毒の煩悩に強く結び付けられた知恵のことです。これは旧約聖書、あるいは道教の老子が私たちに伝えようとしていることと、基本的には同じことを伝えようとしているわけです。

「貪欲」というのは要求が止まらないという意味です。これは自分にとってよいものとか好きなものにはたらく煩悩です。自分がいいと思うもの、自分が好きなものに対してはたらく心の状態を貪欲といいます。

「瞋恚」は何かというと、これは怒りの感情です。怒りの感情は、悪なるものあるいは嫌いなものに対してはたらく感情です。嫌いなものが自分のそばに来る、自分にとって都合の悪いものがそばに来ると、怒りを覚えて排除しようとする、好きなものが来るとよしと思って、自分のところに近づけようとする、これがキリスト教でいう善悪の知識です。自分にとっていい、自分にとって悪い、それに対して貪欲になったり瞋恚が起こったりするわけです。

こういう善悪の知識というものが悪を生み出していくのですが、仏教は「邪見」というものを根本煩悩と呼ぶわけです。煩悩のなかの根本にあるのが邪見です。これはよこしまな見方です。ですから皆さん、十悪を覚えなくてもこれ一つだけ今日は覚えてくださればいいのです。邪見というものがすべての大偽の始まりだと仏教は見ています。例えば、黒板に○を書きます。これは大きいか、小さいか、これだけでは判断できませんね。もう一つ○を書いて、この○と比べてはじめて大きいとか小さいとか言えるわけです。こういうふうなかたちで私たちはものを認識せざるを得ないのです。比べているのですね。比べて善・悪、大きい・小さい、すてき・すてきじゃない、全部それで見ているわけです。そして人間自身も比較して見るわけです。

例えば、そうですね、自分の子どもでも、あるいは自分の連れ合いでも何でもいいです。私もそうでしたね、はじめて子供が生まれた瞬間めちゃくちゃかわいい、絶対世界で一番かわいいと思いました。それは比べていませんからね。比べずに自分の子だけ見てものすごいかわいいと感じたのです。ところが、比べるとそうでもないのですが、そんな事は見えない、自分の子どもしか見えないのです。みなさんもそうではないでしょうか。ところが、公園デビューをしたり、幼稚園に行ったり、小学校へ行ったりすると、ちょっとずつ気がついていくのです。「うちの子どもはたいしたことのではないか。もっとかわいい子がいるし、何かあっちの子はすごく賢いし、いいなあの子は…」というふうに、親が比較を始めて、うちの子は大したことないと思うようになる。それで何が始まるかというと「何々ちゃん、見てごらん。あなたならもっとできるはずだ」、あるいは「そんなことをしたら何々ちゃんみたいになっちゃうよ」と、善・悪、分別をもって言い始めるようになるわけです。結婚もそうですね(笑)。もう一生ついて行きますとかいいながら、一年たち、二年たつと、なんかあっちがよかったなとかですね、色々出てくるでしょう。私は妻に今でも愛していると言いましたけれども、でもちょっとさめてくると、どうしても分別が入ってくるのです。自分より優れたものに対してはどちらも出てきますね、貪欲の心も出て来るし瞋恚の心も出てきますね。「うらやましいな。あんなふうになりたいな」という心が出てきたり、「あんな奴は許せない」、恐らく自分より弱いと思う者に対して一方的に出て来る瞋恚の心ですね。あんなふうにはなりたくない。あんな人と一緒にいたくない、瞋恚が出て来る、必ず人間というものは出てきます。誰でもそうなってくるのです。

貪欲が出てきて、瞋恚が出てきて、貪欲、瞋恚どちらが出てきても妄語が始まり、きれいな言葉を使って飾って、悪口も両舌も出てきます、また二枚舌が始まります。それがそのうちよこしまな交わりを始め、盗みの心が起こり、最後には何をするかというと殺生をするわけです。邪見という比較してものを見るという小さなことがスタートになって積み重なっていくと、最後には大きなものを殺し、自分より弱いものを踏み付けにするかたちで、その人の存在を殺してしまうわけです。実際に命を取るではないですよ、存在を殺していくということが始まってくるということです。これが世間智の問題として、仏教が長く言ってきたことです。

ただ愁歎(しゅうたん)の声を聞く

中国の善導大師の言葉を紹介したいと思います。「帰去来、魔郷には停まるべからず。曠劫(こうごう)よりこのかた六道に流転して、ことごとくみな径(へ)たり。到る処に余の楽なし。ただ愁歎の声を聞く。此の生平(しょうひょう)を畢(お)へて後、かの涅槃の城(みやこ)に入らん」というお言葉です。帰去来(ききょらい)という言葉は、「かえりなん、いざ」と読んでください。帰りましょうという意味です。魔郷というのは世間のことです。邪見中心の世間のことですね。「魔郷には停まるべからず、曠劫よりこのかた六道に流転して」の六道というのは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天です。これも私たちの世界です。殺生というものが行き着く先です。世間を地獄にし、餓鬼にし、畜生にしていくということですけれども、「ことごとく皆径たり。到る処に余の楽なし」とは、どこにもほんとうの楽しみはないということ、だから「ただ愁歎の声を聞く」、つまり歎き悲しむ声ばかり聞こえるのです。善導大師は「さあ帰りましょう。もう魔郷にはとどまるべきではありません。私たち人間は永遠の昔から、自らをそして他者を傷つけ殺し続けてきたのです。そのどこにも幸せな世界などなく、ただ歎き憂いの声のみが聞こえます。このような日常の生き方を超え、真に安らかなる世界を求めていきましょう」とおっしゃっています。善導大師がおっしゃっているのは、その邪見に基づくような世間智において、あらゆるところで地獄・餓鬼・畜生が起こっていて、聞こえるのは嘆き憂いの声ばかりであると。これは新聞を読んだらすぐわかりますね。毎日毎日歎き憂いの声、言葉がいっぱい出ています。そういう日常の在りかたを超えて、本当に安らかな世界を求めましょうと善導大師はおっしゃっているわけです。

