あなかしこ 「門徒倶楽部」機関紙

門徒随想

在家の私が進学先に龍谷大学真宗学科を選んだのは一冊の本との出会いがきっかけだった。宮本輝の『春の夢』だ。青春小説を暗く彩っていたのが主人公を取り巻く環境で、なかでも恋人が陽とすれば友人は陰の忌むべき存在として描かれていた。その友人が繰り返し呟いていたのが『歎異抄』の一節だった。「いづれの行も及びがたき身なれば」。分からぬまま陰気な雰囲気にひかれるように私は進学し、在学中は遊びほうけ、紆余曲折あって6年前から仏教関係の仕事に就いている。だが、私が『歎異抄』に「出逢ったかな」と思ったのは恥ずかしながらごく最近のことだ。

2年前の冬、私は失恋をした。相当に入れ込んでいた相手だけに、またその数週間前には指輪をもらっていたこともありショックは大きかった。たぶん人は突然、大事な人を喪ったらこんな心の経過を辿るのだろう。衝撃と戸惑い、次に怒り、恨み、相手や自分を責める。私は私の執着心から脱出できなくなってしまった。塗炭の苦しみだった。そのまま日が過ぎた。

ある日、いつものように朝からドロドロと悩んでいると急に身体が動かなくなった。恐ろしくなったその時、アッと気づかされた。自分のどうしようもなさにだ。ああ、そうかと思った。「悪」はそれまで外(他所)にあり、ふとした拍子に私にやって来るものと思っていたが、それこそが私だった。つまりは生きていることと同義なのだろう、と苦しみながら思い至ったときに、親鸞聖人のいわれる「いづれの行も及びがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」という言葉がつよく実感された。そうして、しみじみと知らされた。「凡人や凡夫だとたやすく使い、また凡人でありたくないなんてよくいってきたけれども、凡の人であることを気づくのは何と大変なことなのだろう」と。私は私がとても恥ずかしく、この日が自分の人としてのスタート地点だとありがたく感じている(なお、感激をぜひとも伝えたく、私をふった相手にメールで送ったが返事はもらえなかった。残念なり)。

親鸞聖人に出逢うのは、己に出逢うことだと思う。私は出逢っているだろうか。蓮光寺の門徒倶楽部、そしてお寺の行事に参加させていただくとき、そう思う。いつもありがとうございます。

上野ちひろ(31歳、出版社勤務)

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