今、いのちがあなたを生きている

教えからのよびかけ、問いかけとしてのいのち

「健康であっても、病気であっても、僕は僕、そのままの僕なんだよ」。ある友人が私にそう言った時、御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」という言葉が強く心の中に響いてきました。そこには、彼の、今、ここに生きて「ある」ことに“何の不足もなし”という堂々とした姿がありました。

今日ほど、いのちが見えなくなり、感じることができなくなっている時代はないのではないでしょうか。「いのち」は現代のキーワードだと言えるでしょう。しかし、そのいのちの内容をきちんと吟味することがないままに、いのちという言葉が一人歩きしているのが現実だと思います。そこで「いのち」と言う、現代の言葉をあえて用いて、その深い意味を教えからのよびかけ、問いかけとして表現したのが御遠忌テーマといっていいのではないでしょうか。

真実の教えとは、私たちの考えや理解を超えて人間の目覚めを促すものです。その超えたものを私たちに何とか伝えたいと、言葉にまでなって呼びかけるのです。言葉は教え(真理真実)にふれるための手がかり、つまり「方便」です。御遠忌テーマは、言わば教えの言葉であり、真実の教えを顕し続けられてきた釈尊、親鸞聖人をはじめとした先達のお勧めの言葉だと私自身はいただいています。

私は、お寺のさまざまなところに御遠忌テーマを掲示しています。門徒さんだけでなく、色々な人が見ていきます。「何を語っているのだろう」という会話をよく耳にします。「いのち」という言葉はやはりインパクトがあり、多くの人に何か強くはたらきかけてくるのでしょう。教えの言葉は解釈や概念ではありません。あくまでも苦悩を抱えている身に感じられるものです。「何だろう」という問いの起こることが教えとの大事な接点になっていくのです。テーマの短い言葉ですべてを語ることはできませんが、テーマからのよびかけを通して、自分の苦悩と向き合ってみる、そして教えそのものを聴聞していく歩みのなかで、本当の意味でこのテーマからよび返されるのではないでしょうか。

仏教は「如是我聞(にょぜがもん)」の歴史です。つまり「私は教えをこのように聞きました」と教えに生きた人びとの歩みそのものが仏教の歴史なのです。テーマからのよびかけに一人ひとりがどう応えていくのかという一点が大切ではないでしょうか。テーマは答えではありません。あくまでもよびかけなのです。そのよびかけに応えていくことが、自己自身に出遇うことであり、仏教の歴史、もっと言えば本願念仏の救いの歴史に参画していくことなのです。


この文章は、『名古屋御坊』(名古屋別院)2月号に掲載された蓮光寺住職執筆の「御遠忌テーマに思うこと (1)」を転載したものです。