基本的には分別は必要です。比較しながら生きていくということは、逃れられない私たちの生き方なのです。邪見でしかものをつかまえる事ができないのです。ただ、そのようなかたちで物ごとをつかまえたときに、それが大きな大偽を生み出すのだということを、私たちは知らなくてはいけません。そのことを仏陀釈尊はずっと警鐘を鳴らし続けておられるのです。

世間智に覆われて生きざるを得ないなかで、善導大師がおっしゃるように、そういう見方を破って、ほんとうに比べることのない世界を求めてくださいと。そういう話を学生さんたちにしなくてはいけない、それで一生懸命授業をしていたのですが、あるときすごい事を学生が言ったので、そのことを紹介して終わりたいと思います。ある授業で、欲望の話をしていたのです。煩悩の話から欲望の話になりました。それで学生さんたちに、まず好きなこと、日常的欲求を書いてもらいました。ある子は「食べたい。寝たい。遊びたい。お金が欲しい。きれいになりたい。一生楽しく暮らしたい。服欲しい。犬買いたい。結婚したい。友だち増やしたい。やせたい」と書かれていました。これは一人の子どもですが、これだけ書くのです。ある男の子は「食べる。金。寝る。買物したい。酒飲みたい。社長になりたい。デザイナーになりたい。本を読みたい」。また、別の子は「財布ギッシリ。美女といろいろ歩き回りたい。焼き肉屋、ケーキ、アイスクリームを好きなだけ食べられる。バニーガールやビキニ…」でした、ここからは言えなかったのでしょうね。あるいは「寝る時間がもっと欲しい。遊んでいたい。好きなものや欲しいものをすぐ手に入れたい」といった欲求ですね。だいたいみんな似ています。散々こういう事について書いてもらった後、では本当は何が欲しいのか、根源的欲求という言葉を授業では使いませんが、考えてみてもらいました。これは大学一年生の授業です。そうしたら何を書いたかというと、例えば先ほど「酒飲みたい。社長になりたい。デザイナーになりたい」といった男の子はこういうふうに書いています。「死と向き合っていたい。自分と向き合いたい。心が裸になりたい。心が無になったとき何が見えてくるのか知りたい」と。これ十八歳の子ですよ。あるいは、女の子ですが、「ほんとうの自分を知りたい、見つけたい、会いたい」と書いてありました。また、「自分という存在を認めてもらいたい」とありました。これが本当の欲求なのですね。日常的欲求もありますが、実は他人の視線を気にしたくない、あるいは本当の自分を認めたい、認めて欲しいというのは、さらされているからです。私たち大人が善・悪、いい子・悪い子でずっとさらして比較しているからです。だから他人と比べて欲しくない、他人の視線など気にしないで自然に生きたいのだということを直観的に書くのではないでしょうか。あるいは自分を認めてもらいたいというのもそうでしょうね。私は何にびっくりしたかというと、先ほどの善道大師がおっしゃっている言葉と同じなのですね。魔郷を去って静かな涅槃のところに至りたい、日常の生活超えて涅槃に帰りましょうと善道大師がおっしゃいました。知恵によって人が傷つくのだという事をおっしゃっているわけです。

そういう宗教的な知恵が歴史的に語ってきていた言葉を、実は子どもたちは持っていることに私は非常に驚きました。世間全体は世俗化なのです。世間智によって、子どもたちをよい子にして、社会全体を成立させようとしているのですけれども、そういうなかで子どもたちは実は違うものをずっと求め、非常に大事な願いというものを持っているのです。おそらく人間に対して発し続けてきたメッセージを最初から持っているということなのです。比較を超えて本当に自分を認めてもらいたいというふうなことを私たち大人の意識のなかに、何とか植えつけられないでしょうか。子どもたちの要求は、非常に尊くて始めからある宗教的な要求そのものなのです。

世俗化が進んでいくと、どうしてもそちらが有利になり、その基準で人間がはかられているなかで、多くの子どもたちが傷ついているということです。私たち自身もそうではありませんか。では宗教的な素養、仏教的な素養がないのかというと、実は最初から、むしろ子どもたちのなかにこそあって、それを私たち大人はきちんとくみ上げて、聞いていかなくてはならないのではないかなという事を思うわけです。

時間がまいりました。後は質疑で語り合いたいと思います。どうもありがとうございました。

(文責:蓮光寺門徒倶楽部)

木越康先生

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